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 耳を澄ませば、声が聞こえてくる。鳥や虫、人とは違う囁き。今日もまた庭園の木が誘う。熟れた実を食べて欲しいと。


 侍女や近衛に告げても相手にされなかった。子供の戯言だと、母が不干渉を命じたからだ。


 たまりかねて、踏み台を持って庭園に出た。頭上の紅い果実に手を伸ばす。食べて欲しいと願うのなら、願いを叶えてやりたかった。


「何をしている」


 果実をもぎ取った瞬間、声をかけられた。よろけて台を踏み外し、芝生の上に転げ落ちる。手の中から消えた果実を探す前に、必死で立ち上がって声の主に挨拶をした。


「ごきげんうるわしゅうございます」

「何をしているのかと聞いているのだ」


 声の主が再度告げる。数えるほどしか会った事のない暴君の姿に震え上がって、鈴なりの果実を指し示す。


「食べてと、たのむのです。ですから実を取ってしまおうと」


 なんとかそう答えると、暴君は兜の下で嘲るように笑った。厳しい手が伸びて、右手を掴み上げる。


 そのまま雑草でも抜くように、引き立てられた。


「お前、あの木がどういう木かはわかるか」


 歩きながら暴君は問う。もつれそうな足を動かしつつ首を横に振ると、更に嘲笑が降った。


「あれは実を食った動物を殺して、死体を種子の養分にする植物だ。上手いこと利用されるところだったのだぞ」


 その意味が、当時はよく理解できなかった。


 しばらく乱暴な散策をして、庭園の一画に辿り着く。シロツメクサの群生の合間にツバメランが伸びる広場で、暴君は放るように手を離した。


「ここなら、お前につまらぬ事を吹き込む植物も無いだろう」


 一時、立ち尽くす。暴君の行動に対して、どのような言葉を告げれば良いのかがわからなかった。


「もうしわけございません」


 一番口にする機会が多い言葉を告げる。途端、暴君は不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「何故謝る」


 その言葉に何も返すことが出来ず、黙り込む。より一層気を悪くしたのか、暴君は声を荒げた。


「何が悪いのかもわからないのに謝るのか」

「もうしわけございません」


 怒りの様相にたまりかねて、涙が溢れる。その様を見、些か声を潜めて暴君はなじった。


「余が悪人のようではないか」


 苛立ちが身振りに出る。暴君の前で震えていると、テラスの影から助け舟が現れた。


「声を荒げては、萎縮されてしまうばかりかと」


 周囲の植物が声を潜めた。


 不可思議な香りを漂わせ、男は暴君を諫める。見覚えはあった。いつも暴君の傍らで静かに佇む兵。将軍と呼ばれている男の言葉に、暴君は言い訳じみた返事をした。


「手頃な遊び場に連れて来てやったのに、礼の一つもない。憤慨して然るべきだろう」


 それが暴君の求めていたものだったのだろう。今更礼を告げようにも、火に油を注ぐ結果になりそうで、黙り込む。


「珍しいですね。他人を気にかけるとは」


 一方、将軍は平然として、不敬にも思える発言をする。


「子供は臣下とは扱いが違います」

「それぐらいわかっている。わかっているが、お前に言われると腸が煮え繰り返るようだ」


 白熱する将軍と暴君の間に挟まれ、狼狽る。小さくなっていると、再び暴君が怒声を浴びせた。


「そもそも、何故アレに騙されるのだ。あんなにわかりやすい植物も無いだろうに。教える者はいないのか」


 とばっちりのような言葉に身を竦める。あの実が毒だと言うことも、植物の声が聞こえたという話を真に受けてくれたのも、暴君が初めてなのだ。何をしていようと、何を聞こうと、誰も気にかけてはくれない。実の母や、父でさえも。


「だれも、教えてはくれませんでした」


 自分自身の言葉に、何故だか気落ちしてしまう。暴君も呆れているのか、続く言葉は無い。見上げるのが恐ろしくてひたすら地面を眺める。あんなに饒舌だったツバメランも、今は不穏な囁きしか溢さない。


 命を奪った匂いがする、と。


 視界の隅で、暴君がため息と共に腕を伸ばした。


 先程引き立てられた時よりもずっと強く、腕を握り込まれる。


 思わずいつもの謝罪が滑り出そうになる。それを堰き止めるように暴君は告げた。


「ならば、余が教えてやろう。植物のことも、その耳との付き合い方も」


 存外優しい声だった。


 暴君を見上げる。


「ありがとうございます」


 溢れた言葉は、先程まで堰き止められていた謝罪の言葉ではなかった。


 暴君に導かれ、再び庭を行く。その傍に、将軍も随行した。


 外套が翻る度、あの不可思議な香りが微かに漂う。


 血の匂いだ。


 そのことに気付いて、何故だか胸が高鳴った。







 無音の温室で目を覚ます。


 生成りの天蓋をぼんやりと見つめ、半覚醒の揺蕩うような心地を味わう。


 懐かしい人の姿を見たような気がした。今はもういない人、会うこともない人。かつての幸せな記憶が、魔女を酷く心細くさせた。


 微かに震えたのは、寂しさからだけではない。布団に肩まで潜り込み、起き上がる覚悟を決める。


 半地下の温室の中とはいえ、流石にこの季節は冷え込む。覚悟を決めて布団を跳ね除けると、冷気が滑り込んできた。


「寒い寒い」


 独り言を呟き、熱を温室内に循環させる窯へ向かう。外気温が十度を下回る時期は、温室の持つ保温や断熱機能だけでは心許ないため、ストーブを使って室内を暖めている。それでも厳しい底冷えが、こうして魔女の寝台に忍び寄るのだ。


 熱気を通す管の上に腰掛ける。土を通した柔らかな温かさが心地良い。元々ベンチとしても活用出来るように設計されたものだが、あまりにも寒さに耐えきれない時は、この管の上で眠ることもある。


 騎士様は大丈夫かしら。


 口から上った白い息を見つめ、離れで過ごす「弟子」の心配をする。こうも冷え込むと、簡易なストーブしかない離れは辛いだろう。


 元々不自由な騎士なのだ。不便をしていないだろうか。


 毛織物に包まり、温室の外に出る。黒い森の縁に白光が滲む。夜明けは近い。足元で霜柱がざくざくと子気味良い音を立てた。


 離れの戸を叩く。明かり取りの小窓の向こうは真っ暗で、誰かが蠢く気配も無い。


 よく寝ているのだろう。そう思うことにして、足元に目を落とす。


 霜柱が砕けた痕が水源まで続いていた。無論、魔女が歩いた跡ではない。


 霜柱の標を辿る。静謐な水辺に、白銀の騎士が立ち竦んでいた。一瞬、その姿が魔女の知る騎士とは掛け離れて見えて、立ち止まる。


 霜柱が崩れる。


「魔女殿?」


 庇を下ろし、騎士は振り向いた。縛の帯は全て解け落ちている。今の彼は、この光景のような心象なのだろう。


「おはようございます」


 言葉が見つからず、有り合わせのように挨拶をする。騎士もまた挨拶を返した。


「ハクチョウを見ていたのですか」

「ええ」


 水面を揺蕩うハクチョウは、長い頸を羽根に埋め、微睡んでいる。昔どこかで見た彫刻がこんなモチーフだった事を思い出して、魔女はため息をついた。


「綺麗ですね」

「本当に」


 暫し、二人はハクチョウを眺める。


 やがて全てに等しく訪れる朝が、温室を照らし出した。


 ハクチョウが頸をもたげ、白い巨体を震わせる。体をほぐすように羽ばたくと、此方を注視するように嘴を向けた。


「見つかってしまいましたな!撤収しましょう」


 そそくさと騎士は立ち去ろうとする。振り向きざま、兜の奥で大きなくしゃみが響いた。


「大丈夫ですか?」

「少々冷えてしまって」


 拘束服が震える。持ち出してきた毛織物を差し出すと、騎士は恭しく受け取った。


「温室の中で暖まってから、朝食を取りましょう。少し早めですけど」

「いやいや、二度寝をする訳にはいきません」


 二人連れ立ち、温室へと戻る。


 蜂蜜に漬けたブシュカンのお湯割に、秋の間に取り溜めたキカガクヒシの澱粉でとろみをつける。窯の側で暖を取っている騎士に杯を手渡すと、跳ね上げた庇の下から美味しそうに啜った。


「ありがとうございます、魔女殿……いやはや、美味しく出来上がりましたな」


 冬に備えて仕込んだ蜂蜜漬け等の保存食は、何れも食べごろだ。騎士が手を貸してくれたおかげか、今年は例年よりも種数が多い。食べ飽きることは無いだろう。


 魔女の分の杯に口をつける。生のままでは苦くて食用に適さないブシュカンも、蜂蜜に漬けると持ち前の風味を存分に楽しむことが出来るようになる。弾けるような香りととろりとした甘味が、冷えた体を温めてくれる。


 悴んだ指先が温度を取り戻したところで、朝食の支度をする。蜂蜜漬けのついでに、他の保存食も使ってしまおう。パンケーキに何種類か少量ずつ合わせるのも良いかもしれない。


 粉の残量を確認し、計量する。お湯割を飲み干した騎士が声をかけた。


「魔女殿、何か手伝う事はありますか」

「そうですね」


 騎士の方を振り向く。落ち着きはないが、何処も縛められていない姿を見て、魔女は頼みを告げる。


「こちらの皿に、卵を二つ割り入れてもらえますか。そこの籠の中に何個か残っていたはずです」

「了解であります!」


 上機嫌な様子で卵を探す騎士を、魔女は僅かな間見守る。


 ここ最近、騎士が縛められる事が、減ってきた気がする。


 「自由」な騎士の手伝いのおかげで、手際良くパンケーキが焼き上がる。簡単に作れる平焼きの粉物は、様々な国で食されている。魔女の母国はもちろん、騎士にも馴染み深いものだろう。


「故郷を思い出しますな」


 器用に平鍋を振りながら、騎士は呟いた。


「家の者が、こういった菓子をよく作ってくれました。薄い生地を折り畳んで、果物と一緒に軽く煮詰めるのです」


 果たして、早朝の食事が出来上がる。魔女一人が使っていた卓に皿を詰め、共に朝食を取る。


 誰かと食事をするのは、本当は苦手だ。会話をするのも沈黙するのも、息が詰まって味がわからなくなる。けれども騎士と囲む食卓は、それまでの食事とは違って、随分と気が楽になる。


 パンケーキに木苺の砂糖煮とチーズを乗せ、フォークとナイフで包み込む。折り畳まれた生地を切り分け、断面を眺めて一人満足する。その様を眺めていたのか、騎士が声をあげた。


「あっ、それ。美味しそうでありますな」


 魔女の手元を示し、同様に保存食を包む。パンケーキの包みは庇の下に消えた。一口で収まった朝食を思って、何故だかどきどきしてしまう。


「少し無作法でしたか」


 照れ隠しのように騎士は笑う。魔女も少し後ろめたくなって、釣られて微笑んだ。


 食事の後は、「秋冬の業務」に手をつける。日が高くなって少し暖まってきた温室で、まずは目録を開いた。


「随分と埋まってきましたね」


 学名をなぞる。その隣には、温室内のどこに配置してあるかを示した記号。頁を捲れば、数ヶ月前までは空行だった場所に何種類か書き出した跡がある。


「今日はラベル落ちの確認をしましょうか」

「先日目星をつけた鉢ですな」

「はい」


 魔女と言えど、植物の全てを網羅しているわけではない。書籍や論文を片手に同定するのが普段の手法だ。


 今残っている植物は、手元の書籍では同定することが出来なかったものばかりだ。


 そのため先月、魔女は手紙を認めた。


「もしかしたら、領主様の元に書籍が届いているかもしれません。そちらを受け取りに参りましょう」


 書籍等資料を購入する費用は、魔女に許された「権利」の一つだ。本来ならば魔女が連絡をせずとも、最新の書籍や紀要が中央から送られてくるはずなのだが、随分昔に形骸化してしまっているようだ。現在は魔女が手紙を送り、更に一月は待たないと手に入らない。


 今日はその、一月後だ。


 魔女宛の荷物は、一度最寄りの集落に預けられる。それから領主によって温室に運ばれてくるのだ。


 この寒空の下、老いた彼を離れた温室まで向かわせるわけにはいかない。


「では、街へ向かうのですね」

「はい。準備をお願いします」


 クジャクを探しに行った騎士の背から、手元の目録に再び目を落とす。一度目録を閉じ、奥付を開く。記された責任者の名は魔女ではない。その名を眺めて、暫し思い出に浸る。


 温室の前管理者が亡くなって、何年になるのだろうか。とても気まぐれで、短気で、理不尽な人。そんな人の唯一の趣味が、植物を育てることだった。


 公務の間、僅かな休暇は必ずこの温室に立ち寄り過ごしていた。そんな時、決まって管理者は魔女を連れて来た。


 彼が何故魔女を気に入っていたのか。正直なところ、今でもわからない。血縁を重視するような人ではなかった。実の息子ですら、彼には忠告も出来なかったのだから。一番しっくりと来たのは、自身と同じ加護を持つ魔女にシンパシーを感じたのではないか、という仮説だった。彼もまた、声なきものの声を聴く人だった。


「魔女殿ぉ」


 騎士とクジャクが駆けてくる。既に鞍を背に乗せ、目隠しで頭部を覆ったクジャクが正面の騎士を軽く突く。威嚇や不満ではない、構ってほしいという合図だ。


「いつでも出立出来ますとも」


 意気盛んな騎士に急かされ、厚手の外套を羽織る。そうして改めて、騎士の服装を眺めた。拘束具と毛織物だけでは、今日の寒さは凌げないだろう。


 少し考えて、離れに仕舞い込んだ前管理者の外套の存在を思い出す。


「騎士様も、そのままでは寒いでしょう。外套を使いますか?」

「それは有難いのですが、大きさが……」

「離れに男性用があるのです。お下がりになってしまいますが、そちらを試してみてください」

「男性用?」

「ええ、前任の物です」


 騎士と共に再び離れを訪れる。長らく魔女は戸を開けず、また騎士も一度も把手に触れていないのであろうクローゼットを探る。


 樟脳の香りが染み付いた外套を引き出し、騎士の肩に合わせる。


「……少し小さいかもしれませんね」

「袖を通してみましょう」


 外套を受け取り、羽織る。その様子を見て、魔女は何だか寂しい気持ちになる。


 もっと大きなものだと思っていたからだ。


「うん、問題無いと思いますが、どうでしょう魔女殿」


 張った肩まわりを気にしながら、騎士は毛織物を首に巻く。サイズはともかく、寒さは十分に凌げそうだった。


 騎士と共に温室を発つ。凍てつく空気の中、風を切りクジャクは駆ける。元は南方の生物だが、此処の冬にも適応出来る。「友好の証」として様々な国に贈られるのは、そういった理由もあるのだろう。


 門の前でクジャクの背から降り、手綱を引く。朝の賑わいもそろそろ落ち着く頃だろうか、少し寂しい市場を通り、領主の館へ向かう。


「今日は我輩も、領主殿にご挨拶を」


 そう告げて、騎士はクジャクを留め置く為に馬小屋へ向かった。扉の側に立つ兵に挨拶を告げる。


「おはようございます」

「これは殿下。御息災で何よりです」


 兵が扉を開ける。小走りでやって来た騎士も兵と挨拶を交わし、屋内に入った。


 家令が廊下の対向から歩いてくる。頭を下げようとして、隣の騎士に気付いたのか二の足を踏んだ。


「おはようございます。朝方に申し訳ございません。私宛に荷物は届いていますか?」

「ええ、届いております。こちらへ」


 応接間へと通される。長い机の端に、めっきり老け込んだ領主が掛けていた。


「ようこそおいでくださいました、殿下」


 領主は立ち上がり、机の短辺の席を魔女に勧める。魔女が掛けると、向かって右側に領主が、その奥に騎士が腰掛けた。


「今日は随分と冷えますね」

「ええ。街も静かなものです。体調を崩すものが出なければ良いのですが」

「もしもの時は、まだ薬草の貯蔵がいくらかあります。いつでもお知らせください」

「有り難い申し出です……」


 女中が木目の美しいワゴンを押し、応接間に入る。温かい紅茶と菓子を配膳して、一礼をした。女中と入れ替わりに先程の家令が書籍を抱え入室した。


「失礼いたします」


 差し出された書籍を受け取り、見開きの奥付に目を通す。最新の分類体系と総覧。発刊年は去年だ。


「それと、此方は今朝届いたものです。即座に温室へ向かおうと思っていたのですが」


 書籍よりも恭しく差し出されたのは、厚ぼったい封蝋で閉じられた手紙だった。封筒を受け取り、ただただ蝋の紋章を眺める。


 暫くして、家令からレターナイフを借り受ける。滑らかな紙に刃を滑らせ、二つ折りの手紙を取り出す。


 高圧的な、懇願の言葉が並んでいた。


 息をつく間もなく読み終える。素早く手紙を折り畳み、領主を向く。


「急ぎの用件ではないようです……書籍を預かってくださりありがとうございます」

「とんでものうございます」


 そうして、紅茶に口をつける。騎士はというと、既に自身の分の菓子は平らげていた。


 暫しの歓談の後、魔女と騎士は温室へと速やかに帰る。温室の勝手口を開けると、日が当たって温められた空気が体を包んだ。


「分類の前に」


 外套を脱ぎながら、魔女は自身の「義務」を話す。


「手紙の返答を認めます。少し時間がかかるかもしれませんが、その間騎士様はご自由になさってください」

「ほほう」


 騎士もまた外套を窮屈そうに脱ぐ。


「では我輩、その書籍に目を通しておきます!勉強です」


 そう言って、本を預かり受けた騎士は辺りを見回しながら何処へともなく歩いていく。おそらく、魔女の邪魔にならない読書場所を探しているのだろう。


 手紙と筆記用具を共に、魔女は朝食を食べていたテーブルにつく。


 何から書き始めたものか。


 もう一度手紙に目を通して、魔女は苦悩する。


 手紙の用件は、元将軍についての事だった。


 彼を、中央に留められないか。


 その為なら、魔女を中央に呼び戻す事も、地位の向上も、かつての縁談の再考も辞さない。


 そんな内容だった。


 答えは決まっている。


 何をしても、彼を留めることは出来ない。彼にはもう、新しい主がいるのだから。


 かつて引き止める事が出来なかった魔女に何が出来ると言うのだ。


 返事を書き記そうとする度に、筆先が震える。


 彼がずっと傍にいてくれるなんて、幼かった頃は傲慢にも信じて疑わなかった。


 でも彼は去った。次の主を見つけるために。


 死の淵で先代の管理者が告げた「助言」が何度も木霊する。


 その日も、今日のような寒空だった。






 豪奢な天蓋の下、暴君は浅く呼吸をする。


 枯れ木のような腕に手を添え、容体を見守る。


「……お前か」


 掠れた声が哀しかった。


 花を替えに来ました、と告げる。


「そろそろ、春が来ます。その時は一緒に温室へ行きましょう。そのころには、球根も花の盛りを迎えているはずです。だから、それまでに」

「もう、長くはない」


 唇を噛みしめる。


 崩御する。いつかはやって来る別れが、今眼前に迫っている。その恐怖が日に日に精神を蝕んでいく。


「お前に見せてやりたい花もあったが……遺せるのは、居場所と植物くらいか」

「そんな事、言わないでください」

「温室の管理はお前に任せる。お前が、彼処の主人だ」


 暴君の手を握る。


「よしてください。お祖父様も一緒に……あの人も共に、また温室へ行きましょう」

「彼奴か」


 乾いた笑い声が響く。


「彼奴を好いているのか」


 将軍と呼ばれる男の名を、暴君は呟く。


「……はい」


 項垂れる。暴君と将軍、その二人の前でだけ、「人」として存在する事が出来た。だからこそ愛した。祖父と、あの血の匂いのする人を。


「アレは、やめておけ」


 暴君が囁く。


「彼奴は余が死ねば、何処へなりとも去り行くだろうよ……主と認めた者への忠誠心はあっても、愛だの情だのを持ち合わせてはいない」


 何よりも利己的な男だ。


 その言葉だけが、大部屋にしんと染み渡った。


「それでも、愛しています」

「秕に水を注ぎ続けることに、お前が耐えられるとは思えない」


 暴君の声が、現とも知れぬものになって行く。


「独りになるのが恐ろしいか。それでも、案ずる事は……」


 言葉は続かず、静かな呼吸に代わった。


 部屋を去る。窓向こうの寒空だけを映し、ただただ廊下を歩む。


「殿下」


 呼び止めた声は、件の将軍のものだった。血の匂いを辿るように振り向く。


「……離れまで伴しましょうか」


 よっぽど足元が覚束なかったのか。あるいは、心中を見抜いたのか。将軍は淡々と提案する。


 その問いに応える余裕は、無かった。


「貴方を、愛しています」


 渇いた喉が縋るような声を通す。


「お祖父様と貴方だけが、私に気付いてくれた。声を聴き、心を通わせてくれた。だから、お願いです」


 途切れそうな言葉を必死に紡いだ。


「私を独りにしないで」


 将軍は立ち尽くす。水面のような瞳に、哀れな小娘が映し出されていた。


 そうして長い沈黙の後に、将軍は答えた。


「お許しを」


 その時、「魔女」は独りになった。






「魔女殿」


 頭上から声が降る。


 顔を上げると、目の前に書籍を抱えたままの騎士が立っていた。


「どうしましたか。もしかして、クジャクに読書の邪魔をされたとか」

「それもあるのですが」


 騎士は魔女の傍らへと歩み寄る。片膝をつき、兜の面を上げた。


「今は、寄り添いたいと思ったのです」


 頬を暖かいものが伝った。顔を逸らし、手紙を片手で覆う。


「申し訳ありません。恥ずかしい姿を」

「何を仰いますか!」


 騎士は椅子を引き寄せ、腰掛ける。


「我輩、どうも心配で」


 顔を覗き込むような視線は無かった。騎士なりの配慮なのだろうか。


「……昔の事を思い出しただけです」


 目の縁を指の背でなぞる。


「祖父がいた頃の日々を、何故だか最近よく思い出してしまうのです」

「祖父殿、ですか」

「ええ」


 騎士の言葉には、少なからず驚きが含まれていたように感じた。そうして何か思い当たったように、椅子にかけた外套を見つめる。


「もしかすると、温室の前管理者が祖父殿なのでしょうか」

「はい」


 魔女は目を伏せる。


「祖父が私に遺してくれた、居場所です。何処にいても必要とされていない私が、独りきりで居ても良い場所」


 中央に居場所のない魔女にとって、帝立温室は「終の住処」とも呼べる場所だ。寄り添う人は居ないが、植物が傍に在る。此処で魔女は静かに、植物と動物を相手に暮らして行くはずだった。


 闖入者が現れるまでは。


「優しい祖父殿だったのでしょうな」

「……正直なところ、小さい頃は祖父が怖くて堪りませんでした。短気で、高圧的で。でも面倒見が良い人でもありました」


 騎士の考えるような、「優しいお祖父さん」では決して無かった。そんな彼に、魔女は気に入られた。


「様々な事を教わりました。植物の事、目や耳の事。彼には感謝してもしきれません」


 耳を塞ぐ術を教えたのは祖父だ。発狂する迄も無く、毒草を食べて死ぬはずだった魔女に、植物との付き合い方も教示した。


 彼が、魔女を今の魔女にしたのだ。


 書きかけの手紙を返し、席を立つ。気分転換をしよう。業務に集中すれば、今の鬱々とした気持ちも多少は晴れるはずだ。


「文面を考えるのに、疲れてしまいました……騎士様、先に作業の方を進めてもよろしいでしょうか」

「勿論です!」


 快諾した騎士が、暫し動きを止める。


「む、その作業のことなのですが、魔女殿」


 停止の後、騎士もまた席を立つ。真新しい書籍の頁をめくり、何かを探し当てたのか大きく開いた。


 小口に新記載種と記されている。


「もしかしたら、あの名前のわからない植物はこちらにあるのでは?」


 そうして本を携え、植え込みの中へ入って行く。慌てて魔女も後を追う。


「これです、これ」


 騎士が示したのは、少し蕾を綻ばせた単子葉植物だった。秋の段階では鱗茎だけの状態だったが、あれよあれよと育ったのだ。少し肉厚の剣のような葉に、ユリを思わせる蕾。まだ開花はしていないが、既に僅かな芳香がある。


 そして最大の特徴は、全草が闇夜のような深い黒であること。これは既存のどの種にも当てはまらない。


「えーっと、単子葉でしたな」


 しゃがみ込んだ騎士が項目を丹念に調べ始めた。植物の特徴を一つ一つ見つけ、綱、目、科、属と絞り込んでいく。魔女の教えを総動員する騎士を、傍らで見守る。


 紙面をめくりなぞる指が、一点を指し示した。


「こちらでは」


 確認するように、騎士はその項目に記された概要を読み上げる。その中には確かに、「全草が漆黒」という特徴があった。


 素早く目を通した魔女は、命名者と学名に目を奪われる。


「りりうむ……でしたかな、ユリは。で、種小名が、おでぃー……」


 兜を傾げ、騎士は学名の発音に苦悩する。しばらくして、「でも意味はわかりますとも」と開き直った。


「献名、そうでしょう」

「……はい」

「命名者の親族なのでしょうか。あるいは、お世話になった師匠とか」


 ちらりと庇の向こうから、視線が向けられた。少し困惑するような、案ずるような視線。


「……良い名前ですな」

「いいえ。もっと、種の特徴を表した学名にするべきです。後学のためにも、その方がわかりやすいでしょう」


 頬を上気させ、魔女は呟く。


「そう言っていたのに、どうしてこんな、名前を」

「献じられた方の名前のことです。良い名前ではありませんか」


 熱い雫が、裾を握り込んだ手の甲に滴り落ちた。先程よりもみっともなく自身が泣いている事に気がついて、魔女は涙を拭った。


 何故、こんな名を付けたのだろう。自分以外は呼ぶこともなかった魔女の名を、遺そうとでもしたのだろうか。


 何を想って。


「魔女殿」


 騎士が手拭いを差し出す。少し汗の匂いの染み付いたそれを有難く受け取って、目元に当てる。


「ここまで心動かされたということは、此方の命名者が」

「生きていた頃は、何も言っていなかったのに」


 嗚咽を漏らす。視察の折、外交の折、祖父は植物を持ち帰ることも多々あった。その中に、この新記載種があったのだろう。


「……命名に不満があると仰いましたが、魔女殿。我輩、この花と学名はこれ以上無い贈り物だと思います。愛を感じるのです」

「愛、ですか」


 魔女は笑う。


「だからこんなに、悲しいのですね。私を愛してくれた人はもうどこにも居ない。この植物を見るたびに、そのことを突きつけられる」


 孤独な模式標本の植わった鉢に手をかける。あの時、春が来るまで彼が生きていたら、この花を共に見ることが出来たのだろうか。


 魔女が独りになることも、無かったのだろうか。


 蕾を見つめる魔女の傍、騎士は上体を揺り動かす。帯に縛められてはいない。どこか苛立ちを滲ませながらも、凛とした声で騎士は物申す。


「魔女殿、我輩も悲しいです!」


 唐突な言葉に、魔女は蕾から騎士の兜に目を移す。


「先程から魔女殿、まるでこの世に自分は独りきりとでも思っていらっしゃるような表情ばかりではありませんか。我輩それが非常に、なんと言いますか、悲しいやら腹立たしいやら」


 騎士は自身の胸に手を当てる。ぐいと庇が魔女に詰め寄る。


「ここに、不肖の弟子がいるではありませんか」


 どこかに針が刺さるような、僅かな痛みを感じた。


「我輩、魔女殿のことを敬愛しております。こんな我輩を見捨てる事なく、音を上げる事なく、知識を惜しみなく与えてくれる。此処に、置いてくれる……そんな魔女殿を独りにした覚えはありませんよ!」


 騎士の剣幕に気圧され、魔女は呆けたように兜を見つめる。


 彼の言葉が胸の内に沁み渡り、痛みも寂しさも氷解していった。代わりに、少しこそばゆいような自責の念が込み上げてきた。


「……そうですね。騎士様が傍に居てくださったこと。そんな大切なことを、失念してしまっていたなんて」


 ありがとうございます。


 そう告げると、騎士は満足げに頷き……正気に返ったように慌て出した。


「ああ、えっと、つい語気が。我輩、魔女殿を励ましたかったのです」

「ええ。わかっていますよ」


 照れ隠しか、騎士は挙動付近な様子でラベルを作り始める。武骨な指先が小種名を丁寧に書き記すのを見て、魔女の唇が知らず知らずのうちに綻んだ。

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