春の前に
冬が終わる。
微かに雪が残る中、ほんの僅かなひと時だけ咲き誇る花を眺める。
カタクリ、マツユキソウ、シンジュボユリ。林床を埋め尽くす花々の中に、足を踏み入れることを躊躇してしまう。儚い風景を暫し楽しみ、魔女は踵を返した。
水源の周囲を歩き、温室へと戻る。勝手口を開けた魔女の元に、慌ただしく騎士が駆け寄ってきた。
「魔女殿、花が!」
弾む騎士の言葉に、此方も胸を高鳴らせる。共に植え込みを覗き込むと、黒い花弁が綻んでいた。周囲に漂う芳香も姿形も、魔女の名を持った植物の特徴と合致していた。
万感の思いを抱き、暫し花を見つめる。
「……もう少し時が経ったら、分球するかもしれません。そうしたら、株を増やすことが出来ます」
目録の情報から鑑みるに、この一株が唯一栽培下にある模式標本なのだろう。万が一に備えて増やす必要がある。
それが魔女の責務で、せめてもの孝行だ。
「花の名も、これで確定ですな」
「そうなりますね」
もう一度ラベルを確認する。記された学名が少しこそばゆい。
これで、この温室に所蔵されている植物は全て確認した。目録も既に照会済みだ。
魔女と騎士は示し合わせたわけでもなく、ため息をつく。
「一つ、大きな仕事を終えました」
そう魔女が告げると、騎士はそわそわとした声音で問う。
「これから、どういたしましょう……?」
「勿論、たくさんこなす事はあります。それに」
節目がちに呟く。
「まだ、騎士様に教えていないことは沢山あります」
面頬の向こうで、騎士は明らかに安堵した。その安堵も即座に、騎士の挙動不審な動きに掻き消される。
「では我輩、干し草を運んで参りましょう!」
肩を大きく回し、騎士は温室の勝手口へと向かう。干し草を待つ間、魔女はバオバブの観察を行うことにする。最近、ウロに巣食っているはずのムササビを見かけないのだ。
遠い原産地では家屋としても使われるという、巨木のウロを覗き込む。伽藍堂の空間は、少し湿っぽくて確かな生命の息吹を感じた。足元に僅かに堆積したフンも、そろそろ集めて肥料に出来るはずだ。キ、と微かな鳴き声を確認して魔女は退出する。
バオバブ周辺のベッドの様子も観察する。キンケイショウの蕾は滞りなく上がってきていて、バラも以前強めに剪定したせいか形に崩れは無い。腹が減っているのか催促するように甲羅のヘリを押し付けるゾウガメの頭を撫でて、魔女ははたと気がつく。
もう、一年近く経ったのか。
茫然とする魔女の鼻腔を、微かな土と雨の匂いがくすぐる。
あの日もこんな日だった。
遠雷が響き、勝手口から湿った風が吹き込む。
其処に、闖入者が立っていた。
「此方の管理者に、用がある」
硝子を震わせるほど強く響く声が、雨音と共に温室内を満たす。
伯鳥嘴の兜から溢れる赤い髪。堂々たる姿には見覚えがあった。
女騎士の目が魔女を捉える。射すくめるような視線に一瞬気を取られ、魔女は静かに答えた。
「はい。私が此処の管理者です」
魔女の言葉を待たずに、女騎士は目を見開く。
「貴女は、以前」
「……領主の館で一度」
「いえ、もっと前に。聖別祭の折に来賓としていらしていたはずだ」
跳ね上げた庇の下の眉尻が申し訳なさそうに垂れた。詫びいる女騎士を止め、椅子と卓のある寝台前へと促す。
「雨に打たれてしまったのでしょう。此方へ。何か温かいものと共に……御用件を伺います」
魔女がそう告げると、女騎士は再び注意深い目つきをした。そうして重装備とは思えないほど静謐に、魔女の温室の中へ立ち入った。
目録を片付け椅子を引く。女騎士は一礼し、着席した。
一休みする時に騎士が淹れてくれた薬草茶に湯を足す。新しい杯を用意して、魔女は女騎士に向かい合うように腰掛けた。
十分に薬草茶が温まるまでの間、魔女は名乗る。その名に合点がいったように、女騎士は目を丸くした。
「やはりそうでしたか」
「聖別式に招かれたのも、遠い昔のことです。よく覚えていらっしゃいましたね」
「……噂に名高い帝国の将軍殿と槍を交わしたのが、式で行われたトーナメントでした。その際に花を授けていたのを」
そこまで告げて女騎士は気まずげに目を逸らした。魔女も昔のこそばゆい記憶を思い出し、僅かに赤面する。
「かの将軍も、今は退いたと伺いました」
そうして、どこか憤るように女騎士は両手の指を組む。
「辺境伯の後見のようなことをしているとか。しかしそれなら、貴女の」
「彼が望んだことなのです」
騎士であるが故に、女騎士にとっては将軍の行動が負に落ちないところもあるのだろう。確かに側から見たら、長年仕えた主君を捨てたように見えるのかもしれない。将軍自身、一度魔女に詫びたことがあったのだ。
現在の将軍の境遇は、魔女にとっては複雑なものだった。心苦しい一方で、憑物が落ちたような開放感がある。
「私は、彼の心を動かすことは出来なかった」
だが、今の彼が仕えている人は違った。
だから諦められたのだろう。魔女の想う将軍は、血の匂いを漂わせた、何処か人らしさの剥離した男だった。
将軍は人になった。変わらないのは魔女だけだ。
「……ごめんなさい。御用件をお聞きしましょう」
女騎士も目的を果たさなければならない。ティーポットを取り、彼女の言葉を促す。神妙な表情で話を聞いていた女騎士は、薄い唇を開く。
「もう一人、この温室にいる」
思わず震えた指を治めて、茶を注ぐ。杯を片付けたのを見ていたのだろう。あるいは此処に来る前、領主の館に居たときにでも耳にしたのか。
「一年前、人を雇ったと聞いています。庭師見習いとも弟子ともつかない、我等と同じ備えを持った拘束服の男を」
「……はい。確かに、私の仕事を手伝ってくれている方が一人」
「彼と話がしたい」
一旦、魔女は口を閉ざす。胸騒ぎだけが大きくなり、耐えられず不安を溢した。
「何故でしょうか」
女騎士は口を噤んだ。答えを探すような表情を見て、魔女は迫る。
「彼は、何をしたのですか。何者なのですか」
未だに騎士の断片しか知らない魔女は、やっとの思いで問う。
女騎士の目が哀しく揺れた。
「我々の神を暴いてしまった」
鳥も虫も、息を潜める。
「神秘と信仰を、聖騎士が汚したのです。それも、他ならぬあの方が。最も清廉であった騎士が」
卓に雫が滴った。脂汗を拭うこともせず、女騎士は一点を見つめる。
「彼と共に過ごしたのなら知っているでしょう。あの鎧のことを。騎士道を体現する、せざるを得ない、呪いです」
女騎士の動揺が手に取るようにわかった。彼女の恐怖を魔女は見つめる。
「あれは正しいことだったのだと、我々は信じなければならない」
その言葉には、魔女の理解を超える信奉が滲んでいた。
彼女もまた、縛められているのだ。見えない革帯に。
徐に女騎士は杯を取る。落ち着いた所作で茶を飲み、一つ溜息をついた。
「……連れていくのですか」
魔女は縋るように尋ねる。杯の中を見つめたまま女騎士は答えた。
「彼は聖墓に戻るべきです。あの服が許した『正しい行い』なら、尚更」
しかし。
暫し沈黙の後、辿々しく言葉を紡ぐ。
「彼の死を望む者も、帰還を待つ者も、多くいます。何れにせよ、銀月卿は祀り上げられてしまった」
革帯が僅かに解けた。女騎士の苦悩を垣間見、魔女は声をかけるべきか惑う。
神への信奉とは別に、彼女は騎士を慕っているのだろう。
「彼なら、新たに我々を導くことが出来るのかもしれない。そう思いもするのです」
杯を置き女騎士は席を立つ。それに応えるように魔女も机から離れた。
「銀月卿は何処に」
一転、冷徹な言葉が放たれる。
外にいる。一言そう答えれば良い。
しかし意に反して、魔女の唇は引き結ばれたままだった。
女騎士に告げる言葉を模索する。
「彼を」
甲高い鳴声が響いた。女騎士が剣を構える間も無く、茂みを飛び出したクジャクは真横を駆け抜けて温室の入り口へ向かう。
「駆雀?」
困惑したように巨鳥を目で追う女騎士が、ある一点に焦点を当てる。魔女もまた、入り口に立つ拘束服の男に気付き、身を竦ませた。
いつもなら真っ先に挨拶をするのに、いつまで経っても騎士のよく通る声は響かない。干し草を積んだ猫車の押し手を握ったまま、騎士はただ立ち尽くしていた。
魔女は目を伏せる。
いつものように。
いつものように、愛想良く、底抜けに明るく、返事をしてほしい。
「赫焉卿」
伯鳥嘴の兜から聞こえたのは、魔女の意に反して低い声だった。
いつか、月光の下で聞いた声だ。
彼女の通り名らしきものを呟き、騎士は猫車から手を離す。腕も足も縛められたまま、背筋だけを伸ばした。
たったそれだけなのに、騎士は威容を取り戻した。
「久しく」
そう告げた騎士に赫焉卿は歩み寄る。揺らいだ赤髪の合間から、何か感情を秘めた瞳が覗いた。
「ああ」
やっと。
伸ばした手が無骨な籠手を取る。
女騎士は項垂れ、微かに何事か呟いた。
暫し、二人の騎士は黙したまま立ち尽くす。
最初に口を開いたのは、銀月の騎士だった。
「魔女殿」
邂逅を見守っていた魔女は、かけられた声に身を竦ませる。胸の疼痛が激しくなった。
「少し、話したいことが」
焦燥に駆られながら返事をする。
「はい。外しましょう……」
「貴女と、話をしたいのです」
そう告げて、騎士は客人に向き直る。
「暫し、席を外してくれ」
女騎士が口を開く。言葉が出る前に、騎士は先回りをした。
「無論、去りはしない。彼女に誓って」
誓約を立てる騎士を赫焉卿は見つめる。数拍後、目を伏せて一礼した。
「外に居ります。では、後ほど」
手短にそう告げて、女騎士は拘束服の騎士の隣を歩き抜ける。硝子越しに、赤い髪が去って行った。
魔女と騎士、二人だけが温室に残される。
何処かで獣が小さく鳴いた。
「魔女殿、驚いたでしょう」
いつもの声音で騎士が囁く。兜の奥で何処かきまりの悪そうな笑い声が響いた。
「……我輩の古い知り合いなのです」
「ええ。少しお話を聞きました」
「そうでありますか。なら、改めて紹介をする必要もありますまい」
「貴方を探していたと、話がしたいと、仰っていました。そして悩んでもいました。騎士様を、国へ」
声が震える。
不安が堰を切った。
「ここを、去るのですか」
帯と肉体の軋む音が途絶え、騎士はだらりと腕を下ろした。
「魔女殿」
銀月卿は傅く。
いつか見た姿を魔女はただ見つめる。
「我輩、まだ教わっていないことが沢山あります」
他でもない魔女の言葉だった。
「貴女の知識を、此処の全てを教授願いたいと、言ったではありませんか」
それが。
貴女が。
声までもが縛められたように、男は言葉を切る。しかしすぐに、己が自由であることを思い出したのか、大きな手で魔女の右手を包む。
「神を見失い、空虚な騎士道だけを纏った我輩の、唯一の導なのです」
微かに震えていた騎士の手が不意に力を緩める。
そして一層力強く、優しく、白い手を握りしめた。
「それに我輩、貴女を独りにする気はありません」
冬の日のしんとした静けさが、耳の奥に蘇った。
「魔女殿。この不肖の弟子を、愚かな男を、どうかお側に」
かつての聖騎士にして魔女の弟子は懇願した。
大きな掌から細い指がすり抜ける。
そうして再び、手を重ねた。
硝子の向こうで、二人の騎士は語らっている。紅い女騎士の静謐な横顔が微かに憂いを帯びた。
拘束服の騎士の手には、いつか魔女が手に取った剣がある。以前と変わらず薄汚れた剣を赫焉卿は検分した。
こびりついた汚れを見とめ、女騎士は目を伏せる。再び言葉を交わした後、鞘に納めた剣を受け取った。
剣を抱え、赫焉卿は礼をする。再び顔が上げられた時、彼女と魔女の視線が交わった。迷いのない足取りで女騎士は温室へと再び入る。
「痛み入ります」
温室の主と相対し、一礼する。神経を張り詰めたような機敏な礼とは裏腹に、女騎士の表情はどこか閑やかだった。
「……銀月卿を、人にしたのですね」
そう告げて女騎士は薄く微笑む。安堵と僅かな諦観が、瞳に滲んだ。
「かの騎士は人狼に成り果てることもなく、森の奥地で無様に屍を晒していたと、伝えましょう」
剣が鞘と擦れあい、心地よい金属音をたてる。
「さすれば私も、皆も、目が醒めるはずです」
女騎士は踵を返す。
温室の入口でもう一度式礼をし、赫焉卿は去った。
燃えるような紅い髪が見えなくなるまで、騎士と魔女は見送る。永遠にも思えるような時が過ぎた後、騎士は口を開いた。
「我輩、死んでしまいましたな」
底抜けに明るく騎士は笑う。それが騎士の処罰なのだろう。彼に帰る場所は無い。迎え入れる人もいない。社会において、騎士は死んだのだ。
白銀の兜を直視出来ず、魔女は俯く。
「では、改めて魔女殿」
俯いた視界に騎士が入ってきた。傅く騎士を慌てて立たせる。
「あ、改めてとは何でしょうか」
「無論、再雇用です」
拘束服の胸を張り、騎士は告げた。
「我輩に知識を。この温室に住う生きとし生けるものの全てと、世界の一端を、ご教示ください」
対価を提示する。
「その代わり、我輩は労働をしましょう。魔女殿が望めば何だって、出来る限り、たまには口も出すかもしれませんが、こなしましょう」
そうして、小さく囁く。
「お導きを」
暫し魔女は沈黙する。
両の手をおずおずと差し出し、ぺちりと冷たい面頬をはたいた。
「うおう」
「私は、貴方に知識を与えることは出来ても神のように導くことは出来ません」
早口で一思いに魔女は告げる。
「でも、貴方が私を独りにしないように、私も貴方を独りにはさせません」
共にいたい。
その言葉とともに、どこからか棘が抜け落ちた。
ずっと抱え込んでいた思いが霧散する。
息をつく魔女を見つめ、騎士もまた庇の下で吐息を漏らす。
「それが貴女の御心なのですね」
優しく愛おしげな声音だった。
思わず魔女は、庇の向こうにあるはずの騎士の目を見つめる。ふいと騎士は兜の面頬を逸らし、猫車の方へ駆けて行った。
「さて早速、作業の続きをば!」
彼を呼び止めようとして、言葉を呑む。
再び口を開いて、問いかけた。
「これからは、なんと呼べば良いのですか」
男は立ち止まる。
照れたように庇の表面を人差し指で掻き、一言告げた。
その言葉を復唱する。
影が落ち、白い羽が舞い降りた。
空を見上げると、大きな羽を羽ばたかせ、ハクチョウが彼方へと飛び去っていく。小さく魔女が声を上げると、男もまた空を仰いだ。
「渡りでしょうか」
「本来なら、秋にやって来て春に去る鳥です。夏から数えると……長い長い寄り道になってしまったのでしょう」
遠ざかっていく姿に別れを告げることも出来ず、ただ二人は空の果てを見つめる。
「また来てくれると、良いですな」
その言葉に同意を示す。
不意に、男が久しく呼ばれたことのない名を呼んだ。ほんの少しの間茫然とし、微笑む。
温室の作業に終わりはない。今日は枯れ草を敷いた後、ゾウゲヤシの菰を外し、バオバブの手入れをしなければならない。以前の春には一人で進めていた作業。でも今は、彼がいる。
春が来る前に、教えることは沢山あるのだ。




