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手拭いを濡らして首に巻く。


焼け石に水、という言葉すら口にするのが憚られるほど、容赦なく照りつける陽光の下で二人は汗を拭った。


ボダイジュの木陰に腰掛け、麦を煮出した茶を飲む。素焼きの水差しに入れていたおかげで、適度に冷えているのが救いだ。


「魔女殿」


眩しいほどに光を反射する拘束服の騎士が、息も絶え絶えな様子で呟く。


見ているこちらも上気してくるような姿だが、服の性質上脱ぐことも腕まくりをすることもできない。一応、前を大きく開いて風を通したり汚れを拭ったりできるように作られてはいるようだが、慎しみ深い騎士は魔女の前でそのような姿を見せることは無い。


それはそれで、魔女も心苦しい。必要なのは冷たい水よりも、魔女が席を外すことなのだろうか。


ともあれ、魔女は騎士の言葉に耳を傾ける。


「庭園というのは、どのくらいの広さなのでしょうか?」

「温室を取り囲むように、森のほとりから裏の水路辺りまでですね。今日の作業で、十二分の一は終わる予定なのですが」

「十二分の一」


十二分の一、と再び男は復唱する。しかし終わりが見えた事でやる気が戻ったのか、濡れ手拭いで兜を包み立ち上がった。


「それなら、このペースで行けば一日で終わりますな!なに、十二分の一どころか六分の一まで済ませて見せましょう!」

「無理をしてはいけませんよ」


魔女の忠告も右から左へ、騎士は根掘りを片手に植え込みへ向かう。


温室の中の植物だけが魔女の管理下に置かれているわけでは無い。樹海のほとりに広がる庭園や畑もまた、大切な「所蔵品」だ。


外で育てている植物には、元々国内に自生しているものも含まれている。かつてはどこにでも生えていた平凡な雑草。それらが消え行く世になって久しい。


イネ科の大株を指差し、確認する。


「これは雑草でしょうか」

「いえ、これはコウスイガヤと言って、主に虫除けに使われる薬草です。煮出してお茶として楽しむ事もできますし、精油は香水にもなるんですよ」

「なら、有用ということですな」

「有用、というのは一つの特徴です。他の植物も気にかけてくださいね……ああでも、そのカタバミは少し間引きましょう」


コウスイガヤには手を付けずに、側にひっそりと生えていたカタバミをむしる。地道な作業だが、まだ下草が十分に茂っていない区域はすぐに植生が変わってしまう。今のうちに手をかければ、だんだん安定してくるだろう。


このコウスイガヤも、あまりにも繁茂するようであれば、株を分けて処分しなければならない。


「少しだけ、千切ってみましょう」

「良いのですか?」

「どんな匂いか、どんな断面かがわかれば、同定の手がかりになります」


軍手を取った手でコウスイガヤの葉に触れる。その縁が、指の腹を滑った。


僅かに手が跳ねると、騎士が声を荒げた。


「大丈夫ですか」

「問題ありません」


そう言うが早いか、騎士は魔女の手を取った。滲む血を、只々騎士は見つめる。


革帯がひとりでに蠢き、騎士の手を締め上げた。軋む音が響く。


「おっと!申し訳ございません」


手を離し、戯けるように騎士は笑う。魔女はと言うと気が気でない。


騎士が温室にやってきて、数ヶ月が経つ。その間、魔女は彼の挙動にはそれなりに気を張っていた。拘束服で縛られる事があるとはいえ普段は野放しのままで、更に言えば「男性」であるからだ。魔女にも年相応の危機感はある。


だが魔女の警戒の一方で、騎士は怪しい挙動は一切見せなかった。よく魔女の言葉を聴き、よく働き、よく喋る。その姿は聞き分けの良い子供のようでもあった。


それでも時折、縛られる。


騎士の言葉の通りなら、それが何を意味するのか。


依然として、魔女は騎士を完全に信頼することは出来ていなかった。


その場に生えていたオオバチドメグサの葉を一枚ちぎり取り、傷に当てる。応急手当だ。その様子を、騎士は興味深く覗き込む。


「ほほお、それも薬草として育てているのですか?」

「いえ、これは偶々生えていたものです。適度にむしりましょう」


箆を草本の周りにざくざくと突き立てる。


「適度にとはまた、難しいものですな。考えてみれば、雑草といえど植物ですのに」


唸りながら騎士も手を動かした。その悩みはよくわかる。魔女も最初は悩まされていたからだ。だが答えは、この温室の存在理由がわかれば自ずと見えてくる。


「どの種も滞りなく生育出来るように維持する事が、大事なのです」


そう呟いて、魔女はカタバミの根茎を掘り起こした。


黙々と作業を続ける。抜いた雑草を猫車に集めて、次の植え込みに向かう。


「しかし……」


兜に巻いた手拭いを取り、拘束服の襟元に突っ込む。


「暑い……」

「兜を取ったほうが、熱がこもらないのでは」

「いや、兜を取るのはその、ご勘弁を」


妙なことを言いだして、騎士は木陰に入った。庇の間から茶を飲む。


「熱中症は恐ろしいですよ」

「心得ております。おりますが」


何か信条でもあるのか、頑なに騎士は兜を脱ごうとはしない。刺激するのも恐ろしいが、騎士の身は心配だ。


帽子でも見繕うか。


白銀の兜を見つめ、大きさを推し量る。兜の上に帽子というのも不思議な見てくれだが、今の手拭いを巻くだけの状態よりは良いだろう。


「お茶のお代わりは」

「ありがたく貰い受けます!」


それでも今はこうやって、水分補給を促すことしかできない。二杯目を呷る騎士の様子を観察する。


杯を即座に空けて、騎士は伸びをする。


「では魔女殿、次の花壇に」


やおら、騎士は縛められた。魔女もまた異変に気付く。


蹄の音が、聞こえてきたのだ。


「何でしょうか」


魔女は訝しむ。街からも遠い辺境の施設だ。手紙も無しにやってくる客人など、迷いの騎士くらいしかない。


だが馬を使う客人には、心当たりがある。いずれも良い思い出はない。


「……少し、見てきますね」

「私も共しましょう」


かしこまるように騎士は右手を己の胸に当てた。魔女は騎士の姿を眺め、首を横に振る。


「今は動けないでしょう」


やや、と騎士は声を上げる。腕はおろか、両足も帯で縛められている。不自由な肢体を見下ろし、騎士は笑った。


「不甲斐ない」


言葉とは裏腹に、何の感慨もない声音だった。待たせてしまう間を考えて、騎士の兜に麦わら帽子を被せる。


「動けるようになったら、作業を続けてください。すぐに戻ってきます」

「了解しました、魔女殿」


騎士に指示を出すと、朗らかに了承した。威勢の良い返事に安堵して、騎士に背を向ける。


長居をするような客人など、騎士を除いて来たことがない。縛めが解ける前に戻れるだろう。六分の一、とまでは行かないが、当初の作業範囲は済ませておきたい。


温室の外周に沿って、入り口に回る。


半地下へと続く階段の前に、見覚えのあるお仕着せを纏った青年が立っていた。


魔女は立ち止まる。


辺境に派遣されるには、随分と身分の高い人間のように思えたからだ。


温室を見るのは初めてなのか、口を開けて硝子を見つめる客人に声をかける。


「何か、御用でしょうか」


魔女の声を聞いて、青年は慌てふためいた。ぎこちなく礼をする。


「お久しぶりです、殿下」


少し前髪のかかった目元を見て、遠い記憶が結びついた。


この温室にいる間は思い出すこともなかった顔だ。


「……久しぶりですね」

「変わりはないでしょうか。近頃は何かと」

「要件は、何でしょうか」


時候の挨拶も程々に、ここへ来た訳を聞く。中央の人間が来るのは、厄介ごとがあった時だけだ。つい言葉も冷たくなってしまう。


「殿下の護衛に参りました」


だからこそ、青年の発言には驚いてしまった。


「護衛」

「はい。樹海に隣国から人狼が紛れ込んだと報告があったので、僭越ながら私めが」

「それは、誰の指示でしょうか」


青年が言葉を飲んだ。しばしの沈黙の後に、


「無論、陛下の命です」


その言葉に、魔女は違和感を覚える。「彼」は魔女の身を案じるような人間ではない。誰かが上手く仕向けたのだろう。一体それが誰なのか、脳裏に浮かんだ顔を魔女は振り払う。希望的観測だ。


「これから……下手人が捕縛されるまで、殿下の身を守るのが務めでございます」


しかし困ったことに、護衛は間に合っている。


魔女がこの温室で雇い入れた闖入者について話そうとすると、当の本人がどこかで珍妙な声を上げた。


「魔女殿!」


いつの間にやら拘束も解け、自由の身の騎士が走り寄って来た。魔女とその隣に佇む青年の姿を見て、騎士は立ち止まり、麦わら帽子を片手に優雅に礼をする。


「これは失敬!客人殿、お見苦しいところをお見せしました。しかし、一大事なのです!天変地異の前触れでしょうか」

「落ち着いてください、何があったのですか?」


目を白黒させる青年を気にしつつ、騎士をなだめるように声をかける。騎士はどこか浮き足立った様子で、


「ハクチョウが!」

「ハクチョウ?」

「ええ。ええ。我輩、あの麗しい鳥をこんなに間近で見ることが出来るとは、思いもよらず」


身振り手振りで興奮を伝えようとする。そんな騎士を見て、魔女も胸が高鳴る一方訝しんだ。


この地にハクチョウが渡り来るのは、冬季のごく僅かな期間のみだ。夏の盛りのこの時期に訪れることは滅多にない。


首を傾げつつ、騎士に聞く。


「飛んでいったのですか?」

「はい!それはもう雄大優美な姿でした」

「どちらに向かったのでしょうか」

「こちらです!裏の水源の方角へ向かったように見えました」


そのまま、騎士は目的の場所に向かって駆けていく。不自由に見えて存外すばしっこい騎士を見失わないように、魔女も後を追う。


その前に。


青年を置いてけぼりにするわけにはいかない。ぽかんと呆けている青年に、魔女は苦笑いしつつ声をかけた。


「一緒に来てください。その後で、ゆっくりお話しもしましょう」






この地でも自生しているカヤツリグサやヒツジグサが繁茂する水源のほとりに辿り着く。騎士の姿は見当たらない。辺りを見回していると、力強い羽ばたきが虚空から響いた。


空を仰ぐと、純白の翼が今まさに、水面に降り立とうとしていた。その体軀からは想像もできないほど静かに、鳥は水に浮かぶ。


ハクチョウだ。


時に紋章にも用いられる、麗しい大鳥の姿に魔女は見惚れる。その腕を、誰かがぐいと引いた。


「失礼、魔女殿」


体勢を崩して草むらに膝をつく。手を引いたのは騎士だった。先程からこの茂みに身を潜めていたらしい。すぐ近くにいたのに、魔女には微塵も気配が読み取れなかった。野生生物のような紛れ込み方に感心しつつ、魔女は騎士に手を引かれたまま身を低くする。


「見つかったら、逃げてしまうやもしれません」


騎士は囁く。


「殿下に何をする」


追いついた青年が声を荒げると、騎士は慌ただしく兜の口元に人差し指を立てた。


「お静かに」

「その手を離せ」

「貴殿も伏せてください」


互いに通じていないであろう言葉の応酬の合間に、魔女は口を挟む。


「騎士様、手を離してください」


魔女の言葉に、騎士は弾かれるように従う。


「失敬!少し強すぎましたかな」

「騎士、とは」


なおも立ち尽くしたまま、青年は呟く。あまり良い対面とは言えないが、誤魔化すように魔女は紹介する。


「彼は、温室の管理を手伝ってもらっている者です」

「そうですとも!我輩は魔女殿の弟子でありますゆえ!」


騎士は喜色溢れる声を出す。


その声に反応したのか、ハクチョウが角質化した庇を向けた。


警戒心も露わに、羽を広げた巨鳥から目を離さないようにしつつ、魔女は騎士の肩を叩く。


「騎士様、危険です」

「危険?」

「ハクチョウに襲われて怪我をする人は、少なくありません」


空を飛び、山脈をも越える飛翔力を持つハクチョウの力は非常に強い。その羽ばたきに触れでもすれば、人間の骨など簡単に折れてしまうだろう。


またそれ以上に、ハクチョウの気の荒さはクジャクの比ではない。


魔女の真剣な声音から察したのか、騎士は更に小さく縮こまる。三人の様子を暫くハクチョウは眺め、不意に目を背けた。


どうやら相手にするのは止してくれたようだ。


「気を許してくれたのでしょうか?」


騎士は嬉しそうに囁く。そういうわけではないのだが、魔女はなんとも述べられず微笑む。


「作業を中断して、温室に戻りましょう。客人とお話ししたいことがあります」

「……我輩が同席しても?」

「ええ。もう一度、ちゃんとお互いに紹介をしましょう」


そうして、隣の青年にも声をかけた。


「温室へ。ここへの道は長かったでしょう。何か冷たいものでも、いかがでしょうか」


青年は未だ心を許していないような目を、僅かに伏せた。


ここは国外れの辺境。命じられたとはいえ、年若い近衛兵が出向くには少々辺鄙過ぎる。心ばかり労うべく、魔女は温室の入口へと先導した。






水源を背にした半地下の温室は、外よりは幾ばくか過ごし易い。朝から働き詰めの騎士や早馬でやって来た青年を癒すべく、魔女は柑橘と香辛料を効かせた清涼な飲み物を振る舞った。


庇を上げ、豪快に飲み物を流し込む騎士の隣に、青年は居心地悪そうに座る。


来客が気になったのか、茂みを揺らしてクジャクが近づいて来た。ひ、と小さく青年は声を漏らす。しばらくクジャクは青年の周囲を散策した後、挨拶がわりとばかりに騎士の頭を突いて去っていった。


「いたたっ」


温室の住人として認められてはいるが、まだまだ優位には立てていないようだ。


飲料を飲み干した騎士は、水源のほとりで一度済ませた挨拶を、再び行う。魔女の弟子と名乗る不気味な風体の男を、青年は訝し気に見つめながら、気の抜けた返事をした。


「はあ」

「貴殿は護衛で来たとか……ということはもしや、貴殿も魔女殿の弟子?」

「い、いや。滅相も無い」


こちらをちらりと一瞥し、青年は答える。


「私は勅命を受けて、ここに来たのだ。殿下に弟子入りをしに来たわけでは」

「おや、そうでありましたか」


頭をかくような仕草をする騎士。その傍で、魔女は青年の動向を見守る。


どうも、腑に落ちないところがあるのだ。


「……その、護衛のお話ですが」


空になった杯に水を注ぎ、魔女は告げる。


「領主様には、お伝えになりましたか。ここと中央の伝令は彼が担っているのですが」

「即座に任に着けと、仰せでしたので」

「お父上がですか」


青年は言葉に詰まる。しかしすぐに、威勢良く返事をした。


「いいえ」


「勅命」という言葉に偽りはないのだろう。これまでもよくあった、気まぐれかもしれない。


しばし、魔女は考え込む。


この青年を中央に帰す、その為に何と告げれば良いのか。


「貴方の任を反故にしてしまいますが」


沈黙の後に口を開くと、青年は怯えるような目をした。しかし、魔女は告げる。


「護衛は、必要ありません。ここは最新の設備で十分に守られています」

「それに、我輩もおりますからな!」


続きかけた魔女の言葉を騎士が遮った。席を立ち、右手を胸に起き、堂々とした姿に青年は唖然とする。


「我輩腕は、一応、結構、それなりに、立つのです!暴力は振るうのも振るわれるのも恐ろしいのですが、やる時はやります!」


自信があるのかないのかわからない発言に、魔女も二の句が継げなくなる。客人と魔女が見つめる中、騎士は更に声を張り上げた。


「心配ご無用であります!」


どこが……。


青年はつぶやき、慌てて失言を誤魔化すように杯をあおった。


正直なところ、魔女も何が心配ご無用なのかはわからない。ただ、この騎士にそれなりに信頼を寄せているのは事実だ。


「とにかく、私のことは心配ありません」


笑顔を作る。その言葉が予想外だったのか、青年は動揺したように目を惑わせた。


「しかし、これはちょ、勅命で」

「文を認めます。それを渡せば、理解してくださるでしょう」


文の一つでも出せば、すぐに気は変わるだろう。そういう人間なのだ。


席を立ち、キャビネットを探る。便箋と封蝋を用意して、席に着いたままの青年に声をかける。


「途中、街があったでしょう。そちらにも言伝を用意しますから、一晩体を休めてください」


流石に中央までの道のりを、即座にとんぼ返りさせるのは気が進まない。魔女の提案に青年はしばし沈黙し、


「……来たのが私以外の人間だったら、処遇は違いましたか」


どこか嘲笑うように呟いた。


文を書く手を、魔女は止める。


「たとえば、」

「無意味なことです」


青年の言葉を遮る。


次いで、自身に言い聞かせるように、魔女は再び同じ言葉を囁いた。


「無意味なことです」


しばらく、魔女が筆を走らせる音だけが温室に響く。その間、青年は所在なさ気に座り、騎士は挙動不審な様子で体を揺する。その揺れがひときわ大きくなると、反動のように騎士は立ち上がった。


「魔女殿!我輩中断していた仕事を進めたいのですが!」


騎士の言葉に、魔女は作業のことを思い出す。中途半端に放り出したままだった。


痺れを切らした騎士に、申し訳なさ気に頼む。


「忘れるところでした。後の行程は、覚えていますか?」

「はい!」

「では……こちらを書く間、作業の続きをお願いします」

「了解です!」


隣国風の礼をし、騎士は青年の肩を掴む。見ているこちらが可哀想になる程、青年は跳ね上がった。


「な、なんだ」

「貴殿もご一緒に!」

「何故私が庭仕事をしなければならない」


騎士は兜を傾げる。


「はて、魔女殿の身辺を守る以外に、ここにいる間何をするつもりだったのですか?」


青年は言葉に詰まったようだ。


確かに、有事の時のみ働く人員を置くほど、此処は余裕があるわけでもない。だからこそ、騎士も手伝い……あるいは弟子として置いているのだ。


「さあ、行きましょう!目指すは一日六分の一であります!」


猫か何かを抱き上げるように、騎士は青年の脇の下に手を入れ、無理矢理立たせる。そのまま、何とか自身の足で歩きながら青年は騎士についていく。不服そうな目が一瞬魔女を見つめ、逸れた。


静かな温室で、魔女は一人文を認める。


来たのが私以外の人間だったら、処遇は違いましたか。


青年の言葉が残響のように胸をかすめる。


誰が来ようと、同じ事だ。手紙を付けて送り返すだけ。


魔女が待ち焦がれる人間は、此処に来ることなどない。


蝋燭で匙を炙る。遠い昔の光景が、揺らめく炎の中に朧げに浮かぶ。もう、諦めがついてもいい頃だろうに。


手紙に封をして、魔女は席を立つ。外の二人に声をかけて、青年には早々に帰ってもらおう。


温室の勝手口へ向かうと、後からクジャクが駆けてきた。首を一撫でする。クジャクは指を軽く噛み、何か意思表示をするように裾を引いた。


勝手口を大きく開ける。途端、クジャクは尾羽を翻し温室の裏へ走り去っていった。


どうしたのだろう。


いつもは騎士が相手でもない限り、外へ進んで駆け出すこともない。胸騒ぎがして、魔女は後を追う。


先程まで作業をしていた植え込みに、二人の影は無い。辺りを見回すと、水源の方から絶叫が聞こえた。


人と、鳥の声。


一瞬竦み上がり、再び魔女は走る。


水源のほとりに至り、茂みに倒れた青年に気がつく。


伏した青年を庇うように、腕を縛められた騎士が立ちふさがる。


クジャクが尾羽を広げ、けたたましく鳴いた。それに応えるようにハクチョウも吼える。


震える足で魔女は青年に近づく。生きているのか。いや、どちらにせよここから離れなければならない。


青年の二の腕を掴み、引き摺る。成人した男性の体は、魔女一人の非力な腕では僅かしか動かすことが出来ない。


「騎士様」


目の前の騎士に声をかける。彼もまた、今の拘束された状態では為すすべもないだろう。


「ああ、何という暴力!」


騎士は嘆息した。


拘束帯で縛められた手には、近衛兵の剣が握られている。


一瞬、魔女は怯む。


「騎士様、剣を離してください。彼を運ぶのを手伝ってもらえませんか」


騎士の手を握り、言い含めるように魔女は告げる。


峰が震えている。震えは魔女のものか、騎士のものか。


手套の指先から滑り落ちた剣が、ぬかるみに突き立つ。途端拘束が解け、騎士は膝を屈した。


「魔女殿、申し訳ございません。彼は我輩が運びます」


そうして面頬の向こうから、魔女の顔を見つめた。


「クジャクは」


騎士の言葉で、二羽の巨鳥が未だ睨み合っているのに気付く。一触即発。一度火がつけば、どちらかが命を落とす危険性もある。


温室の「収蔵品」である以前に、クジャクには思い入れがある。かと言ってハクチョウが傷つくのも困る。


渡り来るハクチョウは、国内では皇帝の所有物とされる。中央に知れれば大ごとだ。


ハクチョウが重々しく羽ばたく。そっぽを向き、水源の反対の岸へと進水する。


「魔女殿」


騎士が囁く。


「麗しい鳥のことも気になりますが、まずは彼の手当てを」


魔女の背を冷たいものが伝う。即座に指示を出した。


「私の寝台へ」


騎士の働きは迅速だった。軽々と青年を抱え、温室へと戻る。


魔女もその後を追いながら植え込みに生える外傷や痛みに効く薬草をむしる。乳鉢に放り込み、震える手ですり潰す。


寝台の青年が呻く。


弱音混じりの声を聞いて、騎士は励ましとも死体蹴りともつかない言葉を告げる。


「お気を確かに!ただの打ち身骨折ですとも、ちょっと受け身が下手だっただけです」


青年のお仕着せを捲り上げ、薬草と布を当てる。どす黒い内出血の跡に薬を塗布すると、青年は悲痛な声をあげた。


「我慢なさってください」


魔女はそうとしか言えない。


鎮静作用のある薬草を煎じるべく、酒精灯に火を灯す。


温室の外で、一声クジャクが高らかに鳴いた。騎士が勝手口に走り寄りクジャクを招き入れる。ハクチョウの嘴を用いた騎士の兜を小突くクジャクは、気は立ってはいるが外傷や不調があるようには見えない。


ひとしきり騎士を小突いた後、温室の茂みに潜り込んで消えてしまった。


「……何があったのですか」


状況を把握すべく、魔女は騎士に聞く。事の次第によっては、手紙が増えるかもしれない。


「彼が、あの麗しい鳥に剣を向けたのです」


騎士は憤る。


「あのような美しい生き物を傷つけるのは、我輩感心しません!」


苦しげな吐息を漏らす青年を見つめる。


彼も中央に仕える身なら、ハクチョウの扱いぐらいはわかっているはずだ。


なのになぜ、このような凶行を。


「違う」


青年は首を振る。


「私はただ、ここにいたくて」


うなされながらも、青年は弁明する。


「ここに居れば、父上との関わりは無くなる」

「あなたのお父上が、何の関係があるのですか」


乾燥させたハッカとニッケイ、クズを煎じながら魔女は聞く。思わず苛立ちが滲んでしまった。


「将軍が、中央に戻ってきた」


指の切り傷が疼痛を起こす。


「父上はじき失脚する。あそこにいたら、私も、」

「あの方は、貴方が恐れているようなことはしません」


上ずった声で、魔女は青年に告げた。


「後ろめたいことがあるのなら、私に縋っても無意味です。甘えないでください」


青年は言葉を飲み、ただただ荒く息をついた。


こうなっては、先の「勅命」も怪しい。観念したように青年は目を伏せた。


煎じ薬を杯に注ぎ、口元に添える。


「飲んでください。少しは痛みが和らぎます」


杯の淵から液体がこぼれた。


「魔女殿、私がやりましょう」


騎士が手を差し出す。


「お手柔らかに」


たしなめるような言葉だった。途端、体が異様に熱を帯びていることに気がついた。


深く息を吐き、騎士に杯を渡す。


湿った手套の内に杯が握り込まれる。


「さあさ、少し起こしましょう」


青年の上体を起こし、杯を添える。煎じ薬が無くなり青年の息が整うのを見届けて、魔女は口を開いた。


「……次は、騎士様の番ですね」


杯を持つ騎士の手が、ひくついた。


「何のことでしょう」

「お怪我はありませんか」

「いえ、どこにも怪我はありませんよ!」


確かに外傷は無いように見える。青年の力量不足か、あるいは騎士の幸運か。


どちらにせよ、青年がここに居たいのなら狙うべきはハクチョウではなく彼であるはずだった。


「彼が剣を向けたのは、ハクチョウではなく騎士様なのでしょう」


騎士は黙したままだ。何よりも雄弁な沈黙のように思える。


「庇ったのですか?」


魔女は問う。


騎士の手に、帯が絡む。


「いいえ。迷いが出ただけです」


縛められた体が、軋むような音を立てた。


「我輩はハクチョウを刺激しないように、彼から剣を取り上げた。そういう事に」

「そうは行きません。人に剣を向けるなんて」

「それは我輩も同じです」


穏やかに騎士は告白した。


「剣を取り、縛められたのは、そういう事なのです」


魔女は沈黙した。


夏の暑さのせいではない、肌に絡みつくような汗が首筋を伝う。


攻撃されたのなら、抵抗するのは当然の行動だ。この拘束服は抵抗までは許しても、その後の行動は戒める。


それは、騎士の矜持を著しく貶めることのようにも思えた。


「……彼が動けるようになったら、一度街に出て領主殿に身柄を引き渡しましょう」


横たわる青年を見つめ、騎士は提案する。


「ここから離れるのが彼にとっても、我輩にとっても、魔女殿にとっても、最善だと思うのです」


騎士の言葉に、魔女は頷かざるを得なかった。


夏の来客は、逃げ水のような遠い過去の記憶を掻き乱して去っていくのだろう。


後に残るのは、ただ渡り来た白鳥だけ。

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