第一章 血盟 2
水たまりに映った朝日が眩しかった。その光を跳ね散らして、荷車が通り過ぎていく。
バランの街の朝は早い。
朝市の露店に商品が並べられると、待ち侘びた客たちがさっそく品定めを始める。色とりどりの野菜や果物、塩漬けの肉にチーズ。装飾品や香辛料といった高級品を売っている店もあるようだった。
じっくり見てみたいと思う気持ちを抑えながら、ミヤはミランシアの隣を足速に歩いていた。
バランを訪れたのは初めてだった。朝からこれほどの賑わいを見せる市場の様子に驚いたミヤは、思わずミランシアに尋ねていた。
「今日はお祭りかなにかですか?」
「いや、何もないはずだが」
ミランシアが辺りを見回す。祭りの季節にはまだ早く、祝い事の飾り付けも見当たらない。
「何もないのに、これですか」
「おかげで、私たちも目立たずに済む」
改めて、すれ違うさまざまな人々を眺めてみる。籠を背負った商人や、槍を携えた兵士と思しき男たち。使い込んだ外套を身に纏っているのは旅人だろうか。中には、見るからに異国を思わせる風体の者もいた。のんびりと露店を見て回る者もいれば、広場の隅で噂話に花を咲かせる者もある。ミランシアの言う通り、この街で自分たちが特別に目立つということはなさそうだった。
しばらく歩くと、まだ看板も見えないうちから焼きたてのパンの香ばしい香りが鼻をくすぐってきた。その香りを追うようにして歩いていくと、やがてお目当ての小さなパン屋が見えてきた。ミヤの足取りが、自然と軽くなる。
店先に並んだパンに目移りしながらようやくいくつか選び、支払いをしようとすると、店主はパンのひとつを指差して微笑みかけた。
「銅貨二枚で蜂蜜がけにできるが、どうだい?」
「えっ、じゃあふたつお願いします」
ミヤは迷わず答え、店主にパンを預けた。
「べたべたして持って帰れなくなるぞ」
ミランシアが少し咎めるような顔をしたが、ミヤは店主が差し出した蜂蜜がけのパンを両手で受け取ると、そのままミランシアに差し出した。もうひとつを受け取ってミランシアの方に向き直ったミヤは、
「じゃあ、ここで食べちゃいましょう」
といたずらっぽく笑うと、手にしたパンにかぶりついた。
「行儀が悪いな」
指先についた蜂蜜を口先で拭いとるミヤにそう言って笑うと、ミランシアも自分のパンを一口かじった。
甘くてどこか懐かしい味と香りが、口の中に広がっていく。
ミランシアは、近衛隊員に転属して初めてエレーヌの行幸に随行した時のことを思い出していた。
「──ミランシアねえさまー!」
たどたどしくミランシアを呼ぶ幼いミヤが、紙の包みを両手で捧げるように差し出している。
「これは?」
「もっていってね、しみしみパン。おなかがすくと、かなしくなるでしょう?」
受け取った包みは、まだほんのりと温かかった。
ありがとう、と礼を言ったものの、蜂蜜がたっぷり染み込んだ『しみしみパン』は持ち歩きには向いていない。ミランシアはその場で包みを開けると、そのまま一口かじった。蜂蜜がこぼれた指を思わず舐めたのを、幼いミヤが目を丸くして見ている。それに気付いたミランシアは、
「お行儀が悪いから、真似しちゃだめだぞ」
と目配せをしてみせたのだった。
(──変わらないな、ミヤは)
小さく笑うと、ミランシアは手にしたパンをもう一口かじった。蜂蜜の甘みが、胸の中を満たしていくような気がした。
「これから、どうするのですか?」
パンを食べ終えて一息ついたミヤが尋ねた。
「ウィルツヴァイン傭兵団を頼ろうと思う。分かるか?」
「傭兵団? ……いいえ」
ミヤは記憶を辿るが、どうもぴんとこない。
「『メグの何でも屋』のことだよ」
ミランシアが少し呆れたように笑った。
「メグ? ……あっ」
ミヤは小さく声を上げた。そうだ。『傭兵団』の方に気を取られて、気づかなかった。
メグ・ウィルツヴァイン。懐かしい名前に、ミヤの表情が綻んだ。
「そこでは、日雇い人夫も多く使っているらしい。紛れ込めるんじゃないかと思ってる」
そう言うとミランシアは広場の方を指して、こっちだ、とミヤを促した。
広場の一角にある商業組合の案内所の前まで来ると、近くにある警兵の番小屋の前で、何人かの若者が掲示板に貼られたさまざまな貼り紙をかわるがわる眺めているのが見えた。
「兵隊か。危ねえけど食いっぱぐれはないからなあ」
「手配書、また増えてるな。一家まとめて反逆罪って、六歳のガキまで手配するかね」
若者たちの話し声に足を止めたミランシアは、ちょっと見てくる、と言って掲示板へと歩み寄った。
北の国境警備兵を募る告知が大きく貼られ、その周りには王都からの布告、そして何枚かの指名手配書が並んでいる。中には懸賞金をかけられているものもあった。
掲示板をしばらく眺めて、まだ自分やエレーヌの側近たちが手配されてはいないことを確かめると、ミランシアはその場をそっと離れた。
少し離れて待っていたミヤに、
「今のところは大丈夫なようだ」
と囁き、それを聞いたミヤも黙って小さく頷いた。
案内所の建物に入り、受付でウィルツヴァイン傭兵団への取次を頼むと、受付の若い男は、もう戻る頃なんですけどね、と言って窓の向こうを覗き込んだ。
「あっ、ほら、ちょうど」
男が指差した先に、荷馬車を囲んで街道から戻ってくるいくつかの人影が見えた。身の丈ほどの斧を担ぎ、黒髪を馬の尾のように結んだふくよかな若い女が先頭に立って、時々振り返っては周りの男たちをかわるがわる指差して大きく笑う。男たちもつられて笑っていた。
「メグ!」
小さく声を上げて、ミヤは案内所から駆け出した。ミランシアが少し遅れてついていく。
すぐに二人に気づいたメグが、目を丸くして二人の方へと駆け寄ってきた。
「ミヤーーー!! ミラっちーーー!!」
甲高い声が辺りに響き渡ると同時に、ミヤは彼女の両腕に抱きすくめられていた。
「元気してたー!? 何年ぶりだっけ! ねえミヤ背伸びた!?」
矢継ぎ早に尋ねられて、ミヤは答える暇もない。
そうしているうちに、男たちの中から一人、ひょろりとした猫背の若者が歩み寄ってきた。真ん中で分けたおかっぱの金髪が、歩みに合わせて柔らかく揺れている。
「おーい、ミヤ、ミランシアさん。久しぶり」
のんびりした口調だった。
「マルコム?」と今度はミヤが目を丸くした。
「一緒だったのか」
ミランシアも、意外そうな顔でマルコムを見つめる。
「姫の紹介で、どこかの徒弟になったと聞いていたが」
「ああ、ドルルガンの雷薬工房な。俺、材料調達の責任者になってさ。はるばるラパーヌまで行ってきたところ」
マルコムが肩をすくめた。
「今は何かと物騒だし護衛をつけろって親方に言われたから、どうせならメグに頼もうって思ってさ」
「ありがたいよね、仕事を恵んでくれる友達がいるなんて」
メグが手で口を押さえて、大袈裟に泣き真似をしてみせた。
「では、これからドルルガンへ?」
「そうだよ。今夜はここで休んで、明日からドルルガンに向けてもうひと頑張り!」
メグが力こぶを作ってみせる。
そうか、と呟いて、ミランシアが切り出した。
「メグ、ひとつ頼みがあるんだが」
「うん?」
「もしよかったら、私たちも同行させてもらえないだろうか」
「ん? どしたん?」
「姫のことは、聞いているか?」
「あ……うん……。ひどいよね……」
メグが言い淀み、マルコムも神妙な顔になった。ミランシアが声を潜める。
「姫に近かった私たちも、いつ追われることになるか分からない。しばらく身を隠せないかと思っているんだ」
「そうなんだ……。うん。いいよ、もちろん!」
メグはそう言うと、すぐ後ろにいる貧相なちょび髭の男を振り返った。
「いいよね、副団!」
突然大声を出されて一瞬飛び上がった副団長が、ぼやくように答えた。
「なんですかもう。そんなでかい声出さなくたって聞こえてますって」
「ああごめんごめん。ねえ、ちょっと友達が困ってるからさー」
「そのようで」と答えた副団長は、渋い顔をして続けた。
「ですがね、団長。お尋ね者……いや失礼。ですが、追われることになるかもしれないとご自分でおっしゃってましたでしょう? そんな人たちを二人も抱えるのは、正直荷が重い。あの王様に目をつけられでもしたら──」
彼は顔をしかめて首を横に振った。それを見たメグが、副団長に向かって満面の笑みを見せた。
「ふーん、そっか。じゃあうちは今からこの二人に雇われるから、ここでいったん抜けるね!」
「えええー! ちょっと、団長!!」
副団長は目を丸くして叫んだが、メグはもう背中を向けてミヤたちに話しかけている。
「……まったく、いつもこれなんだから……」
ぼやく副団長の肩を、後ろからマルコムがつついた。
「あのさ、俺も大事な用事ができたから、工房まで材料届けといてくんない?」
マルコムは片目を瞑って笑うと、副団長に手を合わせてみせた。
「えええー!! ちょっと、雷薬屋の旦那まで!! 嘘でしょ!?」
副団長が言い終わる前に、マルコムはもうメグの隣に歩み寄っていた。
「あとはおねがいね!」
「あとはよろしく〜」
にこやかに手を振る二人を呆然と見つめていた副団長は、やがて気を取り直したように呟いた。
「……まあ、信頼されてるってことにしときますよ」
肩をすくめて小さく笑うと、副団長は仲間たちの元へと戻っていった。
「よかったのか? ふたりとも」
去っていく副団長を見やりながら、ミランシアが尋ねた。
「いいのいいの。うちの何でも屋はね、ああ見えてあの副団長が全部取り仕切ってるんだから」
「俺も、あとは採集した材料を工房に届けるだけだし、いてもいなくても大して変わらないからな」
「二人とも、ありがとう」とミヤが言い、「まったく」とミランシアが呆れながら笑う。
メグは胸を張り、にっと笑ってみせた。
「じゃあ、行こっか。今夜は野宿? だったら、いいとこあるから!」
メグが促し、皆は連れ立って森の中へと入っていった。
焚き火の火が小さくなりかけたのを見て、マルコムが枯れ枝をまとめて無造作にくべた。思い出したように炎が立ち上がり、火を囲む皆の顔を照らす。
「よく燃えるな、これ」
「湿ってない枝を探すの、コツがあるんだよ。今度教えてあげるね」
マルコムとメグが抑えた声で話すのを聞きながら、ミヤは掛け布を肩に掛け、膝を抱えるようにしてぼんやりと焚き火を見つめていた。
ミランシアは、少し離れた場所で先に眠ってしまっている。
「なんか、懐かしいねー」
「ほんとにな」
子供の頃、時々こうして野宿をすることがあった。決して楽しい思い出とは言えない。覚えているのは、焚き火で炙った固いパンと、満天の星。森の闇に怯えた誰かの泣き声。
「覚えてるか? 血盟ごっこ。なんだか俺たち、ほんとに血盟みたいになっちまったな」
懐かしい言葉に、ミヤは顔を上げた。
「あれさー、うちいっつも魔女とか悪役やらされてたの、納得いかなかったなー」
メグが、悪役の表情をしておどけてみせた。
「たまには姫役やらせてただろ〜?」
「姫役は、ミヤばっかりじゃん! ね、ミヤ姫!」
「ミヤ姫! このマルコムがお守りいたします! ってな」
「私は──」
ミヤは少しはにかみながら口を開いた。
「ん?」
「……エレーヌ様のように、なりたかったんです」
「それで、姫役か」
「でも、なれそうもないですね」
そう言うと、ミヤは焚き火を見つめて寂しげに笑った。
「大丈夫だよ、ミヤ。うちらはうちらのできることをすればいいんだから」
メグがミヤの肩に手を置いて、にっと笑った。
「姫は、姫。ミヤは、ミヤだよ」
「できること……。そうですね」
私に何ができるんだろう。そう思いながら、ミヤは立ち上がり、肩の掛け布を体に巻きつけた。そのまま焚き火の近くで横になり、目を閉じる。
すぐに睡魔が訪れて、疲れたミヤの体を眠りの海へと攫っていった。




