第一章 血盟 1
「ミヤ、急げ」
すぐ前を走っているはずのミランシアのその声も、よく聞き取れなかった。
顔も上げられないほどの土砂降りの中を、ミヤはよろめきながら走っていた。
日没まではまだ間があるはずなのに、分厚い雨雲のせいで辺りはすでに薄暗い。雨を避けるために深く被った外套のフードが、足を運ぶごとにずり落ちて視界を遮った。
不意にぬかるみに足を取られ、ミヤは転びそうになった。ミランシアが素早く手を伸ばし、ミヤの手を掴んで支える。
「大丈夫か」
ミヤは黙って首を横に振る。泥と雨水でぐしょぐしょになった靴を見つめたミヤの頬には、青みがかった長い黒髪がひとすじ、雨に濡れて張り付いていた。
「わかった、少し休もう」
ミランシアはそう言うと辺りを見回した。やがて、あっちだ、と林の中を指差す。二人は濡れた下草を踏み分け、重い足取りで林の中へと入っていった。
昨夜遅くにアイネを発ってから、二人は夜通し歩き続けた。朝になってようやく街道脇の森の中で仮眠をとり、昼前には起きてまた歩き出した。どうにかここまで歩き通したものの、目指すバランの街まであと少しというところで突然の大雨に見舞われて、この有様だった。
林の少し奥まったところに、枝葉を広く張った大樹が立っていた。足元の落ち葉はわずかに湿っていたが、雨の当たる泥だらけの地べたよりは遥かにましだった。二人は木の根元へと歩み寄り、へたり込むように腰を下ろした。
降り続く雨が葉を叩き、時折、二人の肩へと雫を落とす。
背負い袋を肩から外して脇へ置くと、ミヤは泥だらけの靴から足を引き抜いた。靴擦れがしみて、思わず顔をしかめる。荷袋から布を取り出して足をそっと拭うと、ミヤはようやく息をついた。
「バランまであとどのくらいなんですか?」
「もう、すぐそこなんだがな」
降り続く雨を、ミランシアは忌々しげに見つめた。
ミヤは、その横顔をためらいながら見つめていたが、やがて思い切ったように重い口を開いた。
「……エレーヌ様が、処刑されたというのは本当なんですか」
ミランシアはミヤの方へと顔を向けた。
「……本当だ」
「なんで、そんなことに」
「反逆の罪を着せられたんだ」
「反逆って……。エレーヌ様がそんなことするはずがないじゃないですか」
「だが、ラウエルはそうした」
ミランシアは現国王の名を呼び捨てにして憚らなかった。
「奴は、先王陛下の公子公女全てに、反逆の罪を着せた。みな逃げるか行方不明になる中、姫だけはお逃げにならなかった」
ミヤから顔を逸らすと、ミランシアは降り続く雨を再びじっと見つめた。
──数日前。
ミランシアはアイネ市街にあるエレーヌの別邸、『蒲公英の館』へ駆けつけていた。かつては王女エレーヌとのふれあいの場として賑わっていたこの館も、今ではごく限られた者しか出入りを許されない場所となっていた。エレーヌ自身、ラウエルが王位に就いて以来、この建物から一歩も出られないままだった。
「姫、王都より憲兵隊が向かっているとの報せがありました」
息を切らして報告するミランシアを前にしても、エレーヌは表情を変えなかった。
「……分かりました。では、手筈通りに」
「……本当に、よろしいのですか?」
そう問われたエレーヌは、静かに頷くだけだった。
考え直してもらえないかと尚食い下がるミランシアに、エレーヌは諭すように言った。
「私には私の、なすべきことがあります。さあ、あなたも急いで」
「……わかりました」
片膝をついて俯くミランシアの声が、かすかに震えた。
「ミランシア」
「はい」
「これを」
顔を上げたミランシアの目の前に差し出されたのは、一本の短剣だった。
「あの子を、頼みます」
ミランシアは立ち上がってそれを受け取ると、エレーヌに向かって深く頭を下げた。何かを言わなければ。そう思うが、口を開けば嗚咽を抑えられなくなるのも分かっていた。
そうしてしばらく動けずにいると、窓の外から、憲兵たちの怒声が聞こえてきた。意を決して頭を上げたミランシアは、エレーヌの顔をもう一度だけじっと見つめて小さく頷くと、靴音をひとつ高く鳴らして踵を返した。
エレーヌの処刑が決まり、刑が執行されるとの報せがミランシアに届いたのは、それからたった二日後のことだった。
王都ローモンディア中央広場。
王城を仰ぐその場所には、大勢の市民が集められていた。今や広場は水を打ったように静まり返っていた。
顔を隠して群衆の中に紛れ込んでいたミランシアの耳に、白い衣を纏って処刑台に上ったエレーヌの凛とした声が聞こえてくる。
──謀反の王よ。
──どれだけ踏みにじられても、善なる人々の心は、決して屈することはありません。
──どれだけ冬が続こうとも、花の咲き誇る春は、必ずやってくるのです!
ミランシアの話を聞いて、ミヤは言葉を失っていた。王位にある者を、これほどまでに強く糾弾する。そんなことができる者が、いったいどれほどいるだろう。
「……姫は、何かを知っていたのかもしれない」
ミランシアの言葉が、ミヤの胸をざわめかせた。
「何かって、なんですか?」
「先王陛下はラウエルに殺された、そんな噂がある。もしそれが事実で、姫がそれを知っていたとしたら」
「そんな……」
「……だが、確かめようがない」
二人の間に一瞬の沈黙が流れた。
「それに、問題は他にもある」
「えっ?」
「姫に近かった者たちも反逆者とみなすと、布告があった」
「そんな……。それじゃあ、あなたや、おじさまも?」
ミランシアは硬い表情で頷いた。
「赤騎士団は、ラウエルに反旗を掲げるかもしれない」
ミヤの顔が青ざめた。ミヤの養父、イアン・マッケインはエレーヌの親衛隊である赤騎士団の元団長だった。桜の木の下に置き去りにされていた自分を引き取り、妻と共に育て上げてくれた彼はまた、エレーヌへの忠義の篤さでもよく知られた男だった。
「イアンは、皆の暴発を止めるために留まると言ってお前を私に託した。巻き添えになる前に逃がして、必ず守ってくれと」
「おじさま……」
ミヤの表情が暗く沈んだ。
「私には、あいつを止めることはできなかった。だが、いずれにせよ私は──」
お前を守ると姫に誓った。そう言いかけて、ミランシアは口を噤んだ。ミヤには何も言わないで欲しい。常々、エレーヌにはそう言われていた。
「とにかく、バランに行けば考えもある」
そう言ってミランシアは立ち上がると、ミヤに手を差しのべた。
「行けるか?」
「はい、なんとか」
その手につかまり、ミヤも立ち上がる。
「もう少しの辛抱だ。今夜は宿を取ろう」
やがて二人は荷を背負い、外套のフードを被り直して、再び歩き始めた。休んでいる間に、雨脚は少しずつ弱まり始めていた。
ようやく二人がバランの街にたどり着いた頃には、雨は嘘のように上がっていた。
雨宿りをしていた人々が、借りた軒先を出て、水たまりを避けながら走り出す。
不意に、街の景色がうっすら赤く染まった。見上げると、雲の途切れた西の空に夕日が沈んでいくところだった。
辺りがすっかり暗くなった頃、二人は空いている宿をようやく見つけることができた。すぐに部屋の中へ入り、扉を閉めて鍵をかける。ミランシアは濡れた外套も脱がずに窓辺へと歩み寄り、外の様子を窺った。やがてカーテンを素早く引き、隙間なく閉じる。
「今のところは、まだ追っ手はなさそうだ」
そう言うと、ミランシアはようやく外套を脱ぎ、衣服掛けに下げた。
ミヤは背負った荷袋を床に下ろすと、手拭いを取り出して、一枚をミランシアに手渡した。
濡れた髪や衣服を拭い終えて着替えを済ませると、二人はようやく息をついた。
ベッドがふたつだけの簡素な部屋だったが、今の二人にはそれで十分だった。それぞれのベッドに腰を下ろして、携行食をかじる。干し肉の塩気の強さが、疲れた体にはかえってありがたかった。
「そうだ、これを」
ミランシアは思い出したように、自分の背負い袋を手に取った。中から、蝋引き紙の包みをそっと取り出す。
丁寧に包みを外すと、革の鞘に収められた短剣が現れた。柄頭には蒲公英の徽章が施されている。憲兵隊がエレーヌの別邸に踏み込んできたあの日、エレーヌがミランシアに託したものだった。
ミランシアは黙ったまま、柄をミヤの方へと差し出した。
「……これは、エレーヌ様の?」
「そうだ。ミヤ、お前が持っているといい」
「私が? いいのですか?」
「ああ。少しは手ほどきもしてやれる」
ミヤは、神妙な面持ちで手を伸ばし、エレーヌの短剣を受け取った。思ったほど重くはなかった。それでも、その重みがミヤの心にほんの少しの心強さを芽生えさせ、そしてすぐに、全てを覆い隠してしまうような寂しさが心を埋め尽くしていく。
「今日はもう休もう。疲れただろう」
そう言うと、ミランシアは先に自分のベッドへと潜り込んだ。おやすみ、と返し、ミヤもベッドに体を横たえる。しばらくそうしていたが、ひどく疲れているはずなのに目が冴えて、ミヤはなかなか眠ることができなかった。
ミヤは一度身を起こすと、枕もとに置いた短剣を手に取った。蒲公英の徽章をそっと指でなぞると、自然と涙があふれてくる。嗚咽をこらえて、ミヤは静かに泣いた。
しばらくそうしたあと、再び短剣を置いたミヤは、静かにミランシアのベッドへと潜り込んだ。ミランシアの背中に寄り添うと、その肩にそっと手を置き、頬を寄せる。すぐに、ミランシアが肩越しにそっとミヤの手を握った。しばらくそうしてから、ミランシアはゆっくりと寝返りを打った。そのまま何も言わず、ミヤに両手を差し伸べる。その胸に顔を埋めて、ミヤはまた泣いた。ミヤをそっと抱きしめたミランシアの頬も、涙で濡れていた。




