序章 桜花
夜の街に、中宵を告げる教会の鐘が鳴り響いた。
それを合図に、ミランシアは書類をめくっていた手を止め、番小屋の窓から外の様子を確かめた。
通りを照らす篝火が、火消し番の手によってひとつずつ消されていくのが見える。アイネの街が、今夜も眠ろうとしていた。
ミランシアはゆっくりと立ち上がった。彼女がアイネ市街区の警兵隊長に任命されてから一週間。まだ馴染んでいない真新しい制帽を被り直し、向きを整える。耳に掛かった銀色の髪を払った指が、耳たぶの陰に彫られた杜松の実の紋様をそっと撫でた。
「定時巡回に行ってくる」
ミランシアは入り口で立番をしていた部下に声をかけた。
「隊長、俺が行きますよ」
「いや、お前は書類の方をやってくれるか」
新米隊長を気遣った部下を手で制すると、ミランシアは番小屋を出て宵闇の中へと歩き出した。
決められた巡回路をたどり、やがてアイネ城門前の広場へと差し掛かる。
広場の中央に立つ桜の老木が見えたとき、ミランシアの歩みが速くなった。こんもりとした桜の枝にはちょうど満開になったばかりの花が咲き誇っていたが、彼女は見向きもしなかった。
真っ直ぐに木の根元へと歩み寄ると、そこにはひとかかえほどの籐編みの籠がひとつ置かれていた。しゃがみ込み、籠の中を覗き込む。そこには、まだ言葉も知らぬほどの赤子がしっかりと毛布にくるまれて眠っていた。桜の季節でも夜は冷える。安心した様子で眠る赤子を見て、ミランシアは安堵した。
その寝顔のすぐ脇に、手のひらに乗るほどの質素な木箱が置かれている。手に取り蓋を開けると、中には銀色の指輪がひとつ収められていた。指輪を取り出して、朝まで広場を照らす大篝火の灯りにかざす。あらかじめ聞かされていた通り、指輪の外側には桜の花の意匠が、内側には異国の文字が刻まれていた。
ミランシアは指輪を木箱へ戻し、赤子の枕元へと返した。それから、赤子の寝顔をもう一度見つめる。
──生まれてくる子の名は、ミヤ。ミヤ・サクラノです。
──この子の父親が、名付けてくださいました。
(この子が、ミヤ……)
ミランシアは眠り続ける赤子を籠ごと抱き上げると、アイネの城を見上げるようにして呟いた。
「──必ず、お護りします」




