第六章 地図から消えた王国
宰相の逮捕から半月、グランデル王国は音を立てて崩れ始めた。
崩れた、という言い方は正確ではないかもしれない。腐りきった柱をたまたま宰相という蟻が支えていたのが、蟻ごと崩れた、というのが実態だ。宰相府の帳簿が判事団の手で開かれると、横領の網は貴族の三分の一に及んでいた。彼らは互いを告発し合い、領地に引きこもり、あるいは夜逃げした。夜逃げ先の隣国で「管理職経験者です」と魔王領の出張採用所に応募してきた男爵がいたが、経歴照会で全部ばれて、農場の平職員からやり直してもらっている。
問題は、王だった。
国王ギデオン三世は、宰相の逮捕を「魔王の陰謀」と断じた。半分は正しいので感心する。そして老王は、四百年の伝統に従い、最後の解決策に手を伸ばした。
開戦である。
「『王国の全臣民に告ぐ。魔王領との全面戦争を布告する。十六歳以上の男子は三日以内に最寄りの徴兵所に出頭せよ』……とのことです」
魔王城の軍議の間で、イミルが布告の写しを読み上げた。ヴァルガスが腕を組む。
「して、敵軍の集結状況は」
「はい。布告から七日が経過しました。王国全土の徴兵所に出頭した者、総勢――」
イミルは帳簿を確かめ、少し言いにくそうに告げた。
「百四十六名。うち百十二名は、『徴兵所に行けば飯が出ると聞いた』が出頭理由です」
軍議の間が、なんとも言えない沈黙に包まれた。四百年戦った敵国の、最後の動員令の結果が、百四十六名。ヴァルガスなど、怒りを通り越して悲しそうな顔をしていた。武人として、あんまりな終わり方だと思ったのだろう。
「残存の正規軍は、王都近衛の二千のみ。ですが近衛の俸給も四ヶ月止まっており、脱走が毎晩……。陛下、いかがなさいます」
「うちは何もしない。防衛配置のまま、一兵も国境を越えさせるな。……ただし、国境沿いに例のやつを立てておけ」
例のやつ、とは看板である。国境の街道沿い、王国側からよく見える向きに、うちの工兵隊が特大のやつを何本も立てた。
国境をお越しの皆様へ
魔王領はいつでも人材を歓迎します
徴兵された方も 脱走された方も
武器は門前でお預かりします
まずは温かい食事をどうぞ
本日の定食 猪肉と豆の煮込み
効果は覿面だった。というより、最後の一行が効いた。近衛二千のうち八百が、ひと月のうちに「猪肉と豆の煮込み」の列に並んだ。指揮官の近衛副長までが部隊ごと投降してきたときは、さすがに受け入れ窓口が悲鳴を上げ、アルヴィナの混成部隊が総出で臨時の食堂を回した。
その臨時食堂で、忘れられない場面を見た。
配膳の列に並んでいた若い近衛兵が、大鍋をかき回している銀髪の炊事係の顔を見て、椀を取り落としたのだ。
「し……白銀将軍!? 生きて――いや、それより、なぜ、鍋を!?」
「よそうためだが。ほら、椀を拾え。次が詰まっている」
「じ、自分は! ラウズ砦におりました! 第三歩兵中隊のミレクです! 撤退の夜、将軍は最後尾の荷車に自分を乗せてくださいました! 足を折った自分を、装備を捨てて!」
アルヴィナの手が、一瞬だけ止まった。
「……ミレク伍長。足は、治ったか」
「治りました! 治ったのに、王都に戻ったら賊軍の残党と呼ばれて、近衛に転属させられて、それで、その、俸給が止まって……自分は、何のために足が治ったのか、ずっと……」
うつむいた若者の椀に、アルヴィナは煮込みを、山盛りによそった。それが規定量の倍を超えていたことを、俺は炊事責任者として黙認した。
「食え、ミレク。それから医務室で足を診せろ。折れた足は、寒くなると痛むはずだ」
「……っ、はい! 自分、あの、将軍! 自分はまた、将軍の下で働けるのでありますか!」
「私の下ではない」彼女は次の椀を受け取りながら、こともなげに言った。「うちの職場は、隣に立ってもらう規則だそうだ」
俺の台詞を勝手に流用された件については、後日、面談の場で本人に厳重に指摘した。彼女は「よい規則は共有財産です」と反論し、面談は俺の敗北で終わった。
かくして、かつての白銀将軍が大鍋をかき回しているのを見て、近衛兵たちは涙を流しながら三杯おかわりした。
戦争は、起きなかった。
起こす兵隊が、いなくなったからだ。
秋の初め、王国の諸侯会議――貴族と都市代表の合議体が、王の頭越しに決議を可決した。曰く、「王国の全領域について、魔王領との連合統治を請願する」。要するに、経営破綻した会社の、事業譲渡の申し入れだった。
俺は受け入れの条件を三つだけ出した。一つ、全住民の雇用と生活の継続。二つ、王国法のうち身分による差別条項の全廃。三つ、未払い俸給は魔王領が全額肩代わりし、旧王国の国庫資産と貴族の横領返還金で精算する。
諸侯会議は満場一致でこれを呑んだ。というより、三つ目の条項が読み上げられたとき、議場から拍手が起きたと聞く。未払い俸給の一斉精算日、王国中の酒場が空前の売り上げを記録し、これが実質的な「合併記念日」になった。
最後まで判を押さなかったのは、玉座の老王ただ一人だった。
だから俺は、調印式の前日、一人で王城に出向いた。アルヴィナは護衛をつけると言って聞かなかったが、「退職面談は一対一でやるのが礼儀だ」と言って断った。
王城は、静かだった。仕えていた者の大半が既に「転職」し、磨く者のいない廊下に、俺の靴音だけが響いた。玉座の間の扉は開いていた。老王は、玉座に、ちゃんと座っていた。誰もいない謁見の間で、王冠をかぶり、王杖を握り、まっすぐに。
「――魔王か」
「デルガドールです。調印書をお持ちしました」
「余は署名せぬ」老王は言った。「四百年だ。四百年、余の祖は魔と戦い、この国を保った。余の代で国を魔に売ったとあっては、祖霊に顔向けができぬ」
「でしょうな」
俺は玉座の前まで進み、階段の一段目に、勝手に腰を下ろした。不敬もいいところだが、立ったまま話す内容でもなかった。
「陛下。一つ、伺いたい。四百年、何のために戦っておられました」
「決まっておる。民と国土を、魔の脅威から守るためよ」
「では守られた民は、今どこに?」
老王は、答えなかった。窓の外からは、王都の市場の喧噪が聞こえていた。宰相が消え、税が軽くなり、俸給が払われた街の音だ。皮肉なことに、王都がこれほど賑わったのは数十年ぶりだった。
「陛下。あなたから国を奪った者の名を、お教えしましょう。魔王ではありません。……未払いです」
「……なんだと」
「八ヶ月分の未払い俸給と、十一回の増税と、水増しされた軍需と、討ち死にを命じる命令書。それらが二十年かけて、この国から人を追い出した。私がやったのは、出ていく人々の受け皿を、国境の向こうに置いたことだけです。……国とは、王冠のことですか。地図の線のことですか。私は違うと思う。国とは人です。人を捨てて守った国に、何が残りますか」
それは、前世の役員会議室で、言い終える前に心臓が止まった台詞だった。二つの世界をまたいで、俺はようやく最後まで言えたことになる。聞き手が、よりにもよって敵国の王だというのが、人生の妙というものだ。
老王は長いこと、王杖の先を見つめていた。
「……余は、知らなかった。いや」しわがれた声が、玉座の間に落ちた。「知ろうと、しなかった。宰相の差し出す帳簿は、いつも美しかった。美しい帳簿だけを見て、余は良き王のつもりでおった……」
「美しすぎる帳簿は、大抵、誰かの悲鳴でできています。私の総務課長の言葉です」
老王は、ふ、と息だけで笑った。それから王杖を膝に置き、震える手で、調印書を引き寄せた。
「魔王よ。署名の前に、一つだけ問う。……余のような老いぼれにも、その、おぬしの領では……仕事は、あるのか」
「面接に来られますか」
「ゆ、優遇はせぬのか。元国王だぞ」
「うちは経歴より人物本位です。……ですが、そうですな。王城の庭園は、あなたが若い頃、ご自分で薔薇を接がれたと記録にありました。あの庭は合併後、市民公園になります。庭を知り尽くした庭師長を、一名探しておりますが」
老王の手が、止まった。
「……あの薔薇を、覚えておる者が、まだおったか」
「記録は総務の財産ですので」
グランデル王国最後の王ギデオン三世の署名は、少し滲んでいた。インクのせいだと、記録には残しておいた。
こうして、四百年戦争は終わった。
最後の戦死者は、双方ともゼロ。グランデル王国は地図から消え、「グランデル自治州」として魔王領の隣に並んだ。歴史家は後にこの合併を「求人票戦争」と名付けることになるが、当事者としては異議を唱えたい。
あれは戦争ではない。ただの、少し大きな中途採用だった。




