エピローグ 隣に立つ規則
合併から三月後の朝、魔王城の大広間で、新体制の発足式が行われた。
旧魔王軍と旧王国軍は正式に統合され、名前を変えた。もう攻める相手がいないので、軍ですらなくなった。新しい名は「魔王領防災救助隊」。オークの膂力と、ゴブリンの機動力と、人間の工兵技術を併せ持つ、大陸最強の災害対応組織だ。初代総司令には、満場一致で一人の人間が推挙された。
式のあと、俺は執務室で、山積みの辞令に判を押していた。ドッソ・ブラム、監獄改め更生支援施設の施設長。オルテンシア・メイエ、初代法務長官。バルド・クローム、王立――ではなくなったので領立工房の指物師範。フィオナ・ロートレックは城下に薬局を開き、姉の部隊の医療顧問を兼ねている。先週は「姉を働かせすぎです」と俺に抗議文を送ってきた。いい妹だ。抗議は正式に受理し、姉の有給消化計画を提出させた。
ギデオン翁は、王都の市民公園で薔薇を接いでいる。先日の視察では、孫ほどの年の見習い庭師に「水のやりすぎじゃ」と説教していた。良い職場に収まったと思う。
扉が叩かれた。
「陛下。総司令拝命の御礼に上がりました」
アルヴィナだった。式典用の白い制服。銀の髪。三年前の嵐の夜、泥の中で首を差し出した将軍と同じ人物だとは、もう誰も思わないだろう。よく眠り、よく食べ、よく笑う顔だ。
彼女は執務机の前まで来ると、ふ、と真顔になった。そして腰の剣を鞘ごと抜き、両手に捧げ持って――床に、跪いた。
「おい」
「発言をお許しください。……あの夜、私はこの剣を、あなたの前の泥に置きました。首の代わりに部下を、と。あなたは剣を拾って、私に返してくださった。返された剣を、私は三年、預かっているつもりで振るってきました」
彼女は顔を上げた。まっすぐな、定規で引いたような視線だった。
「今日は、あらためて差し上げに参りました。今度は取引ではありません。俸給も、地位も、何も要りません。アルヴィナ・ロートレックの剣と忠誠を、生涯、あなた一人に捧げたい。――受け取っていただけますか」
窓から朝の光が差して、掲げられた剣の鞘を光らせていた。俺は判を置き、机を回って、彼女の前に立った。
三十年の人事人生で、俺は何千という誓約書を見てきた。雇用契約、秘密保持、競業避止。だからこそ分かる。今、目の前に差し出されているものに、当てはまる書式は一つもない。忠誠という言葉を使ってはいるが、これは――これはどう読んでも。
「総司令。まず職務上の回答をする。その申し出は受理できない」
彼女の目が、見開かれた。
「うちの職場ではな、生涯の忠誠だの、無償の献身だのは、労働基本法第二条違反だ。働きには必ず対価を払う。例外は魔王にも認められん」
「……では……」
「だから、職務外の回答をする」
俺は跪いた彼女の手から、剣ではなく、その手そのものを取って、立たせた。
「対価はこちらも生涯で払う。剣じゃなくて、あんたの隣にいる権利をもらえるなら。……その、なんだ。つまりだな」
五十五年生きて、面接なら何万回とやってきて、この一言がこんなに難しいとは思わなかった。
「アルヴィナ。俺と、結婚してくれ。うちの職場では、こういうのは上下関係じゃなく、隣に立ってもらう規則なんでな」
沈黙があった。
それから彼女は、剣を取り落とした。がしゃん、と派手な音がして、白銀将軍とあろう者が、耳まで赤くなって、口を開けたり閉じたりした。
「わ……私は、その、忠誠のつもりで、いえ、忠誠だけの、つもりでは、確かに、その」
「落ち着け。返事は『はい』か『承知しました』でいい」
「し、承知しました………」
定時の鐘が鳴った。
窓の下の練兵場から、聞き耳を立てていたらしい防災救助隊三千と魔物たちの、地鳴りのような歓声が上がった。プライバシーの概念について全体研修が必要だな、と思ったが、まあ、それは明日でいい。
後日談を少しだけ。
婚約の報せに、城はしばらく通常業務が困難になった。ヴァルガスは「陛下の婚儀の警備計画」と称して全長二十枚の作戦図を持ち込み(想定脅威の欄に「感極まったそれがし」と正直に書いてあった)、イミルは祝賀予算の起案を涙で滲ませて三回書き直した。城下のフィオナは薬局を早じまいして駆けつけるなり、姉ではなく俺の前に立ち、「義兄さんと呼ぶのは、姉を定時に帰し続けた実績を三ヶ月分確認してからです」と宣言した。全く正しい。うちの職場に欲しい人材その二だ。
ギデオン翁からは、祝いの品として薔薇の鉢が届いた。添えられた札には、庭師らしい几帳面な字で「接ぎ木は、切り口同士を合わせることから始まる。異なる木でも、よく合わされば一本に育つ」とあった。元国王の再就職先が詩人でなくてよかったと思う半分、王だった頃にこの言葉に気づいていれば、と思わなくもない。だが人事は過去の査定より、次の配置だ。薔薇は城門の脇に植えた。門をくぐる新入りが最初に見る場所だ。
俺の二度目の人生は、会議室ではなく、たぶんこの城で終わる。ずっと先に、隣に彼女がいて、定時の鐘が鳴る夕方に。
悪くない待遇だ。
自己査定は、Aをつけておく。
(完)
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