第五章 求人票は剣より強し
王都グランデルヘイムは、遠目には美しい街だった。
白い城壁、七つの尖塔、大聖堂の金の鐘。だが城門をくぐって三歩で、俺は都市の「決算書」を読み終えていた。石畳の補修が三年は止まっている。市場の呼び込みに声の張りがない。壁という壁に増税の布告が貼られ、その横に脱走兵の手配書が並ぶ。手配書のほうが数が多いのは、もはや皮肉ですらなく、ただの統計だった。
俺たちは東方から来た人材周旋業者「ゴーダ商会」を名乗った。俺が商会主。アルヴィナは記録係――銀の髪を染め、眼鏡をかけた姿は、本人の副官ですら二度見するほど印象が変わった。イミルは俺の外套の内ポケットが定位置。ヴァルガスは魔力で角を隠し、護衛役に収まった。収まったのだが、
「商会主どの! この串焼き屋、五本頼むと一本おまけと申しますぞ! 交渉の余地があるのでは!?」
「声が大きい。護衛は静かに威圧的に立ってろ」
「はっ! 静かに威圧的に串焼きを!」
「買ってやるから列に並べ」
潜入三日目までに、諜報部の先行調査と俺たちの足で、標的三名の「困りごと」は出揃った。
夕刻、宿の一室。イミルが宙に三枚の調書を広げた。
「一人目。王都監獄看守長、ドッソ・ブラム、五十一歳。勤続三十二年。俸給五ヶ月未払い。老母が肺を患い、薬代のため家財を売却中。なお本人は毎晩、自腹で囚人の粥に麦を足しています。監獄の予算では水しか出せないからだそうです」
「……看守が、囚人の飯を自腹で」アルヴィナが眉を寄せた。
「二人目。王都司法院判事、オルテンシア・メイエ、四十四歳。フィオナ嬢の『裁判』の担当判事。十日前、宰相府から判決文の『草案』を事前送付され、そのとおり読み上げるよう命じられました。彼女は抗議の意見書を三度提出し、三度とも握り潰され、現在、辞職願と告発状の下書きを自宅の床下に隠しています。ちなみに司法院の未払いは七ヶ月」
「三人目。王都処刑人、バルド・クローム、三十八歳。処刑人の家系の九代目。……この方の調書は、少々変わっております。読み上げます。『対象は過去五年、処刑執行の前夜に必ず大聖堂を訪れ、死刑囚の名を告げて祈っている。趣味は木工。囚人用の食器を無償で削って納品している。適性検査所見――本人が最も処刑されたがっているように見える』」
部屋が静かになった。
ヴァルガスが、串焼きの最後の一本を持ったまま、ぽつりと言った。
「……陛下。それがしは四百年、人間とは残虐な種族だと思うておりました。だが、これは」
「どこの組織も同じだ、ヴァルガス。腐るのは頭からで、現場は最後まで人間をやめないんだ。……よし、面接の準備をする。イミル、条件提示書を三通。それと、例の刷り物は届いたか」
「本日、五千枚。城下の刷り師が、代金を聞いて震えておりました。『こんな大口は戴冠式以来だ』と」
俺は刷り上がった紙束の一枚を手に取った。我ながら、剣より物騒な代物だった。
求人 魔王領 大量採用
職種 問わず 経験 問わず 種族 問わず
俸給 前職の実績を考慮の上 必ず毎月払い
週に二日の休み 食事三食 医療手当あり
未払い俸給にお困りの方 当領が相談に応じます
処刑も 粛清も 見せしめも 当領にはありません
働く者の国 魔王領
「配布は建国祭の前夜から一斉に。それまでは一枚も撒くな。……さて」
俺は上着の襟を正した。
「面接に行こうか」
看守長ドッソとは、監獄裏の酒場で「たまたま」隣り合った。
薬代の高騰をこぼす行商人(俺だ)に、彼は自分の母親の話を少しだけした。俺は東方の薬師団の話をした。腕のいい薬師を大勢抱えていて、医療手当のある職場の話を。彼は笑って「夢物語だ」と言った。俺は名刺を置いた。彼は三日、来なかった。四日目の夜、酒場の同じ席に、彼は座っていた。
「……あんた、ただの周旋屋じゃないな」
「ええ。ですが、条件書に嘘は一行もありません」
「俺は看守長だぞ。今の監獄には、あの娘がいる。建国祭に処刑される、薬師の娘が。……俺が今辞めれば、あの娘の最後の飯は、麦なしの水粥になる」
この人は、そういうことを言う人だった。調書のとおりに。
「ドッソさん。うちの条件書には続きがあります」俺は二枚目を出した。「貴殿の入社日は、建国祭の当日付。引き継ぎ業務として最終日まで通常勤務を。それと――囚人の処遇改善は、貴殿の入社後の担当業務に含まれます。麦入りの粥どころか、日替わり定食を出せる職場です」
「……建国祭の、当日付?」
彼は条件書を穴があくほど読み、それから、ゆっくりと顔を上げた。三十二年、鍵束を握ってきた男の目が、初めて鍵を開ける側の目になっていた。
「あんた……何をする気だ」
「処刑のない国から来た、ただの採用担当ですよ。……お母様の薬は、契約金として本日中に手配します。入社のご判断とは切り離して結構」
判事オルテンシアの面接は、もっと短かった。
夜、彼女の自宅を訪ねたのは俺とアルヴィナの二人だ。扉を開けた判事は、記録係の眼鏡の奥の顔を見て、凍りついた。
「あなた……ロートレック将軍……! なぜ、生きて、ここに」
「妹の裁判をあなたが担当したと聞いて」アルヴィナは頭を下げた。「妹は、何も」
「言わないで」判事は首を振った。「分かっています。判決文の草案を書いたのは私ではない。証拠目録も見せてもらえず、被告人質問は三分で打ち切られた。あんなものは裁判ではない。裁判ではないものに、私は判を、押した……」
「オルテンシア判事」俺は静かに言った。「床下の告発状を、書き上げる気はありませんか」
彼女は長いこと俺を見た。役人が肚を決めるときの、あの深い呼吸をした。
「……告発して、どうなります。宰相府は司法院の上にいる。この国に、あれを裁ける法廷はない」
「なければ、作ればいい。魔王領は現在、法務部門を新設中です。初代長官の椅子が空いている。それに――」俺は一枚の紙を差し出した。「あなたの告発状が読み上げられるべき法廷なら、九日後、中央広場に、向こうが勝手に用意してくれます。観衆つきでね」
処刑人バルドの面接は、面接にならなかった。
大聖堂の礼拝堂。処刑前夜ではないのに祈っていた大男に、俺は隣に座って、一つだけ聞いた。
「あなたが本当にやりたい仕事は、何ですか」
大男は、しばらく黙っていた。それから、岩が崩れるような声で言った。
「……木を、削っていたい。人の首じゃなく。……あんた、神父様かい」
「いえ、人事です。木工職人の求人を持っています。週休二日、医療手当あり、指物工房、即日勤務可」
「……九代続いた処刑人が、辞めていいのかね」
「バルドさん。九代続けて、辞めたかったんじゃありませんか」
大男の目から、涙がこぼれた。契約書の署名は、木屑の匂いのする、ごつい手で書かれた。
建国祭の前夜、王都に紙の雪が降った。
五千枚の求人票は、夜のうちに全兵舎の枕元に、市場の戸板に、井戸端に、酒場の卓に届けられた。配ったのは俺たちではない。この数日で「ゴーダ商会」と個別に契約した、王都の従業員たちだ。パン屋の配達少年が、洗濯女が、夜回りの老人が、それぞれの持ち場で、それぞれの理由で、紙を置いて回った。報酬は前払いした。当然だ。うちは働きには必ず対価を払う。
深夜、監獄では、看守長ドッソが独房の窓口に、湯気の立つ椀を置いていた。
「……麦入りだ。今夜は特別に、干し肉も入ってる」
「いつも、ありがとうございます」鉄格子の向こうで、フィオナは椀を両手で受け取った。「看守長さん。明日、ですね。……あの、最後に一つだけ、お願いが。姉に、手紙を」
「嬢ちゃん」
ドッソは周囲を確かめてから、格子に顔を寄せ、三十二年分の嗄れ声で、ささやいた。
「粥を全部食って、よく寝ておけ。明日は……長い一日になる。それとな、これは独り言だが――俺は明日から、新しい職場で働くことになった。囚人を、二度と飢えさせない職場だ」
「……? おめでとう、ございます……?」
「ああ。だからな、嬢ちゃん。明日、何が起きても、驚くんじゃねえぞ」
同じ頃、司法院の官舎では、オルテンシア判事が床板を剥がしていた。六年分の埃をかぶった告発状の下書きに、彼女は最後の一段落を書き足し、判事の印を、生涯で一番強く押した。
大聖堂では、バルド・クロームが祈っていた。九代で初めて、明日処刑する者の名ではなく、明日から削る木の香りのことを神に報告する処刑人に、聖堂の蝋燭は静かに揺れただけだった。
そして俺はといえば、宿の屋根の上で、アルヴィナと並んで夜の王都を見下ろしていた。
「眠れないか」
「はい。……妹まで、あと一晩なのだと思うと」
「作戦に穴はない。人事も配置も詰めてある。あとは明日、段取りどおりに」
「陛下」彼女は夜景を見たまま言った。「もし、明日、私が我を忘れて剣を抜きそうになったら――止めてください。私はこの都で、誰も憎みたくない。憎むべきは人ではなく、仕組みなのだと、あなたの職場で学びましたから」
「安心しろ。あんたが剣を抜くより早く、俺が説教を始める。俺の説教は長いぞ。三十年物だ」
彼女は小さく笑って、それきり黙った。眼下の街のあちこちで、遅くまで灯りがともっていた。枕元の求人票を、誰かが何度も読み返している灯りだと、俺は思うことにした。
建国祭、当日。
中央広場は人で埋まっていた。増税と飢えに疲れた民衆にとって、公開処刑は宰相府が用意した唯一の「娯楽」だった。広場の中央に組まれた処刑台。その上に、後ろ手に縛られた小柄な娘が引き立てられた。銀の髪。姉とよく似た、意志の強い目。フィオナ・ロートレックは、痩せてはいたが、まっすぐ立っていた。
貴賓席には宰相コンスタン侯爵。絹と宝石の塊のような男が、油の乗った声を広場に響かせた。
「王国の民よ! 本日、建国の佳き日に、我らは獅子身中の虫を裁く! この娘の姉は、卑劣にも軍を率いて魔王の軍門に降った大反逆者! 血は争えぬもの、妹もまた反逆に手を貸した! この処刑をもって、王国の正義がいまだ健在であることを、天下に示すものである!」
拍手はまばらだった。宰相は気にも留めず、執行係に顎をしゃくった。
「執行人、前へ!」
誰も、出てこなかった。
「……執行人! バルド・クローム! 前へ!」
処刑台の袖から、進行係の文官が青い顔で駆け寄り、宰相に耳打ちした。広場の最前列にいた俺には、魔力で強化した聴覚が、その報告を一言一句拾っていた。
――処刑人バルド、本日付で、退職しておりまして。
「は? 退職? 処刑人が退職などするか! 代わりの者に斧を持たせよ! 衛兵! 衛兵長はどこか!」
衛兵長も、いなかった。正確には、広場の警備配置にはいたのだが、宰相の呼びかけに、誰一人動かなかった。彼らの俸給は八ヶ月止まっている。そして彼らの上着の下には、昨夜、王都の全兵舎の枕元に届いた一枚の刷り物が畳まれていた。
宰相の額に、初めて汗が浮いた。
「な、ならば囚人を一旦戻せ! 看守! 看守長!」
「看守長ドッソは」
処刑台の上から、声がした。フィオナの縄を、当の看守長が、鍵束の一本で解いているところだった。
「本日付で、魔王領に転職いたしました。最後の引き継ぎ業務です。――この娘の身柄、囚人名簿から抹消の上、釈放と記録します。罪状に法的根拠なし。担当判事の、正式な決定によりまして」
「判事だと!? オルテンシア! 貴様、何の権限で――」
「王国司法院判事の権限で、申し上げます」
群衆が割れた。法服のオルテンシア判事が、広場の中央へ歩み出た。手には床下から出してきた、分厚い書類の束があった。
「本職は、フィオナ・ロートレックの裁判記録の再審査を行い、判決を無効と決定しました。理由。第一、証拠の不存在。第二、宰相府による判決文の事前送付、すなわち裁判への介入。証拠はこの草案、宰相府の印章つき。第三に――」
判事は束の一番厚い部分を、頭上に掲げた。
「被告人が逮捕直前に照会した、軍納入薬の水増し記録について。本職は薬師組合の帳簿と国庫の支払い記録を照合しました。結果、過去六年、軍需納入の名目で国庫から支出された金額のうち、実に六割が、納入実体のないまま、宰相コンスタン侯爵の縁故商会に――」
「黙らせろ! その女を捕らえよ! 反逆だ!」
宰相が絶叫した。誰も動かなかった。
いや、動いた。広場を埋めた群衆が、ゆっくりと。
最初に進み出たのは、みすぼらしい上着の男たちだった。一人、十人、百人。彼らは処刑台と宰相の間に、無言で壁を作った。元兵士たち。八ヶ月俸給を止められ、靴も配給されず、それでも王国を憎みきれずに王都に残っていた男たち。その手に武器はなかった。代わりに、あの刷り物が握られていた。
「へ、陛下……あれを」
変装したヴァルガスが、声を詰まらせた。元兵士たちの壁は、もう千人を超えていた。彼らは宰相に背を向け、処刑台のフィオナを守る形で立っていた。四百年、魔物と戦い続けた王国の兵の背中が、今、魔王領の求人票を握って並んでいた。
「アルヴィナ」
俺は隣の記録係に言った。彼女は震える手で眼鏡を外し、染め粉を落とす魔道具の栓を抜いた。銀の髪が、真昼の光に流れ出た。
「行ってこい。ここから先は、人事の仕事じゃない。家族の仕事だ」
彼女は駆けた。群衆が、元兵士たちが、その銀色に気づいて道を開けた。「白銀将軍だ」「将軍が戻られた」――ざわめきは、しかし敵意にはならなかった。彼らはとうに知っていたのだ。彼女がなぜ罪人と呼ばれたのか。彼女が何から部下を守ったのか。手配書の並ぶ壁の下で、市井の人々がずっと囁いてきたことだった。
「姉さん……! 来ちゃだめって、言ったのに……!」
「ばか。……ばか。姉が妹を迎えに来るのに、許可が要るか」
処刑台の上で、姉妹は崩れるように抱き合った。広場のどこかから拍手が起き、それは瞬く間に、地鳴りのような大喝采になった。
貴賓席では、宰相コンスタンが腰を抜かしていた。彼の視線が、群衆の中の俺と、偶然、合った。誰かは知らないはずだ。それでも本能で悟ったのだろう。この男が元凶だと。
「き、貴様は……何者だ」
俺は帽子を取り、敵国の宰相に、丁寧に一礼してやった。
「ゴーダ商会、採用担当です。このたびは弊領の求人に、王都の皆様から多数のご応募をいただきまして」
「お……おのれ、魔王……!」
「ああ、それと宰相閣下。閣下も再就職先をお探しになる頃合いかと存じますが――」
俺は懐から、彼のための一枚を出した。求人票ではない。イミルが三晩で仕上げた、横領額の集計表だった。
「弊領の採用基準は一つだけでしてね。人を使い捨てにしないこと。――閣下は、書類選考で落ちております」
その日、王都の憲兵隊は、群衆に取り囲まれた宰相を「保護」という名目で連行した。憲兵隊長は連行に先立ち、オルテンシア判事に正式な逮捕状を請求した。王国の歴史で、宰相に逮捕状が出た最初の日だった。
処刑台は、その日のうちに解体された。
解体を買って出たのは、元処刑人の木工職人だった。彼は台の材木で、監獄に納める食器棚を作った。九代分の何かが、鉋の音とともに、削られて落ちていくようだった。




