第四章 王都からの密書
その手紙が届いた日の記憶を、俺は細部まで覚えている。人事を三十年やると、悪い報せは開封前に匂いで分かるようになるのだ。
執務室に呼んだアルヴィナは、手紙を一読して、直立したまま動かなくなった。差し出された紙面には、走り書きでこうあった。
《アルヴィナ様 薬師組合のバッソにございます》
《妹君フィオナ様が十日前 王都憲兵に連行されました》
《罪状は国家反逆者の縁者 ならびに反逆幇助とのこと》
《されど組合の誰もが知っております あの子は何もしておりません》
《フィオナ様は連行の前夜 私にこう託されました》
《姉さんに伝えて 絶対に戻ってくるなと これは罠だからと》
《処刑は建国祭の日 中央広場にて公開で執り行うと布告が出ました》
《どうか どうかフィオナ様をお救いください》
「……妹が、いるとは聞いていた」
俺は静かに言った。彼女の個人調書にも、彼女自身の口からも聞いていた。フィオナ・ロートレック、二十四歳。王都で薬師として働く、アルヴィナのたった一人の肉親。姉の俸給が八ヶ月止まっても、逆に姉へ薬を送ってくるような妹だという。
「反逆幇助の中身は」
「……ありえません。フィオナは私の亡命を知りません。知らせる手段もなかった。あの子がしたことといえば、薬を調合して、帳簿をつけて、それだけの」
アルヴィナの声は平坦だった。平坦すぎた。感情が振り切れた人間の声だ。
「陛下。発言をお許しください」
「許す」
「これは罠です。標的は私です。反逆者アルヴィナを誘い出すため、王国は無関係の薬師を人質に取った。妹もそれを見抜いたから、戻るなと言った。……ここまでは、冷静に分析できております」
「うん」
「その上で申し上げます」彼女は背筋を伸ばしたまま、深く頭を下げた。「本日付での退職を、お願い申し上げます」
来たか、と思った。
「聞こう。退職して、どうする」
「単身、王都に戻ります。私の首を差し出せば、妹を殺す名目が消えます。交渉の余地が生まれる。……魔王軍の将のまま戻れば、貴国に累が及びます。『魔王が反逆者を匿い、王国に送り込んだ』となれば、開戦の口実に使われる。ですから、退職を。この三ヶ月への恩は、来世でも忘れません。ですが」
「ですが、妹は見捨てられない。だろうな」
俺は執務机の引き出しを開け、一枚の紙を取り出して、彼女の前に置いた。
退職願、と書かれた紙だった。彼女が顔色を変えた。
「それは――なぜ、それを」
「昨夜、あんたの官舎の机で書かれた下書きだ。今朝、あんたの副官が届け出てくれた。副官は泣いていたぞ。『室長がまた一人で全部背負おうとしている、止められるのは陛下だけだ』とな」
彼女は唇を噛んだ。
「……差し出がましいことを」
「差し出がましい? とんでもない。第五条の模範例だ。あいつの査定は上げておく」
俺は退職願の下書きを手に取り、そして、彼女の目の前で、二つに破いた。
「陛下!?」
「受理しない。理由は三つだ」
破いた紙を屑籠に落とす。
「一つ。うちの就業規則では、退職願は十四日前までに提出することになっている。建国祭は九日後だ。日数が足りない」
「そんな、規則の話を、今」
「規則の話を、今、するんだ」俺は言った。「規則というのはな、アルヴィナ。こういう夜のためにある。頭に血が上った人間が、一人で全部を決めて、一人で死にに行くのを、十四日間だけ引き留めるためにあるんだ」
彼女は、何かを言いかけて、言えなかった。
「二つ。あんたの計画は戦術的に破綻している。あんたの首を差し出して、妹が解放される保証がどこにある? 向こうの狙いが『反逆者とその縁者をまとめて処刑し、脱走を考える全兵士への見せしめにする』ことだとしたら? 俺が向こうの宰相なら、そうする。あんたは丸腰で敵の掌に乗り、人質を一人から二人に増やすだけだ」
「では、どうしろと!」
彼女が、初めて俺に向かって声を荒らげた。いい傾向だ。感情は出せるうちに出させるに限る。
「妹は九日後に殺されるのですよ! 戦は起こせない、戻れば罠、待てば処刑! 打つ手がないなら、せめて私の首で時間を――」
「三つ目の理由を言う」
俺は立ち上がり、窓の外を指した。眼下の練兵場で、混成部隊の夜間訓練の灯りが動いていた。
「あんたはもう、一人で背負う勤務形態を卒業したはずだ。忘れたか? うちの職場は、有給も、同僚も、使い放題だ」
「……同僚……」
「九日ある。九日あれば、うちの諜報部は王都の下水道の配管図まで引いてくる。イミルは敵国の帳簿を三晩で丸裸にする。ヴァルガスは――あれは単純に強い。そして俺には、三十年かけて磨いた、たった一つの武器がある」
「武器……陛下の、魔力ですか」
「違う」
俺は彼女の目を見て、はっきりと言った。
「面接だ」
翌朝の軍議は、開始三十秒で紛糾した。
「進軍しましょうぞ!」ヴァルガスが卓を叩き、卓の脚が一本折れた。「ロートレック室長は今や我らが同僚! その妹御は同僚の家族、すなわち我らの家族も同然! 王都を囲み、城壁を崩し、姫を攫う竜の如く颯爽と救い出すのです!」
「訓練部長、それでは救出前に処刑台のフィオナ嬢が危険に晒されます。却下です」イミルが帳簿の角で宙を切った。「わたくしは兵糧攻めを具申します。王国の国庫は既に空。試算では四十日で王都の物流が」
「四十日じゃ間に合わん。処刑は九日後だ」
俺は折れた卓の脚を直しながら言った。魔力というのは便利なもので、大工仕事が一瞬で終わる。
「まず全員で前提を揃えよう。イミル、王国の内情を頼む」
「はい。諜報部の報告と、亡命者の皆さんへの聞き取りを総合します」
イミルが宙に帳簿を広げた。総務課長の趣味と実益を兼ねた、敵国の経営分析だった。
「グランデル王国、財政は実質破綻状態。対魔界戦争の戦費調達のため増税を重ねること十一回。しかし徴収された税の相当部分が、王都に届く前に『蒸発』しています。軍の俸給は八ヶ月未払い。憲兵と看守は五ヶ月未払い。文官は七ヶ月。ちなみに宰相府の宴会費だけは、毎月満額執行されています」
「絵に描いたような末期だな。仕切ってるのは」
「宰相コンスタン侯爵。国王ギデオン三世は高齢で、政務の実権はほぼ宰相府に。そして陛下、ここからが本題です」
イミルは帳簿のページを、ぱん、と叩いた。
「フィオナ嬢の逮捕には、妙な点があります。罪状は『反逆者の縁者』。ですが王国法では、縁者というだけでは処刑できません。わざわざ『反逆幇助』を付け足している。なぜか。――フィオナ嬢の薬師組合は、軍納入薬の調合を請け負っていました。彼女は帳簿係も兼ねていた。そして納入記録によれば、王国軍に納めたはずの薬の量と、宰相府経由で代金が支払われた量が、三倍違う」
アルヴィナが息を呑んだ。
「水増し……軍需の水増し横領。フィオナは、それに気づいた……?」
「気づいたのでしょう。連行の三日前、組合が宰相府に照会状を送っています。差出の書記はフィオナ嬢。つまりこれは」
「見せしめと口封じの、一石二鳥というわけだ」俺は頷いた。「反逆者の妹なら、多少手続きが乱暴でも誰も庇わない。姉をおびき出す餌にもなる。ついでに横領の証人も消える。……宰相コンスタン、面接するまでもなく不採用だが、経営者としては実に効率的で反吐が出る」
軍議の間が静まり返った。俺は立ち上がり、壁の王都の地図の前に立った。
「諸君。ここで我が社の――我が魔王領の行動原則を確認する。我々は戦争をしない。理由は道徳ではない。戦争は、費用対効果が最悪の人事施策だからだ。兵が死に、民が死に、憎悪という不良債権だけが残る」
「では、いかがなさるのです」
「考えてもみろ。俸給八ヶ月未払いの看守。七ヶ月未払いの文官。宴会を続ける宰相府。……この状況を、人事の言葉で何と言うか知ってるか」
俺は地図の王都に、掌を置いた。
「『引き抜き放題の草刈り場』と言うんだ」
ヴァルガスがぽかんと口を開けた。イミルの目が、そろばん勘定の輝きを帯びた。そしてアルヴィナが、ゆっくりと立ち上がった。
「陛下。それは、つまり」
「作戦名『中途採用強化月間』。目標、九日以内に、王都の処刑執行体制を丸ごと空洞化させる。処刑というのはな、意外と大勢の従業員で回っているんだ。鍵を開ける者、書類に判を押す者、台の上で斧を振る者。――その全員が同じ日に辞職したら、処刑は成立しない」
俺は一同を見渡した。
「編成を言う。俺、アルヴィナ、ヴァルガス、イミルの四名は明朝、行商人に変装して王都に潜入する。留守は四天王の残り三名に任せる。諜報部は先行して、看守長、担当判事、処刑人の三名の身辺調査。調べるのは弱みじゃないぞ。――困りごとだ。うちの面接は、そこから始める」
「はっ!」
散会の後、アルヴィナが俺のところに来た。何度か口を開きかけ、結局、深々と頭を下げた。
「……昨夜は、取り乱しました。それと」
「ん?」
「同僚を、使い放題という件。……使わせて、いただきます。全力で」
「よし。それでこそ、うちの室長だ」
九日後、建国祭。舞台は敵の本丸、王都グランデルヘイム。
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魔王軍史上もっとも静かで、もっとも容赦のない「進軍」が始まった。




