第二章 混成部隊は今日も揉める
最初の火種は、食堂だった。
「陛下、ご報告します。本日昼、食堂にて人間兵とオーク兵が衝突。負傷者なし、ただし日替わり定食Bが一名分、天井に張りつきました」
書記妖精のイミルが、手のひらサイズの体で器用に報告書をめくる。イミルは魔王城の総務課長だ。体は小さいが、扱う帳簿は城で一番大きい。
「原因は」
「オーク兵曰く『隣で人間がちびちび食うので、食が細いのかと思って親切に取り分けてやった』。人間兵曰く『皿に山盛り三杯は威嚇だと思った』。文化摩擦です」
「……で、定食Bはなぜ天井に」
「仲裁に入ったトロール班長が『まあまあ』と両者の背中を叩いた衝撃で」
うちのトロールの「まあまあ」は落石事故と同じ扱いにしろと衛生部が言っていたのを思い出す。俺は額を押さえた。まあ、この程度は想定内だ。四百年殺し合った者同士が、同じ釜の飯を食っているのだ。皿が天井に張りつくくらいは誤差の範囲と言っていい。
問題は、そのたびに――
「本件、混成部隊準備室のロートレック室長が、既に両名と面談し、始末書を提出済みです」
「早いな。処分内容は」
「『責任はすべて監督者たる私にある。両名に処分は不要、罰俸は私の俸給から』と」
ほら来た。俺は書類の山から、この一週間の報告を引き抜いた。訓練場で人間兵が魔物の威圧に腰を抜かした件、始末書、署名アルヴィナ。魔物兵が人間式の敬礼を「弱そう」と笑った件、始末書、署名アルヴィナ。厩舎で地獄馬が人間の飼育係を威嚇した件――馬の始末書は書けないので、署名アルヴィナ。
七日間で始末書が十一枚。全部、同じ署名だ。
「イミル。ロートレック室長の退勤記録を」
「本日までの七日間、平均退勤時刻、深夜一の刻。仮眠室の使用記録なし。つまり官舎に帰ってはいるようですが」
帰って寝ているとは言っていない、という顔でイミルは報告書を閉じた。優秀な総務は、言わないことで多くを言う。
その夜、俺は執務室の灯りを消してから、準備室に足を向けた。案の定、灯りがついていた。
扉の隙間から見えたのは、書類の山に埋もれた銀の頭だった。羽根ペンを持ったまま、船を漕いでいる。机の端には冷めきった茶。壁には手製の巨大な図表が貼られ、人間兵三千十七名の名前と、配属と、健康状態と、面談記録がびっしりと書き込まれていた。三千人分だ。一人で、七日で、これを。
俺は扉を叩いた。跳ね起きた彼女は、椅子を蹴倒す勢いで敬礼した。
「へ、陛下!? 申し訳ありません、居眠りなど――」
「座ってくれ。夜分にすまん。……その図表は、あんたが一人で?」
「は。部下の情報を把握するのは指揮官の務めですので。それに、その、魔物の方々に人間兵の管理業務までお願いするのは、まだ軋轢が」
「なるほど。で、始末書十一枚も、軋轢を防ぐためか」
彼女の肩が、わずかに強張った。
「……私たちは、拾っていただいた身です。トラブルの責任を新参の人間兵に負わせれば、彼らの居場所がなくなります。かといって魔物の方々を責めれば、受け入れてくださった側の心証を損ねる。ならば全部、私が」
「その結果が、七日で睡眠時間三時間か」
「軍では珍しくありません。ラウズ砦では四十日、これでやりました」
「その勤務実態が標準になってる組織から、あんたは逃げてきたんじゃなかったか」
彼女は、言葉に詰まった。
俺は蹴倒された椅子を起こして、座るよう促した。それから、彼女の手製の図表を眺めた。見事なものだった。字は端正で、分類は的確で、一人一人の欄に「妹が王都に」「古傷、雨の日に痛む」「読み書きを覚えたがっている」と、血の通った書き込みがある。これを作った人間が無能なわけがない。無能どころか、うちの人事部に欲しいくらいだ。
ただ、一つだけ、決定的に間違っている。
「アルヴィナ。あんたの前の職場の話をしよう。ラウズ砦で、補給が絶えたとき、あんたはどうした」
「……村々と交渉を」
「そうだ。あんたは『兵が飢えている』という問題を、一人で抱えずに、外に開いて解決した。見事な判断だ。なのになぜ、今は全部を自分の腹に呑む?」
「それは……あのときは、頼れる相手がいました。今は」
「今は、いないか」
彼女は答えなかった。答えないことが、答えだった。
四百年戦った敵国のただなかで、三千人の命綱を一人で握って、頼り方が分かるわけがない。これは彼女の欠点じゃない。環境の問題だ。そして環境の問題は、環境を設計する側――つまり俺の仕事だ。
「アルヴィナ。あんたに部下として言っておく。うちの職場には規則がある。魔界労働基本法第五条、困りごとは魔王に直接申し出てよい。……この条文はな、飾りじゃないんだ。『申し出てよい』と書いてある職場でしか、人は申し出ない。三十年人事をやった俺が保証する」
「三十年……? 陛下は、御年」
「話の綾だ。いいか、それでも申し出ないあんたのような社員のために、第五条には運用細則がある。細則一、困りごとを抱えていそうな者がいたら、魔王のほうから聞きに行く。――だから聞きに来た。室長、今、何に困っている」
長い沈黙があった。
彼女は自分の手元を見て、机の書類の山を見て、壁の図表を見て、最後に、観念したように息を吐いた。
「…………分かりません」
「うん」
「何に困っているか、分からないのです。全部が足りない。人手も、時間も、信頼も、前例も。どこから手をつければいいのか……私は戦の指揮なら執れます。ですが、これは……この仕事は、敵がいない。斬るべき敵がいれば楽なのに、どこにもいない」
「よく言えた。それが言えれば、この仕事は半分終わりだ」
俺は彼女の向かいに腰を下ろし、羽根ペンを借りた。
「敵がいない仕事のやり方を教えよう。前世――じゃない、前職で三十年やった俺の、唯一の得意分野だ」
その夜、俺たちは夜明けまで、白紙に図を描き続けた。
まず、彼女が一人で抱えていた業務を全部書き出した。次にそれを「彼女にしかできないこと」と「仕組みにすれば誰でもできること」に仕分けた。三千人の個人管理は、百人ごとに人間と魔物の班長を一人ずつ置く「相棒班長制」に。文化摩擦は、事例が出るたびに裁くのではなく「食堂作法、訓練作法、冗談の通じる範囲」を両軍合同で成文化する。始末書は連署制に変えた。監督者一人の署名では受理しない。原因に関わった全員と、再発を防ぐ仕組みの提案を書いて、初めて受理する。
「罰ではなく、原因を直す……第四条」
「そういうことだ。あんた、覚えが早いな」
「敵国の法ですので、就任前に全文暗記しました」
「うちの四天王より読み込んでるじゃないか」
窓の外が白み始めた頃、彼女はふと、図面から顔を上げた。
「陛下は、その……前職、とおっしゃいましたが。以前も、王で?」
俺は少し考えて、正直に言うことにした。嘘は査定に響く。自分の査定にだ。
「いや。別の世界で、人事部長というものをやっていた。王どころか、部屋も窓際だった」
「じんじぶちょう」
「人を採って、育てて、配置して、守る仕事だ。三十年やった。最後は――守りたかった四百人を守れたかどうか、確かめる前に死んだ。心臓の管理を怠ってな」
彼女はしばらく黙っていた。笑われるか、化け物を見る目で見られるか。どちらでも構わなかったが、彼女の反応はそのどちらでもなかった。
「では、陛下も」
「うん?」
「陛下も、前の職場で、部下を守ろうとして……道半ばだったのですね。私と、同じだ」
虚を突かれた。五十二年と三年の人生で、俺を「同じだ」と言った人間は、彼女が初めてだった。
「……ま、そういうことだ。だから今度の職場では、倒れる前に定時で帰ると決めている。あんたにも同じ勤務を求める。部下を守りたいなら、まず自分が倒れないことだ。指揮官の健康は個人の資産じゃない。組織の設備だ」
「設備」彼女は小さく吹き出した。「私は、設備ですか」
初めて見る笑顔だった。三千人分の鎧の、二枚目が落ちた音がした。
相棒班長制は、ひと月で軌道に乗った。
もちろん平坦ではなかった。人間の班長とオークの班長が「どちらが先に挨拶するか」で三日膠着し、合同で作った「冗談作法集」の初版は、ゴブリンの笑いの沸点が低すぎて全項目が「冗談として成立」になり、改訂を余儀なくされた。地獄馬の飼育係は相変わらず威嚇されていたが、班の全員で世話を交代するうちに、馬のほうが人間の飼育係にだけ懐くという逆転現象が起きて、魔物側が軽く傷ついていた。
もっとも、制度が根づくまでには、いくつかの名場面を経る必要があった。
たとえば、訓練場の一件だ。
ある朝、俺のもとに「訓練部長と混成部隊準備室長が決闘するらしい」という報せが飛び込んできた。駆けつけると、訓練場の中央でヴァルガスとアルヴィナが対峙し、周囲を人間兵と魔物兵が二派に分かれて取り囲んでいた。空気は、皿が天井に張りつく程度では済みそうになかった。
「これはこれは陛下! ちょうどよいところに!」ヴァルガスが斧を担いだまま朗らかに言った。朗らかなのが一番怖い。「聞いてくだされ。この者、それがしの訓練課程に文句をつけますのじゃ」
「文句ではありません。改善提案です」アルヴィナも一歩も引かない。「訓練部長の課程は『岩を砕けるまで岩を殴る』『落ちて死なぬ高さから百回落ちる』――魔物の皆さんには適していても、人間兵がやれば三日で墓が並びます」
「鍛えれば砕けるようになりますぞ」
「なりません。人間は再生しないのです」
「なんと……あの傷が治らぬというのは、まことでしたか……」ヴァルガスは本気で驚いていた。四百年戦った相手の基礎仕様を、この鬼神は今日初めて知ったのである。敵として殺し合うことと、隣で働くことの間には、それほどの距離がある。
「だが室長どの、そちらの人間式の訓練とやらも、それがしには生ぬるく見えますな。隊列を組んで、歩いて、旗を振る。あんなもので強くなれますのか」
「では、お見せしましょう。――第三班、集合!」
それからの半刻は、見ものだった。アルヴィナの号令一下、人間兵百名が隊列を変えながら、模擬戦でオーク兵の突撃を受け流し、包囲し、分断してみせた。個の膂力で圧倒的に勝るオーク兵が、気づけば十重二十重に囲まれて身動きが取れない。
「ほう……ほほう!」ヴァルガスの目が輝き始めた。「面白い! 個で勝てぬ敵に群れで勝つ! それが人間の四百年の武器でしたか! 道理でわしらは野戦で勝てなんだ!」
「そして我々は、貴軍の膂力に城壁を三度崩されました。互いに、相手の教範が必要なのです」
結論として、決闘は回避された。代わりにその日の午後、訓練部長と準備室長の連名で「混成訓練課程・第一版」の起案が俺の机に載った。人間兵には魔物の膂力を前提とした築城と支保の技術を、魔物兵には人間の隊列運動と旗信号を、相互に教え合う内容だった。起案の末尾には、ヴァルガスの豪快な字でこう添えられていた。
「本課程により、当軍は開闢以来最強となる見込み。ただし人間は壊れ物につき、取り扱いは室長の指導に従うこと」
冗談作法集も、忘れがたい。
文化摩擦の元凶の一つが「どこまでが冗談か」問題だったので、両軍合同の編纂委員会を作らせたのだが、これが難航した。ゴブリンは何を言われても笑うので基準にならず、オークは褒め言葉と挑発の区別が「声の大きさ」で決まり、人間側は人間側で、出身地方によって皮肉の通じ方がまるで違った。三週間の議論の末に完成した初版は、たった三条だった。
「一、相手の種族・故郷・戦歴を笑いの種にしない。二、食い物の恨みに冗談はない。三、迷ったら、まず飯を奢ってから言う」
俺はこれを即日決裁した。三十年人事をやったが、これより実用的なハラスメント規程を、俺は前世で見たことがない。
転機は、雨季の終わりに来た。
城下の東の谷で、鉄砿山の坑道が崩れた。生き埋めは十九名。魔物の坑夫が十一、移住してきた人間の坑夫が八。
現場に最初に到着したのは、演習帰りの混成第三班だった。指揮を執ったアルヴィナの判断は速かった。膂力のあるオーク兵に開削を、体の小さいゴブリン兵に隙間からの偵察を、そして王国軍仕込みの工兵技術を持つ人間兵に、坑道の支保――崩れないよう柱を組む作業を割り当てた。
十九名、全員生還。
最後の一人が担ぎ出されたとき、泥まみれのオーク兵と人間兵が、どちらからともなく拳を突き合わせるのを、俺は救護天幕から見ていた。四百年の戦争が終わる瞬間というのは、条約の調印式ではなく、こういう泥の中にあるのかもしれなかった。
「陛下」隣に立ったアルヴィナが、静かに言った。「本日の救助活動について、始末書を――ではなく、報告書を提出します。連署は、混成第三班、全員です」
「受理する。……いい部隊になったな、室長」
「はい。自慢の、部隊です」
彼女の横顔は、門の前の雨の夜とは別人のようだった。よく眠り、よく食べている顔だ。人事としてこれほど嬉しい変化はない。ないのだが――このところ俺は、その横顔を、職務上の必要を超えて眺めている自分に気づいていた。
五十二足す三で五十五。いい歳をして、と前世の常識が言う。今の体は三十代だ、と現世の肉体が言う。どちらにせよ職場の上下関係だぞ、と人事部長の職業倫理が言う。三者会議は毎回、結論を持ち越していた。
そんな折、総務課長イミルが、一枚の帳票を無言で俺の机に置いた。全部署の有給休暇取得一覧だった。取得率九割二分。うち、取得日数ゼロの者、全職員三千八百名中、ただ一名。
署名欄で見慣れた名前が、そこにもあった。
アルヴィナ・ロートレック。
……次の一手は、決まったようなものだった。




