第一章 嵐の夜の中途採用
深夜二の刻。俺は執務室で、翌月の食堂予算に判を押していた。
魔王が自ら食堂予算を見るのかと言われれば、見る。飯は士気の土台だ。前世で組合と会社の板挟みになったとき、交渉が決裂しなかった理由の三割は、総務が守り抜いた社員食堂のカツカレーだったと俺は今でも信じている。
扉が吹っ飛ぶ勢いで開いて、門番隊長のゴブリン、ギィが転がり込んできた。
「へ、陛下! 門です! 門の外に、に、人間が!」
「落ち着け。脱走兵か? 毛布と粥の用意を」
最近は多いのだ。王国側から国境を越えてくる兵士が。うちではもう受け入れ手順書まで整備してある。だがギィは首をちぎれるほど横に振った。
「い、一人や二人じゃありません。さ、三千! 三千人です! 先頭にいるのは――白銀将軍です!」
執務室の空気が凍った。
白銀将軍アルヴィナ・ロートレック。グランデル王国東部方面軍を率いる、向こうの最高戦力。平民から叩き上げで将軍位まで登った才媛にして、四百年の戦争で唯一、魔王軍相手に負け越していない指揮官。うちの兵に夜泣きする子供がいたら「白銀が来るぞ」と言えば黙る、と報告書に書いてあった。それはしつけに問題があると思うが、それほどの相手ということだ。
俺は雨具を掴んだ。
「陛下、罠です! 開門は自殺行為ですぞ!」
駆けつけたヴァルガスが吠える。もっともな意見だ。もっともな意見だが、俺は窓の外を見た。城壁の魔導灯に照らされて、雨の中に三千の人影が並んでいた。誰も武器を構えていない。何より、隊列の後ろのほうが、立っていられずに座り込んでいる。
あれは進軍の隊列じゃない。俺は三十年、人の集団を見てきた。あれは――倒産した会社の、最後の朝礼だ。
「開門はしない。俺が出る」
「陛下!?」
「魔王が門の外に出るのは開門とは言わん。屁理屈だが、緊急時の決裁は屁理屈でいい」
雨は滝のようだった。城門の前に、その人は立っていた。
白銀の鎧は泥に汚れ、ところどころ焦げていた。年の頃は三十を少し出たあたりか。濡れた銀の髪が頬に張りつき、それでも背筋だけは、定規で引いたようにまっすぐだった。俺が近づくと、彼女は跪き、腰の剣を鞘ごと外して、両手で泥の上に置いた。
「魔王デルガドール陛下とお見受けする。グランデル王国東部方面軍、元帥代理アルヴィナ・ロートレック。――いえ、元、です。本日をもって、王国は私を反逆者と定めました」
声は嗄れていた。何日、眠っていないのか。
「後ろに控えるは我が部下、三千十七名。半数は負傷し、全員が三日、食べておりません。彼らに罪はありません。罪はすべて、命令に背いた私一人にあります」
彼女は泥の中で、深く、頭を垂れた。
「この首を差し上げます。ですからどうか――部下たちに、飯と寝床を。貴国への亡命を、お許しいただきたい」
雨音だけが響いた。三千の兵は身じろぎもせず、ただ祈るように俺たちを見ていた。
俺は彼女の前にしゃがみ、泥の上の剣を拾い上げ――彼女の手に、戻した。
「まず訂正が三つある」
「……は?」
「一つ。うちでは首は取り扱っていない。魔界労働基本法第三条、処刑は廃止だ。二つ。責任者が自分の命を対価に部下を守ろうとするのは美談に見えるが、人事の目から言えば引き継ぎ計画の欠如であり、感心しない。三つ――」
俺は立ち上がり、城壁の上に向かって怒鳴った。
「ギィ! 開門! 医務班と炊き出し班を叩き起こせ! 大鍋は全部使っていい! 毛布三千! 足りなければ俺の執務室の絨毯を剥がして持ってこい!」
城壁の上で、ゴブリンの雄叫びが上がった。連鎖して、城の窓に次々と灯りがともる。呆然と見上げる彼女に、俺は言った。
「三つ。亡命は許可ではなく受理だ。ようこそ、魔王領へ。――ただし正式な処遇は面接で決める。何せ三千十七名の中途採用は、うちでも前例がない」
白銀将軍は、雨の中で長いこと俺を見上げていた。それから何かを言おうとして、失敗し、代わりに地面に両手をついた。肩が震えていた。嗚咽は雨音に紛れて、ほとんど聞こえなかった。聞こえなかったことに、しておいた。
面接は翌々日に行った。まずは飯と睡眠と治療が先だ。空腹の人間に志望動機を聞く会社に、ろくなところはない。
応接室に現れたアルヴィナは、貸与した魔王軍の官給服を着ていた。銀の髪を後ろで束ね、背筋はやはり定規のようだった。ただ、目の下の隈は化粧では隠しきれていなかった。
「アルヴィナ・ロートレックです。このたびは部下ともども、格別のご配慮を賜り――」
「挨拶はいい。座ってくれ。飯は食えているか」
「は。……あの、陛下。ひとつ伺っても」
「どうぞ」
「昨夜、兵舎を見回りましたところ、私の部下が、貴軍のオーク殿と肩を組んで歌っておりました。三日前まで殺し合っていた相手とです。あれは、その、貴国では通常の光景なのですか」
「歌はうちの飲み会の標準仕様だ。歌詞が下品だったら報告してくれ。総務が指導する」
彼女は真顔のまま数秒固まった。冗談への耐性がないらしい。よろしい、うちの四天王も最初はそうだった。
俺は帳面を開いた。
「では面接を始める。とはいえ経歴は調べがついている。グランデル王国、東部国境の農家の三女。十五で徴募兵、二十二で百人長、二十六で史上最年少の千人長、三十一で東部方面軍元帥代理。平民出身のため元帥『代理』のまま四年間据え置き。……ここまでで訂正はあるか」
「……ありません。よくお調べで」
「敵の人事情報は基本だ。うちの諜報部は優秀でな。ではアルヴィナ元元帥代理。あんたの口から聞きたいのは一つだけだ」
俺は帳面を閉じた。
「何があった」
彼女はしばらく黙っていた。窓の外では、彼女の部下たちが魔物の衛生兵に包帯を替えてもらっている声がしていた。
「――東部国境に、ラウズ砦という要衝があります」
静かに、彼女は話し始めた。
「この春、王都からの補給が絶えました。兵糧も、矢も、冬服も、俸給も。督促を十七回送りました。返答は最後まで『国庫逼迫につき現地調達せよ』。現地調達とは、つまり国境の村から奪えということです」
「奪ったのか」
「奪いません」きっぱりと言った。「村々と交渉し、労働と引き換えに食料を分けてもらいました。兵に畑を耕させ、屋根を直させました。それで春は越えた。ですが夏に魔物の――失礼、貴軍とは別の、野良の魔獣の大発生が重なり、限界が来ました。私は王都に、ラウズ砦の放棄と戦線の整理を具申しました」
「却下されたか」
「『砦を枕に討ち死にせよ。それが国土の礎となる』と」
彼女の拳が、膝の上で白くなった。
「討ち死にして礎になるなら、いくらでもなります。ですが陛下、あの命令はそうではない。ラウズ砦は既に戦略価値を失っていました。私たちが死んでも国土は守られない。ただ『東部方面軍は最後まで戦った』という記録が残り、誰かの責任が消えるだけです。三千の命の使い道が、書類の帳尻合わせだった」
俺は黙って聞いていた。聞きながら、前世の役員会議室の匂いを思い出していた。四百人の首を「構造改革の必要経費」と呼んだ、あの部屋の匂いだ。世界が変わっても、やることは変わらない奴らがいる。
「私は撤退を命じました。全軍でです。命令書には私一人の署名を残しました。国境まで下がったところで、王都から布告が届きました。『アルヴィナ・ロートレックを反逆者とし、その軍を賊軍とする』。……行く場所を考えました。山に籠もれば賊になる。村に散らせば、匿った村が焼かれる。それで」
「それで、敵国の門を叩いたか」
「はい。四百年戦った敵ですが」彼女は顔を上げた。「ここ三年、貴軍は国境で一度も略奪をしていない。捕虜は全員、手当てをして返してくださった。返された部下が言いました。『魔王軍の飯は温かかった』と。……賭けたのです。温かい飯を捕虜に出す軍が、降る者を無下にはすまい、と」
なるほど。三年前に決めた捕虜取り扱い規程が、こんなところで回収されるとは。施策というのは、どこで効いてくるか分からないものだ。
「質問は以上だ。採用条件を伝える」
俺は書類を差し出した。
「兵三千十七名、全員を魔王軍に中途採用する。試用期間三ヶ月、その間の待遇は正規と同一。給与は王国軍の元の俸給を調べた上で、うちの等級表に当てはめる。まあ、全員昇給になるだろうな。おたくの国、八ヶ月も俸給を払ってなかったようだし」
「っ……それは、しかし、寛大すぎます。我々は昨日までの敵です。監視も、人質も取らずにそのような」
「監視は要らん。取るのは出勤簿だけだ」
「陛下!」彼女は立ち上がった。「では私の処遇が書かれておりません! 全ての責は指揮官たる私に――」
「あんたの査定はこれからやる。座ってくれ」
俺は最後の一枚を出した。
「アルヴィナ・ロートレック。うちの評価基準で言うと、あんたの撤退命令は『損失を最小化した優れた経営判断』であり、命令書に一人で署名した件は『責任の所在を明確化した』として加点対象ですらある。よって当社は、あんたをこう処遇する」
辞令、と書いた紙を、彼女の前に置いた。
辞令
アルヴィナ・ロートレック殿
魔王軍付・混成部隊準備室長を命ずる
等級は将官二等とする
魔王軍とグランデル出身兵の統合に関する
一切の実務を委任する
「……混成、部隊……?」
「三千人も採ったんだ。人間部隊と魔物部隊を、いずれ一つの軍にする。前例のない仕事だ。前例のない仕事は、前例を作った奴に任せるのが人事の鉄則でな。あんたは昨日、四百年の戦争の歴史で初めて、人間の軍を丸ごと連れて魔界に来た。十分すぎる実績だ」
彼女は辞令を持ったまま、動かなかった。よく見ると、紙の端が小さく震えていた。
「私は……処刑されるつもりで、来ました」
「うちは処刑はしない。する暇があったら面談をする」
「部下が生きられるなら、それでいいと」
「部下は生きる。ついでに言えば週休二日で生きる。あんたもだ」
「私、は」
声が、初めて将軍のものではなくなった。
「私は、まだ、働いて、いいのですか。……兵を、率いて。国を、裏切った私が」
ああ、と俺は思った。この人は三千人分の鎧を着ている。脱がせるのには時間がかかるだろう。だから今日はまず、一番外側の一枚だけでいい。
「アルヴィナ。あんたは国を裏切っていない。国があんたたちを裏切ったんだ。伝票の向きを間違えるな」
俺は辞令を指した。
「それと、うちでは上司への返事は『はい』か『承知しました』だ。長い自己否定は査定に入らん。――で、返事は?」
彼女は辞令を胸に当て、軍人の礼をした。泣くのを我慢する顔は、門の前の夜と同じだったが、口から出た声は、もう震えていなかった。
「承知しました。……精一杯、務めます」
こうして魔王軍は、開闢以来最大の中途採用と、最初の人間の将軍を迎えた。
人事部長としての勘が告げていた。ここからが本番だ。採用はゴールじゃない。組織に人が根づくまでが、採用という仕事なのだ。
そしてその勘は、翌週からいきなり的中することになる。




