第9章 「ログ」
作品データの格納されたフォルダの奥深くには、いつも不可解な遺物が取り残されている。橘麗は、以前から薄々そんなことを考えていた。
完成した原稿のデータ、プロットのテキストファイル、キャラクターの設定メモ。そのあたりは当然の住人だ。
問題は、それ以外の雑多な残骸だった。
意図の分からないスクリーンショット、何のために描いたのか思い出せない断片的な画像、いつの時代のものかも定かではない古い落書き、名前すら付けられていないPSDファイル。そして、自分自身でも存在理由を説明できない、奇妙なフォルダの数々。
「……何よ、これ」
麗は、ディスプレイの前に座ったまま小さく呟いた。
フォルダ名:『新しいフォルダ』
作成日時:八年前。
「なんでまだ残ってるわけ?」
記憶の糸をどれほど手繰り寄せても、何も引っかからない。本当に、綺麗さっぱり忘れている。
ダブルクリックして中身を開いてみる。――空っぽだった。
「余計に意味が分からないわ」
その時、背後から音もなく忍び寄ってきたひよりが、麗の肩越しに画面を覗き込んだ。
「おや、インターネット考古学の遺跡発掘ですか?」
「ただのフォルダよ」
「古代の失われた超文明ですね」
「たったの八年前よ」
「電脳世界において、八年は一世紀に匹敵します」
ひよりはそのまま麗のワークチェアの背もたれに、容赦なく体重を預けてきた。重い。
「ちょっと、退いてよ」
「学術研究の邪魔をしないでください」
麗は抵抗を諦め、マウスを操作して他のフォルダを順に開き始めた。
古いログ。古いスケッチ。古い書き置き。
途中で放棄され、二度と動くことのなかったプロジェクトの残骸が次々と画面に現れる。結末を迎えることのなかった漫画。プロットだけで力尽きた小説。名前も与えられないまま放置されたキャラクター。すべてが、中途半端なところで時を止めていた。
その総量は、麗自身が目を背けたくなるほどに膨大だった。
「ずいぶんと死屍累々ですね」ひよりが淡々と言った。
「黙りなさい」
「優に百は超えてますよ」
「数えないで」
「正確には百三十二個です」
「だから、なんで数えるのよ」
ひよりが喉の奥でくくくと笑う。麗は耳の裏が少し熱くなるのを感じていた。
完成しなかった作品。世に出ることのなかったアイデア。誰の目にも触れることなく、この冷たいハードディスクの底で眠り続けているガラクタ。ただそれだけのもの。
しかし、その光景をじっと見つめているうちに、麗の胸の中に奇妙な実感が湧き上がってきた。
どれも失敗作だ。どれも途中で投げ出されたものだ。それなのに、画面に浮かび上がるサムネイルのどれもが、妙に親しみ深く、愛おしい。
麗はまだ覚えていた。これを描いていた長い夜の空気。あの時に抱えていた、出口のない混迷。そして、確かにそこにあった、淡い期待。それらの記憶が、古いデータの解凍とともに、一気に脳内へ溢れ出してくる。
「ログ、ですね」と、ひよりが呟いた。
「ログ?」
「人間のログです」
「どういう意味よ」
「失敗のログ。あるいは、不細工な足跡。それなのに、麗さんはこれを消さなかった」
麗は改めて液晶画面を見つめた。
確かにその通りだった。八年前の、空っぽの『新しいフォルダ』も、途中で力尽きた漫画のネームも、すべてがそこに残っている。消去キーを叩いてゴミ箱を空にすれば、一瞬で消せるはずのデータだ。それを、彼女はしなかった。できなかった。
明確な理由があったわけではない。ただ、なんとなく、そのままそこに置いておいたのだ。
ひよりが手元のエナジードリンクを一口啜り、炭酸の小さな音を響かせながら言った。
「思うんですけど」
「何をよ」
「人間っていう生き物は、完成させた作品よりも、失敗したログの方が圧倒的に多いんですよ」
麗の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
おそらく、それは真実だ。世に出せるほど完璧に仕上がったものなんて、ほんの一握りに過ぎない。その足元には、無数の失敗作が死体のように積み重なっている。
けれど、今の自分はその歪な積み重ねの上に立っているのだ。そう思うと、目の前のガラクタの山が、少しだけ違う景色に見えてくる。
ひよりは再び画面へと視線を戻した。
「それはそうと」
「何よ」
「この『新しいフォルダ』」
「ええ」
「中身、本当に何もないですね」
「分かってるわよ」
「素晴らしいです」
「どこがよ」
「八年間、何の意味もない空虚を飼い続けていたわけですから。並大抵の母性じゃできませんよ」
麗の口から、突発的な笑いが吹きこぼれた。我慢しようとしたが、無理だった。
窓の外からは、夏の終わりの柔らかな夕暮れの光が室内に差し込み、二人の影を細長く床に伸ばしていた。
液晶画面の上には、古いファイル。失敗した原稿。名もなきプロジェクト。
けれど、そこには確かに、かつての橘麗という人間がもがいていた爪痕が残されている。
たとえ未完成であっても。たとえ失敗に終わったとしても。それは決して、無駄な時間などではなかったのだ。
少なくとも、あの完全に空っぽなフォルダよりは、ずっと意味がある。




