第10章 「コミュニティの漣」
その夜、YLSスタジオは深い静寂に包まれていた。
ガラス窓の向こう側では、夏の終わりを告げるような細い雨が音もなく街を濡らしている。デスクの上には冷めかけた缶コーヒー。液晶モニターには、ここ数日ずっと付き合っている制作途中の原稿。いつもと変わらない、見慣れた深夜の光景だった。
ただ、一つだけ普段と違うところがあるとすれば、橘麗の右手がデジタルペンを握っていないことだった。彼女は作業の手を止め、ブラウザの画面に開かれたクリエイター向けのオンラインコミュニティの掲示板を、じっと見つめていた。
そこは、無数の表現者たちが集う匿名の間だ。作品の宣伝、作画技法の議論、新しいツールの使い心地、他愛のない雑談、そして深夜特有の陰鬱な愚痴。あらゆる言葉が、濁流のように絶え間なく流れ落ちていく場所。
古くからある、居心地の悪い掃きだめのような場所だった。麗も時折、作業の合間に眺めることはあったが、自ら書き込むことは滅多にない。いつも、ただの無害な傍観者として、画面の向こうの喧騒を眺めているだけだった。
今日もそのつもりだった。しかし、現在の掲示板は、ある二文字のアルファベットによって完全に埋め尽くされていた。
――AI。AI。どこを見ても、その文字列ばかりだった。
まるで雨の日に一斉に開かれた傘のように、視線をどこへ動かしても同じ色彩が視界を塞ぐ。
『もう俺たちの技術じゃ、逆立ちしても勝てない』
『そういう時代なんだろ。諦めて受け入れるしかない』
『面白ければ道具なんて何でもいい。読者は過程なんて見てない』
無数の意見が、まとまりのない破片となってタイムラインを滑り落ちていく。激しい怒りを燃やす者、すべてを諦めて虚無に沈む者、新しい技術の到来に浮き足立つ者、静かに事態の推移を見守る者。
誰一人として同じ方向を向いていない。だからこそ、その場所が発する雑音は、いつも以上に不協和音となって耳の奥を震わせた。
麗はスクロールする指を止めた。文字を追うだけで、頭の芯がじわじわと疲弊していくのが分かる。誰の主張が正しくて、誰の見通しが間違っているのか。おそらく、この場所にいる誰一人として正解など持っていないのだろう。だからこそ、彼らは不安を打ち消すように、大声で言葉を垂れ流し続けるのだ。
背後から、布地が床を擦る奇妙な引きずり音が近づいてきた。
振り返ると、ひよりが毛布を頭からすっぽりと被り、さながら歩く寝具のような姿で移動してきていた。
「何を見てるんですか」毛布の隙間から、眠そうな目が覗く。
「コミュニティの掲示板よ」
「賑やかですね」
「見てるだけだけどね」
ひよりは麗の肩越しに、発光する画面をじっと見つめた。三秒。五秒。十秒。眠気が残っているはずの横顔が、妙に真剣な輪郭を結んでいく。
「たくさんいますね」
「何がよ」
「人間が、ですよ」
麗が怪訝そうな顔をすると、ひよりは毛布の位置を直しながら淡々と言葉を繋いだ。
「怒っている人間。不安に怯えている人間。ただ眠いだけの人間。……あ、あそこのスレッドの人は、今日の晩ご飯のおかずについて真剣に悩んでますね」
「それ、この議論に何か関係ある?」
「大いにあります。極めて地に足がついた、重要な生存戦略です」
麗には、到底そうは思えなかった。
ひよりはおもむろに、麗のデスクの横にある丸椅子に腰掛けた。
彼女がスタジオの「椅子」に座るのは、きわめて珍しいことだった。普段はまるで床の精霊であるかのように、畳やフローリングの上にしか生息していないというのに。麗は思わず目を丸くした。
「椅子に座るなんて、珍しいじゃない」
「今日は特別なんです」
「何がよ」
「床が、物理的に遠かったので」
相変わらず、重力の法則を無視したような破綻した言い訳だった。
モニターの向こうでは、議論という名の感情のぶつけ合いが、今この瞬間も絶え間なく更新され続けていた。新しい投稿、それに対する冷淡な返信、さらに火をくべるような過激な意見。止まる気配はどこにもない。
それはさながら、夜の海に広がる終わりのない漣のようだった。一つの不安が別の不安を呼び寄せ、一つの焦燥が周囲の焦燥を増幅させていく。目に見えない伝染病のように、不穏な波紋が画面いっぱいに広がっていく。
「コミュニティっていうのは、どうしてこうも非効率なんでしょうね」ひよりが丸椅子の上で膝を抱え込みながら呟いた。
「非効率?」
「不安を抱えた人間が百人集まると、不安が百倍になるシステムです。ただの冷え込みの共有ですよ」
麗の唇から、小さな苦笑が漏れた。
「……まあ、一理あるわね」
「効率的に絶望を分配しているわけです」
悪趣味な冗談だった。しかし、妙に納得してしまう自分がいることも確かだった。
同じ悩みを抱える他者の存在に、救われる夜もある。けれど同時に、他人の底なしの不安に引きずり込まれ、自分の足元までグラグラと揺らいでしまう夜もあるのだ。感情の波及というものは、いつだって防壁を簡単に越えていく。
麗はマウスを操作し、ブラウザのタブを冷徹に閉じた。
喧騒に満ちた画面が消え去り、デスクの上には真っ白なデジタルキャンバスだけが残された。網膜を刺していた不協和音が、一瞬にして凪いだような錯覚を覚える。
「閉じちゃったんですね」と、ひよりが言った。
「ええ」
「人間たちが消えました」
「消えてないわよ。ただ画面から見えなくなっただけ」
「同じことですよ。視界から消えれば、それは存在しないのと同じです」
ひよりは麗のデスクから、すっかり冷めた缶コーヒーを我が物顔で奪い取ると、小さく口元を緩めた。
「掲示板の書き込みも、私たちが描く作品も、本質的には同じなんですよ」
「どういう意味?」
「ただの、波です」
麗が眉をひそめると、ひよりはそれ以上説明することなく、缶コーヒーを喉に流し込んだ。一回、小さく喉が鳴る。
「寄せては」
一息置いて、もう一口。
「返す」
それから、空になった缶をデスクにコツンと戻した。
「時折、わけのわからない大きな潮流が来て、すべてを押し流そうとする。それだけのことです」
「それ、ただの海の描写じゃないの?」
「だいたい同じようなものです」
窓の外では、細い雨が相変わらずスタジオのガラスを静かに叩き続けている。
画面の向こう側の世界では、今夜も無数の人間たちが言葉を戦わせ、怒り、不安に震え、あるいは黙々と新しい作品を暗闇へと放り投げているのだろう。世界はいつだって、目まぐるしく、そして騒がしい。
けれど、この薄暗いスタジオの空気だけは、不思議なほど凪いでいた。
麗は再び、馴染みのあるデジタルペンの重みを右手に感じながら、それを深く握り直した。
少なくともこの雨の夜にすべきことは、画面の向こうの不確かな大波を眺めて立ち尽くすことではない。
自分の手元にある、この小さな一本の線を引くこと。結局のところ、彼女に許された抵抗は、それだけだった。




