第8章 「比較」
あの一行は、未だにそこにあった。
当然といえば当然だ。デジタルデータというものは、誰かが削除キーを叩かない限り、自然に消滅することなどない。
モニターの電源を切っても、目を閉じて無理やり眠りに就いても、夜が明けて新しい朝が来ても、文字列は冷ややかに残り続ける。
橘麗は、薄暗いワークスペースのデスクに向かっていた。液晶モニターには昨日と同じキャンバスが広がり、右手にはデジタルペンが握られている。一見すれば、いつもと変わらない単調な作業が淡々と進んでいるように見えた。
だが、見かけの平穏とは裏腹に、思考の焦点がどうしても定まらない。
一本の線を引く。その瞬間に、網膜の裏であの声が明滅する。
『これ、どこのAI使ってますか?』
ノイズを振り払うようにショートカットキーで線を消し、もう一度引き直す。だが、ペンの先が画面に触れた途端、また同じ文字列が意識の隙間に滑り込んでくる。
怒っているわけではない。それは本当だ。けれど、感情が波立たないことと、それが思考の邪魔にならないこととは、まったく別の問題だった。
人間の脳というものは、どうしてこれほど都合悪くできているのだろう。百の無難な言葉は一瞬で忘却の彼方に消え去るのに、たった一つの引っかかりだけが、澱のように底へ底へと沈殿していく。
背後の床の上では、ひよりが仰向けになったままスマートフォンの画面を眺めていた。
今回は眠っていないようだ。いや、ただ辛うじて意識を保っているだけかもしれない。爆発した黒髪の間から、液晶の青白い光が彼女の瞳を微かに反射していた。
「麗さん」
天井を見つめたまま、ひよりが低い声を投げかけてくる。
「何よ」
「比較、してます?」
麗の手元が、画面の上でピタリと静止した。
「比較って、何とよ」
「世界、ですかね」
意図を掴みかねて麗が振り返ると、ひよりは寝転がった姿勢のまま、スマートフォンの画面をこちらに向けて掲げた。
表示されているのは、昨日も目にしたPXAの「おすすめ作品」のタイムライン。そこに躍る、天文学的な閲覧数の数々。今この瞬間も猛烈な速度で消費され、絶賛されている、見知らぬ誰かの巨大な数字。
「比較の規模が、大きすぎるんですよ」ひよりはスマートフォンを胸の上に落とし、淡々と言った。「世界の人類は八十億人。麗さん、その全員に勝てると思ってます?」
麗は自嘲気味に息を漏らした。
「まさか。思うわけないでしょ」
「ですよね」
ひよりは満足そうに小さく頷くと、冷めきった缶エナジードリンクを一口啜り、天井を見上げたまま言葉を添えた。
「だったら、どうしても何かと比較したいなら、昨日の自分とでも比べておけばいいじゃないですか」
麗は、ゆっくりと視線をモニターへと戻した。
昨日のネーム。先月の原稿。一年前の、まだ線の覚束ないイラスト。
スタジオの共有サーバーの奥深くには、過去に作成した無数のデータがフォルダごとに保管されている。見るに堪えない歪んだデッサン、途中で挫折したネーム、あるいは何の意味もなく放置された実験的な落書き。そのすべてが、消去されることなくそこに眠っている。
麗はおもむろにマウスを操作し、一年前の日付が打たれた古いフォルダを開いた。いくつかのファイルを液晶に表示させ、数秒間、じっと見つめる。
「……下手くそね」
「そりゃあ、一年分は昔の絵ですからね」と、ひよりが床から応じる。
「でも」
「でも?」
「……今の私なら、この線の間違い、簡単に直せるわ」
ひよりが、喉の奥でくくくと低く笑った。
「おめでとうございます。進歩してますね」
それだけの会話だった。本当に、それだけの、中身のない雑談。
けれど、その微かなやり取りだけで、胃の底に溜まっていた重苦しい塊が、少しだけ軽くなったような気がした。
昨日の自分。一年前の、不器用だった自分。あるいは、三年前の、何も分からずにただペンを走らせていた自分。
比較すべき相手がいるとするならば、それは画面の向こう側にいる顔も名前も知らない記号の羅列ではなく、過去の自分が歩んできた足跡の数々のはずだ。
窓の外では、夏の終わりの重い雲が、夜の帳に向かってゆっくりと形を変えながら流れていく。
スタジオの空気は相変わらず静まり返り、換気扇の回る音が単調なリズムを刻んでいる。
あのコメントは依然として画面の隅に残ったままだ。きっと、明日になっても、来週になっても、完全に消えてなくなることはないのだろう。
けれど、その文字列が持っていた冷たい質量は、部屋を満たす夜気の中に、少しずつ、確実に溶け込んで薄まり始めていた。
麗は再びデジタルペンを深く握り直し、キャンバスに新しい一本の線を引き下ろした。
今度は、ショートカットキーに指は伸びない。
ほんの数ミリの、取るに足らない前進。それでも、彼女のペン先は確かに、昨日とは違う場所へと進んでいた。




