第7章 「どこのAIか」
新着コメントの通知が、暗い作業部屋の片隅で小さく跳ねた。
画面を切り替えると、そこに表示されたのは文字通り、たった一件の書き込みだけだった。投稿から二日が経過し、閲覧数もお気に入り登録も、乾いた砂に水が染み込むような鈍い速度でしか増えていない。大失敗というほど悲惨でもなければ、かといって誰かの話題に上るわけでもない、冷え切った現実の数字。
だからこそ、その小さな通知の灯りを目にしたとき、橘麗の胸にはかすかな熱が宿った。
作画のどこかを褒めてくれたのかもしれない。続きが読みたいという熱意かもしれない。ほんの一行の、ありふれた言葉でいい。それだけで、次に引く一本の線が軽くなるような気がしていた。
麗は右手でマウスを握り、通知の矩形をクリックした。開かれたコメントボックスの白い光が、彼女の青白い顔を無機質に照らし出す。
そこには、簡潔すぎる一行が並んでいた。
『これ、どこのAI使ってますか?』
麗の指先が、マウスのホイールの上で完全に凍りついた。
「……」
一度、小さく瞬きをしてから読み直す。網膜に映る文字列は変わらない。
『これ、どこのAI使ってますか?』
きわめて平易で、捻りのない日本語だった。悪意が混じっている気配はない。ただ純粋に、最新の便利な道具について尋ねるような、無邪気な好奇心。
それなのに、喉の奥に冷たい棘がぐさりと突き刺さったような違和感が、いつまでも消えなかった。
部屋の中には、ただ換気扇が回る単調な低音と、デスクトップPCの冷却ファンが吐き出す微かな熱だけが沈殿している。
麗は液晶モニターを凝視したまま、彫刻のように動けずにいた。十秒、三十秒、一分。時間は静かに流れていく。
頭の中が急激に冷えていく一方で、感情の行き場が見つからずに澱んでいく。返信すべきだろうか。それとも、「手描きです」とだけ冷淡に返すのが正解なのだろうか。
いや、そもそも何が違うというのか。
相手は自分を罵倒したわけではない。下手だと罵ったわけでもない。ただ、現代の技術について問いかけているだけだ。それなのに、どうしてこれほどまでに胃の底が重く、苦いものがこみ上げてくるのか。
デスクの上の黒いマグカップには、すっかり冷めきったブラックコーヒー。モニターの向こうには、昨日から何も進んでいない制作途中のキャンバス。部屋の景色は何一つ変わっていないはずなのに、窓から差し込む夕闇のせいで、スタジオの輪郭がひどく歪んで見えた。
背後から、スリッパが床を擦る静かな足音が近づいてきた。
蘭花ひよりが、麗のワークチェアの真横に滑り込んでくる。彼女は麗のデスクの角に腰掛け、長い足をぶらつかせながら、液晶画面の端に表示されたその一行を、じっと見つめた。
しばらくの沈黙。
「なるほどね」
ひよりの口から漏れたのは、それだけだった。
麗は自嘲気味な薄い笑みを浮かべ、画面から目を逸らさずに言った。
「なるほどね、って何よ」
「言葉通りの意味ですよ」
ひよりは組んだ膝を軽く叩いた。
「傷つきました?」
麗はすぐに答えを返せなかった。認めるのが癪なのか、それとも自分の感情の正体が分からないのか、おそらくはその両方だ。
「……別に」
「嘘ですね」
「なんでよ」
「三分間、完全に息が止まってましたから」
麗は口を噤んだ。事実、彼女の意識はあの一行の前に釘付けにされていた。
ひよりは再び画面のコメントに目を戻し、淡々と言った。
「悪気はないんでしょうね、この人」
「分かってるわよ」
「それが一番、始末が悪いんですけど」
麗が視線を向けると、ひよりはどこか冷めた、けれど妙に納得したような瞳で言葉を続けた。
「明らかな誹謗中傷なら、怒ればいいじゃないですか。言い返したり、通報したり、エネルギーを外に発散できる。でも、これはただの質問です。純粋な興味の顔をして、こちらの土台をノックしてきている」
麗は何も言わずに、ひよりの言葉を聞いていた。その通りだった。悪意のない問いかけほど、こちらの防壁を容易にすり抜けて、内側をかき乱していく。
「麗さん」
「何よ」
「逆に聞いてもいいですか?」
「……いいけど」
ひよりは細い指先で、液晶画面を軽く小突いた。
「この質問をした人は、麗さんがこの一枚に何十時間を費やしたか知ってますか?」
「知らないでしょうね」
「何回、線の引き直しを繰り返したか知ってますか?」
「知らないわよ」
「思い通りにいかなくて、何回ファイルをゴミ箱に放り込んだか知ってますか?」
「……知るわけないじゃない」
ひよりは小さく頷いた。
「じゃあ、それで終わりです」
それ以上の言葉はなかった。安易な慰めも、お説教じみたアドバイスも、何一つない。ただ、冷徹で動かしようのない「事実」だけが、部屋の静けさの中にぽつんと置かれた。
麗はもう一度、モニターの文字列に目を落とした。
『これ、どこのAI使ってますか?』
たった一行。記号の羅列。
けれど、その向こう側にいる読者は、このスタジオの長い夜を知らない。終わりのないリテイクも、挫折も、自棄になって消去した無数のレイヤーの存在も、何一つ知らないのだ。彼らにとって、目の前にある作品は「完成された一枚の出力結果」でしかない。その裏側にある泥臭いプロセスは、最初から見えていないし、これからも永遠に見えることはない。
麗は、胸の奥に溜まっていた重い空気を、ゆっくりと吐き出した。
それは怒りではなかった。悲しみでもない。ただ、自分の世界の営みが、他者とは決して交わらない場所に孤立しているような、かすかな寂寥感だった。
静まり返った室内で、パキッという小気味よい金属音が響いた。ひよりが新しいエナジードリンクのプルタブを引き抜いた音だ。炭酸の微かな弾ける音が、スタジオの淀んだ空気をわずかに震わせる。
「そういえば」
「何よ」
「私、一度もAIと間違えられたことないんですよね」
「……なんでよ」
「見ての通り、あまりにも人間らしすぎるからでしょうね」
「さっきまで床に転がって寝てた人間がよく言うわ」
「床っていうのは、人間の原点なんですよ。地面に一番近いところで生存を確認する。つまり、床は人間です」
相変わらずの破綻した論理だった。しかし、麗の唇からは、今度こそ本物の小さな笑いが零れ落ちていた。
胸の奥に刺さっていた小さな刺が、ひよりの乱暴な雑談によって、少しだけ磨り減って軽くなったような気がした。
窓の外では、夜の風がスタジオのガラス窓をがたがたと小さく揺らしている。
液晶モニターの白い光は変わらずそこにあり、画面の端のコメントも消えずに残っている。
それでも、麗は再び、使い慣れたデジタルペンを右手に握り直した。
線を引くこと。結局、彼女の居場所はそこにしかなかった。




