第6章 「おすすめ」
翌朝。
蘭花ひよりは、相変わらず床の上で転がっていた。
毛布は申し訳程度に下半身だけを覆い、持ち前の黒髪はあらゆる方角へと無秩序に爆発している。世界のいかなる理不尽とも無縁です、と言わんばかりの、あまりにも平和で無防備な寝顔だった。
橘麗はワークチェアに深く腰掛けたまま、黒いマグカップに淹れた濃いめのブラックコーヒーを片手に、スマートフォンの液晶を眺めていた。これといった目的があったわけではない。ただ、指先が手持ち無沙汰だったから、というだけの理由だ。
ブラウザの画面には、PXAの「おすすめ作品」というタイムラインが何気なく開かれていた。
「……」
スクロールしていた麗の親指が、ぴたりと止まる。
そこには、目まぐるしく変化する色鮮やかなサムネイル、今まさに注目を集めている急上昇中の作品、そして毎分のように更新される最新のトレンドが並んでいた。
どれも見覚えのない名前ばかりだ。それは当然のことだった。毎日のように数万、数十万のコンテンツが濁流のごとく生み出されるこの場所で、そのすべてを把握することなどできるはずもない。
だが、麗の目を引いたのはそこではなかった。
おすすめに並ぶ作品群の多くには、奇妙な共通点があった。
投稿日時を表示するタイムスタンプが、どれも「三時間前」「一時間前」「三十分前」といった、ごく最近の刻印を打たれていること。それだけなら、ただの新着作品だ。
不可解なのは、その横に並ぶ閲覧数の数値だった。
数万。数十万。数百万。
物理的な時間の流れを無視したような、異常な速度で膨れ上がるデジタルカウンター。
麗は、そのタイトル、サムネイル、あらすじ、そしてコメント欄の文字列をじっと見つめ続けた。もちろん、世の中には本物の天才が存在する。圧倒的な人気を誇るメガヒット作が、投稿と同時に数字を爆発させる現象自体は珍しくもない。
けれど、ここ最近の「おすすめ」の空気は、明らかにそれとは異質な何かを孕んでいた。
試しに、ある作品のコメント欄を開いてみる。そこには、どこか無機質で、テンプレートを並べ替えただけのような賛辞が整然と並んでいた。
『素晴らしいクオリティです』
『美しいイラストですね』
『もう次の話が更新されている。神がかった制作スピードだ』
『狂気的なまでの生産力』
麗は画面を閉じ、別の作品のページを開く。やはり似たような景色が広がっていた。閉じて、また次を開く。やはり同じだ。
麗は、そのシステムの後ろ側にある最新のアルゴリズムだとか、技術的なメカニズムといった専門知識には疎い。それでも、表現の最前線に身を置く者として、世界が何に侵食されつつあるのかを肌で理解するには十分だった。
――生成AI。
その文字列を耳にする機会は、去年の今頃よりも、先月の今頃よりも、そして昨日の夜よりも、確実に増えている。
麗はスマートフォンを液晶が下になるようにして、デスクの端へとそっと置いた。
誰かを攻撃したいわけではない。時代の潮流に逆らって、大声で正義を叫びたいわけでもない。ただ、冷徹な数字の暴力を前にして、胸の奥が少しだけ、物理的に締め付けられるような感覚があった。
自分が昨日、魂を削るようにして投稿した作品の閲覧数は、現在「12」。
画面の向こう、おすすめの最上段に君臨する作品の閲覧数は、「20万」。
比較すべきではない。そんなことは、骨の髄まで分かっている。土俵が違うのだ。比べること自体がナンセンスだと、理屈では百回だって自分に言い聞かせられる。
それでも、人間の脳という不完全な臓器は、視界に入った数字を自動的に、冷酷に比較してしまう。その制御不能なバグこそが、表現者を最も深く苛むのだ。
背後で、もぞもぞと毛布が蠢く気配がした。
ひよりが上体を起こす。髪の毛を重力に逆らわせたまま、眠気の残る目で世界を睨みつけている。彼女はおもむろに自分のスマートフォンを引き寄せると、寝起きの手つきでPXAの画面を開いた。
三秒、画面を凝視する。さらに五秒。もう一度、三秒。
それから、麗のデスクの横に置かれていた、すっかり冷めきったエネルギー飲料の缶を掴んで一気に喉へと流し込んだ。
「人類は滅亡しましたね」
麗は椅子を回して、呆れたような目を向けた。
「起きて第一声がそれ?」
「麗さん、おすすめ欄を見ましたか」
「見てたわよ」
「なんと美しい世界でしょう」
ひよりは感情の起伏がない声のまま、ひどく感心したように細かく首を振った。
「人間が何百時間もかけて、血と反省を繰り返しながら積み上げる一本の線を、彼らは数秒の演算で完璧に処理してしまう。圧倒的なまでの合理性です」
「……言い方」
「ですが事実です。私たちの存在価値が、秒単位で暴落していく音が聞こえませんか」
麗は何も答えなかった。反論する言葉を持たなかったし、かといって、ひよりの乾いた諦観に全面的に同意してやるのも癪だった。ただ、静まり返ったスタジオの中で、沈黙だけが重く堆積していく。
ひよりは空になった缶をデスクに置き、寝癖のついた頭をぽりぽりと掻きながら言葉を繋いだ。
「でも、妙な話ですよね」
「何がよ」
「世の中が便利になればなるほど、人間の締め切りはきつくなって、みんな余計に忙しそうに走り回っている。ツールの進化に、人間の精神のアップデートが追いついていない証拠です」
麗の唇から、かすかな苦笑が漏れた。
確かに、ひよりの言う通りかもしれない。より速く、より簡単に、より効率的に。世界はその方向へ向かって全速力で加速しているはずなのに、なぜか創作者たちは、以前よりもずっと焦燥感に追われ、息急き切って走らされているように見える。
ひよりは大きく一つ大きな欠伸をすると、最後に思い出したように付け加えた。
「まあ、いいじゃないですか。麗さんは麗さんで、おすすめはおすすめです。分類学上、全く別の生き物なんですから」
論理的には何の解決にもなっていない、ひよりらしい乱暴な結論だった。しかし、どうしてだろうか。その投げやりな言葉が、麗の強張っていた肩の力を、ほんの少しだけ抜いてくれた。
窓の外では、大きな積乱雲がゆっくりと形を変えながら、夏の終わりの空を流れていく。
液晶画面の向こうでは、まだ真っ白なままの新しいネームが、無言で麗のペン先を待っている。
デスクの上では、飲み残されたコーヒーがすっかり冷やされ、おすすめ欄のカウンターは、今この瞬間も光速で回転し続けている。
世界は相変わらず、他人の都合などお構いなしに忙しい。
それでも、麗はもう一度、デジタルペンをその指に握り直した。
自分にできることは、結局のところ一つしかないのだ。
線を引くこと。ただ、それだけだ。




