第5章 「1PV」
投稿ボタンをクリックした瞬間、橘麗は椅子の背もたれに深く体重を預けた。肺の底に残っていた熱い空気を、小さな溜息とともに吐き出す。
何日もかけて修正を繰り返し、何度も自分の才能を疑う原因になったあのページが、ようやく世界の片隅へと送り出された。胸を満たしたのは、かすかな解放感だ。本当に、爪の先ほどの些細な安堵。
しかし、その温もりはすぐに別の感情によって冷酷に塗りつぶされていく。麗は無意識のうちに、管理画面の作品ページを開いていた。
閲覧数、コメント、お気に入り登録。数値を表す無機質なデジタルフォントが、ブラウザの更新を待っている。
やはり、何一つ変わっていない。
「まあ、当然よね……」
投稿した直後なのだ。神様でもあるまいし、一瞬で誰かの目に留まるはずがない。理屈では百も承知だった。分かっている。頭では、完璧に理解できている。
それでも、指は止まらない。
五秒後に、ページをリロードする。十秒後に、もう一度リロードする。二十秒後にも、やはり同じキーを叩く。
数字は沈黙を保ったままだ。それが世界の正常な反応だった。
「何してるんですか」
いつの間にか真横に立っていた蘭花ひよりが、麗の顔を覗き込んできた。
「見てるのよ」
「何を?」
「数字」
「あまり健康的とは言えませんね」
麗は反論を諦めて黙り込んだ。ひよりの指摘が、ぐうの音も出ないほど正論だったからだ。
画面上の数字は、時に麻薬のような快楽をもたらし、時に刃物のような痛みを突きつけてくる。その両方が、一つの画面に同居している。
リロード。変化なし。リロード。相変わらず。リロード。
その時、突如として閲覧数の末尾が跳ね上がった。
「あ」
麗の唇から、小さく掠れた声が漏れる。
「1」
その数字が、液晶の境界線を超えて確かにそこに存在していた。
「おめでとうございます」ひよりが淡々と言った。
「ええ」
「一人の人間ですね」
「そうね」
「正真正銘のホモ・サピエンスです」
「分かってるわよ」
どこか胸の奥がじんわりと温かくなる。たったの一つ。それでも、ゼロではない。
世界のどこかにいる誰かが、今この瞬間にそのページを開いたのだ。ほんの数分前まではこの世に存在しなかった物語を、今、誰かが読んでいる。
あまりにも小さな、頼りない数字。けれど、「ゼロ」と「一」の間には、宇宙ほどの隔たりがある。ゼロは虚無だが、一は確実に誰かがそこにいるという証明だ。
それだけで十分だった。少なくとも、最初の三分間くらいまでは。
リロード。1。リロード。1。リロード。やはり、1。
「……」
麗は口を噤み、ひよりの方も言葉を失ったように画面を見つめている。スタジオに、ひどく長く不毛な沈黙が流れた。
やがて、ひよりが静かに告げた。
「増えませんね」
「……言わないで」
「ぴたりと止まってます」
「見れば分かるわよ」
「驚くほど微動だにしない」
「出てって」
ひよりは低く笑い、麗は再び深く重い溜息を吐き出した。
数字というものは、残酷なまでに正直だ。作者の淡い期待も、血の滲むような努力も、一切顧みることなくただの結果だけを提示する。そのシンプルさが、時に牙を剥く。
窓の外では、夕闇が本格的に街を侵食し始めていた。静まり返った室内で、規則的なクリック音だけが響く。
リロード。1。リロード。1。――リロード。
「2」
「あ」
今度は二人同時に声が出た。
ひよりが画面に顔を近づける。「増えましたね」
「増えた……」
「二人目です」
「二人……」
麗の口元に、本当に微かな、消え入りそうな笑みが浮かんだ。
ランキングに入るわけでもない。おすすめ枠に載るわけでもない。世間の流行論争に巻き込まれることすらない。それでも。
二人。二人の人間が、自分の描いたものに時間を割いてくれた。ただそれだけの事実が、冷え込み始めた今日という日を肯定してくれるような気がした。
ひよりが手元の珈琲を一口啜り、何でもないことのように切り出した。
「ちなみに」
「何よ」
「そのうちの一人、私です」
麗の思考が、唐突に凍結した。
「……は?」
「さっきスマホで踏みました」
「なんでよ」
「見ていて可哀想だったので」
「余計なお世話よ!」
「人道支援、あるいはボランティア活動の一環です」
「それを支援って言うの!?」
「言いますね。私の清き一票が、麗さんのメンタルを崩壊から救った。歴史的快挙です」
ひよりは至って大真面目な顔で言い放ち、麗はいたたまれずに両手で自らの顔を覆った。
閲覧数:2。
その内訳の半分が、目の前にいる口の悪い同居人。
感情の落としどころとしては非常に複雑で、いっそ頭を抱えたくなるような結末だった。しかし、どうしてだろうか。麗の唇からは、結局のところ小さな苦笑が漏れてしまうのだった。
数字は小さい。あまりにも惨めなほどに。
それでも、純然たるゼロではない。
そしてそのちっぽけな事実だけが、今夜の麗を救うには、十分すぎるほどの重さを持っていた。




