第4章 「更新はまだか」
午前七時十二分。
一ノ瀬直哉は、スマートフォンの液晶画面を凝視していた。正確に言うなら、親指の先で画面を上から下へと執拗に引っ張り、更新のシグナルである小さな輪を何度も回し続けている。
更新。更新。やはり、更新は、ない。
画面の向こう側の世界は、数時間前と完全に同じ静寂を保ったままだ。
「まあ、まだだよな……」
直哉は誰に聞こえるでもない声で呟き、自嘲気味に口元を緩めた。
公式な更新スケジュールが告知されているわけではない。次の話をいつまでに投稿するという約束など、最初から存在しないのだ。それでもなお、読者という生き物は待ち続ける。そして、何の根拠もない奇跡を、心のどこかで都合よく期待してしまう。それが決して悪いことだとは思わない。直哉自身が、まさにその典型例なのだから。
仕事の合間に。移動の電車内で。あるいは、枕元に放り投げた布団の中で。気がつけば指が勝手に動き、お気に入りの作品が「進んでいるか」を確認している。ただそれだけの行為だ。しかし、彼らにとっては生活のいくばくかを支える、妙に切実な儀式でもあった。
PXAの画面に表示されたその作品の、最終更新日時は「三日前」。
「うん、三日前なら普通に許容範囲内だろ」
一度、スマートフォンの画面を暗転させる。
だが、そのわずか三秒後。
「いや、でもな」
再び液晶に光を灯す。画面を引っ張る。変わらない。暗転させる。さらに五秒後、また同じ動作を繰り返す。
傍から見れば、ただの不審者か重度の依存症にしか見えないだろう。当然、作者の側が知る由もない。世界のどこかで、一人の読者がこのようにして、狂ったように更新ボタンを連打しているという事実を。
*
同日、昼下がりのYLSスタジオ。
橘麗は、液晶ペンタブレットの前に座り込んだまま、両手で自らの頭を抱え込んでいた。
「違う。これじゃない」
せっかく引いた線を、ショートカットキーひとつで冷徹に消去する。
「これも、違う」
もう一度引き直す。
「全然ダメだ」
また消す。
客観的に見れば、そのページはすでに完成していた。締め切りという名の絶対的な境界線に照らし合わせれば、今すぐ納品しても誰も文句は言わないレベルだ。しかし、麗の脳内にある「完成」の基準は、それを断固として許可しなかった。
キャラクターの眉のわずかな傾き。背景の線の、ミリ単位の太さの不揃い。吹き出しの配置がもたらす、視線誘導の不自然さ。すべてが気に障る。すべてを直したくなる。気がつけば、同じ一コマの修正だけに二時間が溶けて消えていた。
そんな麗の背中に向かって、ソファから気配を消していた蘭花ひよりが、平坦な声を投げかけた。
「更新、まだですか」
麗の肩が、びくりと跳ねる。
「……言わないで」
「更新、まだですか」
「言うなってば」
「読者が待ってますよ」
「分かってる」
「更新、まだですか」
「分かってるって言ってるでしょ!」
麗が振り返って声を荒らげても、ひよりはどこ吹く風でマグカップの珈琲を啜った。それから、少しも感情の起伏を感じさせない無表情のまま、淡々と言い添える。
「私も待ってますし」
「あんた、私の作品読んでないでしょ」
「読んでませんね」
「じゃあ一体何を待ってるのよ」
「締め切り直前の、人間の泥臭い修羅場劇です。とても栄養価が高い」
「……出てって」
ひよりは低く喉を鳴らして笑い、麗は深い、重苦しい溜息をついた。
「更新」という言葉には、奇妙な魔力が宿っている。
世に出したい。誰かに読んでほしい。この物語の先を紡ぎたい。その欲求に嘘はないはずなのに、いざ公開の「送信」ボタンが近づくにつれ、それは底知れない恐怖へと変質していく。
本当にこれで足りているか。まだ修正の余地があるのではないか。もっと、劇的に良くできるのではないか。脳内を無限に巡る問いかけには、いつまで経っても終わりが来ない。
かつて、まだただの趣味として描いていた頃は違った。描けた、投稿した、終わり。それだけで完結していたはずだった。
一体いつからだろうか。この「完成の一歩手前」というフェーズが、精神を最も激しく摩耗させる拷問のようになってしまったのは。
麗は再び画面を見つめる。感覚としては、九十九パーセントまで到達しているのだ。その数字に論理的な根拠などないが、確かにそう感じる。あと少し。本当に、あとほんの少し。それなのに、最後の「一パーセント」の距離が、無限の彼方のように遠い。
いつの間にか背後に忍び寄っていたひよりが、麗の肩越しに画面を覗き込んだ。
「麗さん」
「何よ」
「読者は、そこまで細かい線の違いなんて見てませんよ」
麗は、直前とほとんど見分けのつかない修正前後のレイヤーをパチパチと切り替えながら、画面から目を離さずに即答した。
「私が、見てるの」
ひよりは小さく、満足そうに目を細めた。
「クリエイターの不治の病、ですね」
「……うるさい」
窓の外からは、穏やかな夕暮れの光が室内に差し込み始めていた。
どこかの街で、直哉は未だにスマートフォンの更新ボタンを押し続けている。
このスタジオで、麗は未だに終わりのない線を消し続けている。
そしてひよりは、冷めかけた珈琲を静かに口に運んでいる。
一見すれば、世界は何一つ進展していないように見える。しかし、表現という名の産物は、往々にしてこうした「他者からは見えない無駄な時間」の堆積からしか生まれない。
麗は再び、デジタルペンを強く握り直した。
これが最後の一線。本当に、これで終わりにする。
そう心の中で呪文のように唱えながら、彼女はまた、新しい線を画面に引き下ろした。




