第3章 オートセーブの祈祷
その夜、雨は降っていなかった。
代わりに、生ぬるい夜風が窓の外で小さく音を立てて蠢いている。
午前一時四十分。YLSスタジオに響いているのは、スタイラスペンが液晶タブレットの表面を擦る、乾いた摩擦音だけだった。
橘玲は、ただ一心不乱に手を動かし続けていた。モニターに開かれた原稿のキャンバスは、まだ余白が多い。
直近に迫った締め切りがあるわけではない。誰かに急かされているわけでもない。それなのに、彼女は今、絵を描かなければならないという奇妙な強迫観念に囚われていた。
クリエイターには、時折そういう夜が訪れる。明確な理由などない。ただ、一度握った手がどうしても止まらなくなるのだ。時間は容赦なく泥のように流れ、いつの間にか足元には空の缶コーヒーが転がっている。気づけば窓の外が白み始め、翌朝には決まって、泥のような疲労感とともに激しい後悔が押し寄せる。そんな不毛な夜だと分かっていても、ペンを置くことはできなかった。
キュッ、と線が引かれ、わずかに修正され、消去される。
描き直され、また消される。その単調なループの繰り返し。
ふと、画面の片隅に小さなポップアップメッセージが明滅した。
――自動保存が完了しました。
玲はその文字をじっと見つめた。数秒後、再び目をやる。さらに、もう一度。
「……」
彼女は無言のまま、左手で使い古されたショートカットを叩いた。コントロール・キーとS。
カチリ、と微かな音がして、保存が上書きされる。
それから、ほんの数十秒しか経っていないというのに、彼女の左手は磁石に吸い寄せられるように、再びコントロール・キーとSを押し込んでいた。
さらに十数秒後。コントロール・キーとS。
客観的に見れば、それはほとんど精神的な疾病の類に近かった。けれど玲は知っている。表現を仕事にする人間の多くが、これとまったく同じ、不可解な強迫症状を抱えているということを。
「また保存したでしょ」
背後から、眠気を含んだ声が降ってきた。
嵐花日和だった。相変わらず毛布をミノムシのように巻き付けたまま、のそのさと冷蔵庫の方へ歩いていく。
「してない」
「嘘。いま、カチッて聞こえた」
「してないってば」
「絶対に聞こえた。私の耳はごまかせないよ」
バタン、と気の抜けた音を立てて冷蔵庫が閉まる。日和は中から新しい缶コーヒーを取り出し、玲の椅子の真後ろに陣取った。
「ねえ、玲さん」
「なによ」
「さっき保存してから、まだ三十秒も経ってないよね」
「そうね」
「そのわずか三十秒の間に、一体何が起きるっていうのさ」
日和の呆れたような問いに対し、玲は画面を見つめたまま、極めて大真面目なトーンで返した。
「すべてが消えるかもしれない」
「たった三十秒で?」
「三十秒もあれば、世界が滅びるには十分よ」
日和は、くすくすと喉の奥で笑った。
「人間って本当に、機械っていう存在を信用してないんだね」
「機械じゃない。私が信用してないのは、確率よ」
「かわいそうなパソコン。毎日こんなに尽くしてくれてるのに、三十秒おきに疑われてる」
玲はそれ以上、口を挟まなかった。なぜなら彼女には、その過剰なまでの警戒心を正当化するに足る、苦い過去があったからだ。
数年前の、ある冬の夜。五時間に及ぶ緻密な作業データが、一瞬にして電子の藻屑と消えた。
原因がアプリケーションのフリーズだったのか、突発的な停電だったのか、あるいは自分自身の単純な操作ミスだったのか、今となっては詳細を思い出すこともできない。
ただ、脳裏に焼き付いているのは、すべてが消え去った瞬間の光景だけだ。
真っ白になった画面。完全に停止した思考。二度と戻らないデータ。
自分が確かにそこに費やしたはずの時間も、心血を注いで引き直した無数の線も、何一つとして最初から存在しなかったかのように、冷酷に剥ぎ取られてしまった。
あの日以来、玲にとってコントロール・キーとSを叩く行為は、単なるデータ管理のプロセスではなくなった。それは生存本能に近いリフレックスであり、呼吸と同じ、無意識の儀式だった。
プシュッ、と日和が缶コーヒーのプルタブを引き抜く小気味良い音が響く。
「でもさ、それってさっきの『失った経験』があるからだよね」
玲の手が、ピタリと止まった。
「……どういう意味?」
「一度も何かを失ったことがない人間は、きっとそんなに頻繁にセーブなんてしないよ」
日和は缶を口に運び、ゆっくりと喉を鳴らしてから続けた。
「人間は、手に入れたものの輝きよりも、失ったものの穴っぽこの方を、ずっと長く、深く覚え続けている生き物だからね」
玲は、その言葉を咀嚼するように黙り込んだ。おそらく、日和の言う通りなのだろう。
失うことへの恐怖。それだけが、人間を狂気的なバックアップへと駆り立てる。だからこそ、あの歪な『FINAL_REAL_LAST_USETHIS_FIXED_REAL.psd』といった名前の怪物が誕生するのだ。
名前の付け方は違えど、本質はみんな同じだ。私たちはただ、これ以上何かを失いたくないと、画面の向こう側で必死に祈っているにすぎない。
「人間って、本当にめんどくさいね」
日和が、他愛もないことのように呟く。
「何が突飛に聞こえるのよ」
「だって、セーブしないと不安になるくせに、セーブしたところで、その不安が完全に消えるわけじゃないでしょ?」
玲は、自嘲気味に口元を綻ばせた。まったく、その通りだった。
上書き保存をした直後ですら、本当に正しく保存されただろうか、保存先の間違いはないか、拡張子は壊れていないかと、何度もフォルダを確認してしまう。
終わりなど、どこにもないのだ。それは、この暗闇の中で延々と線を模索し続ける、創作という行為そのものの縮図のようでもあった。
カチリ。
玲の指先が、またしてもコントロール・キーとSを叩いていた。
画面の隅に、再び小さな文字が明滅する。
――保存が完了しました。
ほんの一瞬だけ、胸の奥の澱みが軽くなる。ほんの数秒間の、偽りの安息。
やがて玲は再びスタイラスペンを強く握り締め、キャンバスの闇へと線を滑らせていった。夜の底は、まだまだ深い。




