第2章 「FINAL_REAL_LAST」の墓標
翌日の夕方、YLSスタジオを包んでいたのは、昨夜の重苦しい雨音ではなく、キーボードを叩く軽快で規則正しい打鍵音だった。雨はすっかり上がり、代わりに傾きかけた柔らかな西日が、大きく切り取られた窓から惜しげもなく室内に注ぎ込んでいる。
この部屋がこれほど明るく照らされるのは、一年のうちでも珍しい。ただそれだけのことなのに、まるで別の見知らぬ場所に迷い込んでしまったかのような、妙な落ち着かなさがあった。
橘玲は、点灯したままのモニターをじっと見つめていた。正確には、画面中央に表示されたローカルフォルダの、ある一角から視線を動かせずにいた。すでに数分間、彼女の指先は静止したままだ。
「……」
言葉もなく、身じろぎもしない。ただ、ファイル名の羅列を目で追っている。
『FINAL_REAL_LAST』
『FINAL_REAL_LAST_2』
『FINAL_REAL_LAST_FIXED』
『FINAL_REAL_LAST_FIXED_2』
『FINAL_REAL_LAST_USETHIS』
『FINAL_REAL_LAST_USETHIS_FIXED』
『FINAL_REAL_LAST_USETHIS_FIXED_REAL』
『FINAL_REAL_LAST_USETHIS_FIXED_REAL_2』
「それ、本当に終わる気あるの?」
背後から、不意に投げかけられた声。玲は振り返らなかった。声の主を確かめるまでもない。嵐花日和だ。
いつの間にか起き出していたらしく、手にはぬるくなった缶コーヒーを握りしめ、玲の椅子の真後ろに音もなく立っていた。その黒髪は、相変わらず寝癖で勝手な方向に跳ねている。
「終わったよ」
「終わってないじゃん」
「終わったの」
「もう八回くらい終わらせてるよね、それ」
玲は反論を諦め、無言のままマウスを操作してフォルダを閉じた。日和は小さく喉を鳴らしてコーヒーを啜り、どこか他人事のような口調で呟いた。
「人間って、本当に滑稽だよね」
「何がよ」
「ある一つの状態に対して、わざわざ『終わり』なんていう大層な名前を付けること。それでいて、そのすぐ後に『新しい終わり』を平然と捏造すること」
鋭いツッコミだった。玲には返す言葉がない。実際、画面の向こうにある無残なデータ名こそが、その矛盾の動かぬ証拠だったからだ。
昔はもっと、シンプルだった。フォルダの中に並ぶファイル名は、どれも拍子抜けするほど素直だった。
『chapter01』
『chapter02』
『character_design』
一目で中身が理解でき、管理も容易だった。
けれど、いつからだろうか。修正の回数が膨れ上がり、一度引いた線を何度も引き直すようになり、同じファイルを幾度も上書き保存するようになってから、ファイル名は単なる識別記号ではなく、一種の「祈り」へと変質していった。
『FINAL』――どうか、これで本当に最後にしてくれという願い。
『LAST』――いい加減、これで終わってくれという悲鳴。
『USETHIS』――頼むから、今度こそこれを使ってくれという祈祷。
『FIXED』――もう二度と、直さなくて済みますようにという呪詛。
クリエイターのあらゆる未練と執着、そして祈りが、その短い英単語の残骸には詰め込まれていた。
「これは歴史だよ」と、日和が言った。
「黒歴史の間違いでしょ」
「歴史」
「黒歴史」
「ただの歴史だよ」
どちらの解釈が正しいのかは、大した問題ではなかった。ただ一つ確かなのは、どれほど見苦しく積み上がったデータであっても、それをゴミ箱へドラッグ&ドロップする気には到底なれない、ということだ。
玲は気まぐれに、そのフォルダの中から最も古いファイルをダブルクリックした。数年前、まだこのスタジオに入ったばかりの初期のデータだ。
画面に現れたイラストは、今見ると酷いものだった。線の引き方はどこか硬く、キャラクターの身体のバランスも狂っている。背景のパースも単純で、お世辞にもプロの仕事とは言えない。
粗削りで、未熟。客観的に見れば、現在の自分の技術とは比べるべくもない。しかし、その画面を長く見つめているうちに、玲の胸の奥に奇妙な重みが居座り始めた。
下手だ。明らかに、今より下手くそだ。
――だけど。
当時の自分は、今よりもずっと、この一枚に対して「必死」だった。
ほんの少しでも上手くなりたい。昨日よりも魅力的な絵を描きたい。ただそれだけの純粋な欲求に突き動かされて、毎日泥泥になるまでペンを握っていた。
ネット上の評価の数字なんて気にしていなかった。ランキングの順位も、PVの数も、アルゴリズムによるおすすめ表示の有無さえも、当時の自分には関係のない世界だった。
もちろん、それらが全く頭になかったわけではない。けれど、それ以上に「描くこと」そのものが、世界で一番重要なイベントだったのだ。ただ描く。それだけで、自分の全てが満たされていた。
「玲さん」
「……ん?」
「昔の絵、見てるの?」
「まあね」
「どう?」
玲は少しの間、適切な言葉を探すように天井を仰ぎ、それから静かに言った。
「下手くそ」
「そりゃそうでしょ」
「でも……」
続く言葉は、自分でも少し意外だった。
「なんか、楽しそうに見える」
日和は口元をわずかに歪め、手の中の缶コーヒーを小さく揺らした。カサリ、とアルミの軽い音が響く。
「それはさ、玲さんがその『絵』を見てるんじゃないからだよ」
「え?」
「そこに見えてるのは、絵じゃなくて、当時の玲さん自身でしょ」
玲はもう一度、モニターの古いPSDファイルへと目を戻した。使い古されたレイヤー構造。乱雑に書き残されたメモ。何度も修正を繰り返したと思しき、不自然に太くなった線の跡。
それらすべてが、データの中に化石のように保存されていた。完成された一枚のイラストは、表面的には綺麗な結果しか見せない。けれど、その制作過程のファイルには、そこに至るまでのすべてのプロセスが刻まれている。
迷い。葛藤。絶望。そして、諦めきれなかった執着。
それはまるで、暗闇の中を這いずり回った人間の、泥だらけの足跡のようだった。
玲は深く、息を吐き出した。そして、未練を断ち切るようにそのファイルを閉じ、今日の、まだ未完成の新しいファイルを開いた。
目の前には、修正指示のレイヤーが容赦なく積み重なった画面が広がっている。今日も、この原稿が「本当に」終わることはないだろう。おそらく明日も、その次の日も。
それでも、彼女は迷わずにスタイラスペンを握り直した。
キュッ、とペン先が液晶の表面を滑る乾いた音が、再び静かなスタジオに響き始める。
少し線を引いては、迷い。少し消しては、また描き直す。
背後では、日和が退屈そうに大きなあくびを噛み殺していた。
「ところでさ」
「なによ」
「次のファイル名、もう決めてあるの?」
「決めてない」
「『FINAL_REAL_LAST_USETHIS_FIXED_REAL_FINAL.psd』とかどう?」
「長い。絶対に嫌」
「結構いいと思うんだけどな、語呂的に」
「却下」
日和は楽しそうに鼻で笑い、玲もまた、自嘲気味な笑みを浮かべながらペンを動かし続けた。
窓の外では、夕暮れの穏やかな風が街路樹の葉をさざめかせている。室内では、青白い光の中でただ一本のペンが走り続けている。
また一つ、新しい修正が画面に加えられていく。完成という名のゴールへ至る道のりは、呆れるほどに遠い。
けれど、表現を志す人間にとって、その終わりのない迷宮を這いずり回ることこそが、きっと「創る」ということの本質なのだ。




