表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰が描いた?【マンガ・アニメ制作のリアルを描く業界ドラマ】  作者:
ARC I — 描いている

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/42

第2章 「FINAL_REAL_LAST」の墓標

 翌日の夕方、YLSスタジオを包んでいたのは、昨夜の重苦しい雨音ではなく、キーボードを叩く軽快で規則正しい打鍵音だった。雨はすっかり上がり、代わりに傾きかけた柔らかな西日が、大きく切り取られた窓から惜しげもなく室内に注ぎ込んでいる。

 この部屋がこれほど明るく照らされるのは、一年のうちでも珍しい。ただそれだけのことなのに、まるで別の見知らぬ場所に迷い込んでしまったかのような、妙な落ち着かなさがあった。


 橘玲は、点灯したままのモニターをじっと見つめていた。正確には、画面中央に表示されたローカルフォルダの、ある一角から視線を動かせずにいた。すでに数分間、彼女の指先は静止したままだ。

「……」

 言葉もなく、身じろぎもしない。ただ、ファイル名の羅列を目で追っている。


『FINAL_REAL_LAST』

『FINAL_REAL_LAST_2』

『FINAL_REAL_LAST_FIXED』

『FINAL_REAL_LAST_FIXED_2』

『FINAL_REAL_LAST_USETHIS』

『FINAL_REAL_LAST_USETHIS_FIXED』

『FINAL_REAL_LAST_USETHIS_FIXED_REAL』

『FINAL_REAL_LAST_USETHIS_FIXED_REAL_2』


「それ、本当に終わる気あるの?」

 背後から、不意に投げかけられた声。玲は振り返らなかった。声の主を確かめるまでもない。嵐花日和だ。

 いつの間にか起き出していたらしく、手にはぬるくなった缶コーヒーを握りしめ、玲の椅子の真後ろに音もなく立っていた。その黒髪は、相変わらず寝癖で勝手な方向に跳ねている。

「終わったよ」

「終わってないじゃん」

「終わったの」

「もう八回くらい終わらせてるよね、それ」


 玲は反論を諦め、無言のままマウスを操作してフォルダを閉じた。日和は小さく喉を鳴らしてコーヒーを啜り、どこか他人事のような口調で呟いた。

「人間って、本当に滑稽だよね」

「何がよ」

「ある一つの状態に対して、わざわざ『終わり』なんていう大層な名前を付けること。それでいて、そのすぐ後に『新しい終わり』を平然と捏造すること」

 鋭いツッコミだった。玲には返す言葉がない。実際、画面の向こうにある無残なデータ名こそが、その矛盾の動かぬ証拠だったからだ。


 昔はもっと、シンプルだった。フォルダの中に並ぶファイル名は、どれも拍子抜けするほど素直だった。

『chapter01』

『chapter02』

『character_design』

 一目で中身が理解でき、管理も容易だった。


 けれど、いつからだろうか。修正の回数が膨れ上がり、一度引いた線を何度も引き直すようになり、同じファイルを幾度も上書き保存するようになってから、ファイル名は単なる識別記号ではなく、一種の「祈り」へと変質していった。

『FINAL』――どうか、これで本当に最後にしてくれという願い。

『LAST』――いい加減、これで終わってくれという悲鳴。

『USETHIS』――頼むから、今度こそこれを使ってくれという祈祷。

『FIXED』――もう二度と、直さなくて済みますようにという呪詛。

 クリエイターのあらゆる未練と執着、そして祈りが、その短い英単語の残骸には詰め込まれていた。


「これは歴史だよ」と、日和が言った。

「黒歴史の間違いでしょ」

「歴史」

「黒歴史」

「ただの歴史だよ」

 どちらの解釈が正しいのかは、大した問題ではなかった。ただ一つ確かなのは、どれほど見苦しく積み上がったデータであっても、それをゴミ箱へドラッグ&ドロップする気には到底なれない、ということだ。


 玲は気まぐれに、そのフォルダの中から最も古いファイルをダブルクリックした。数年前、まだこのスタジオに入ったばかりの初期のデータだ。

 画面に現れたイラストは、今見ると酷いものだった。線の引き方はどこか硬く、キャラクターの身体のバランスも狂っている。背景のパースも単純で、お世辞にもプロの仕事とは言えない。

 粗削りで、未熟。客観的に見れば、現在の自分の技術とは比べるべくもない。しかし、その画面を長く見つめているうちに、玲の胸の奥に奇妙な重みが居座り始めた。

 下手だ。明らかに、今より下手くそだ。

 ――だけど。

 当時の自分は、今よりもずっと、この一枚に対して「必死」だった。


 ほんの少しでも上手くなりたい。昨日よりも魅力的な絵を描きたい。ただそれだけの純粋な欲求に突き動かされて、毎日泥泥になるまでペンを握っていた。

 ネット上の評価の数字なんて気にしていなかった。ランキングの順位も、PVの数も、アルゴリズムによるおすすめ表示の有無さえも、当時の自分には関係のない世界だった。

 もちろん、それらが全く頭になかったわけではない。けれど、それ以上に「描くこと」そのものが、世界で一番重要なイベントだったのだ。ただ描く。それだけで、自分の全てが満たされていた。


「玲さん」

「……ん?」

「昔の絵、見てるの?」

「まあね」

「どう?」

 玲は少しの間、適切な言葉を探すように天井を仰ぎ、それから静かに言った。

「下手くそ」

「そりゃそうでしょ」

「でも……」

 続く言葉は、自分でも少し意外だった。

「なんか、楽しそうに見える」


 日和は口元をわずかに歪め、手の中の缶コーヒーを小さく揺らした。カサリ、とアルミの軽い音が響く。

「それはさ、玲さんがその『絵』を見てるんじゃないからだよ」

「え?」

「そこに見えてるのは、絵じゃなくて、当時の玲さん自身でしょ」


 玲はもう一度、モニターの古いPSDファイルへと目を戻した。使い古されたレイヤー構造。乱雑に書き残されたメモ。何度も修正を繰り返したと思しき、不自然に太くなった線の跡。

 それらすべてが、データの中に化石のように保存されていた。完成された一枚のイラストは、表面的には綺麗な結果しか見せない。けれど、その制作過程のファイルには、そこに至るまでのすべてのプロセスが刻まれている。

 迷い。葛藤。絶望。そして、諦めきれなかった執着。

 それはまるで、暗闇の中を這いずり回った人間の、泥だらけの足跡のようだった。


 玲は深く、息を吐き出した。そして、未練を断ち切るようにそのファイルを閉じ、今日の、まだ未完成の新しいファイルを開いた。

 目の前には、修正指示のレイヤーが容赦なく積み重なった画面が広がっている。今日も、この原稿が「本当に」終わることはないだろう。おそらく明日も、その次の日も。

 それでも、彼女は迷わずにスタイラスペンを握り直した。


 キュッ、とペン先が液晶の表面を滑る乾いた音が、再び静かなスタジオに響き始める。

 少し線を引いては、迷い。少し消しては、また描き直す。

 背後では、日和が退屈そうに大きなあくびを噛み殺していた。


「ところでさ」

「なによ」

「次のファイル名、もう決めてあるの?」

「決めてない」

「『FINAL_REAL_LAST_USETHIS_FIXED_REAL_FINAL.psd』とかどう?」

「長い。絶対に嫌」

「結構いいと思うんだけどな、語呂的に」

「却下」


 日和は楽しそうに鼻で笑い、玲もまた、自嘲気味な笑みを浮かべながらペンを動かし続けた。

 窓の外では、夕暮れの穏やかな風が街路樹の葉をさざめかせている。室内では、青白い光の中でただ一本のペンが走り続けている。

 また一つ、新しい修正が画面に加えられていく。完成という名のゴールへ至る道のりは、呆れるほどに遠い。

 けれど、表現を志す人間にとって、その終わりのない迷宮を這いずり回ることこそが、きっと「創る」ということの本質なのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ