第1章 深夜2時13分
午前二時十三分。
雨はまだ降っていた。
強くもなく、
弱くもない。
窓ガラスを静かに叩き続ける、
春の終わりの雨だった。
YLSスタジオの照明は消えている。
部屋を照らしているのは、
机の上に並んだモニターだけだった。
青白い光が床に落ちる。
散らかった資料。
積み上がったネーム用紙。
飲みかけの缶コーヒー。
どこかのタイミングで外されたままのペン先ケース。
机の隅には、
見覚えのないUSBメモリまで転がっている。
いつも通りの光景だった。
誰かが見れば、
片付いていない部屋にしか見えないだろう。
けれど。
ここにある物のほとんどは、
理由があってその場所に置かれている。
少なくとも。
使った本人だけは、
そう信じていた。
カタカタ。
液晶タブレットの上をペンが滑る。
モニターに映る原稿の一コマが少しだけ変わった。
レイは数秒眺める。
そして。
小さく眉を寄せた。
「……なんか違う」
Ctrl+Z。
描き直す。
数本線を引く。
少し考える。
また止まる。
「違う」
Ctrl+Z。
描き直す。
十分ほど前から、
彼女は同じ場所を修正し続けていた。
キャラクターの首元。
髪の流れ。
視線の角度。
読者が気付くかどうかも分からない程度の違いだった。
それでも。
気になり始めると止まらない。
レイはペンを置き、
椅子の背にもたれた。
ギシッと小さな音が鳴る。
モニター右下の時計を見る。
午前二時十三分。
もう一度見る。
やはり午前二時十三分だった。
「時間止まってる……?」
もちろん止まっていない。
作業に集中している時、
時計は時々そういう顔をする。
レイは缶コーヒーを手に取った。
ぬるい。
いつ開けたのか思い出せないくらいぬるい。
一口飲む。
微妙な顔になる。
そしてまた飲む。
捨てるほどではない。
それが深夜の缶コーヒーだった。
ふと足元を見る。
毛布が落ちている。
いや。
正確には毛布ではなかった。
毛布に包まれた人間だった。
床のど真ん中で、
ヒヨリが寝ていた。
片腕だけ毛布の外。
髪は盛大に爆発している。
枕の代わりなのか、
漫画雑誌が頭の下に敷かれていた。
完全に終わっている見た目だった。
しかし本人は幸せそうに寝ている。
レイは数秒眺めたあと。
慣れた様子で視線を戻した。
特に驚くことではない。
ヒヨリはよく床で寝る。
ソファが空いていても床。
布団があっても床。
意味は誰にも分からない。
以前聞いたことがある。
その時の答えは。
「床って床だからです」
だった。
今でも意味は分からない。
静かな雨音。
パソコンのファンの音。
液晶タブレットを擦るペン先の音。
YLSスタジオの夜は、
いつもこんな感じだった。
誰かが騒ぐわけでもない。
大きな事件が起きるわけでもない。
ただ。
描く。
保存する。
描き直す。
保存する。
少し悩む。
また描く。
そんな繰り返し。
レイは再び画面へ向き直った。
作業中のPSDファイルが表示されている。
タイトルは。
FINAL_REAL_LAST_USETHIS_FIXED.psd
彼女はしばらく眺めた。
そして。
新しい保存を押した。
ファイル名を変更する。
FINAL_REAL_LAST_USETHIS_FIXED_2.psd
保存。
カチッ。
小さな音が鳴る。
その瞬間だった。
床の毛布が少し動く。
ヒヨリが目を開けた。
三秒ほど天井を見つめる。
二秒ほどモニターを見る。
一秒ほどレイを見る。
そして言った。
「増えてますね」
「何が?」
「ファイル名です」
レイは反射的に画面を隠した。
「見ないで」
「見なくても分かります」
ヒヨリは起き上がることなく続ける。
「今のでたぶん八代目くらいです」
「五代目」
「誤差ですね」
「誤差じゃない」
ヒヨリは欠伸をした。
そして再び毛布に沈みながら呟く。
「人類はなぜFINALを増殖させるのでしょう」
「知らない」
「永遠の謎ですね」
雨はまだ降っていた。
モニターの光も変わらない。
ヒヨリも半分寝ている。
世界は何も変わっていない。
それなのに。
レイはなぜか少しだけ笑っていた。
深夜二時十三分。
誰も見ていない夜。
YLSスタジオでは今日もまた、
一つのページが少しずつ完成へ近付いていた。
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