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誰が描いた?【マンガ・アニメ制作のリアルを描く業界ドラマ】  作者:
ARC V ー 「誰が描いた?」

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第76話 「誰がそれを見るのか」

 出来上がった作品というものは、なんとも不思議な存在だ。

 それを作っている最中と、すべてが完成した後。その二つの局面では、作品に対する見方がまるっきり変わってしまう。

 作っている本人の目には、画面の奥にいろんなものがまだ生々しく見えている。悩んで手が止まっていた時間。消去されて消えていった何千本もの線。結局使わなかったアイデア。途中で諦めて放り出した別の構図。そういう「完成品にはもう残っていないもの」のすべてが、記憶のスパイスとして画面の裏側にべったりと張り付いている。

 けれど、それを外から見る読者の目には、そんなものは何一つ映らない。というか、最初からそんな裏の事情なんて「存在しなかった」こととして扱われる。そして、それはちっとも悪いことじゃない。一冊の作品として世に出た以上、そこに本当に存在しているのは、きれいに整えられた結果だけだからだ。


 その日の午後、YLSスタジオにはいつも通りの穏やかな時間が流れていた。

 窓の外には相変わらず薄い曇り空が広がっていて、室内には柔らかい薄明かりだけが満ちている。エアコンの風は一定の音を立てて静かに回り続けており、液晶モニターの光がデスクの表面を静かに照らし出していた。

 特別なハプニングが起きているわけでもない、いつもと全く変わらない平穏な午後の景色。


 一ノ瀬直哉は、手元のいくつかのデータをチェックしながら、ときどきメインモニターを眺めていた。

 すでに世に出した同人誌の評価。読者からのコメント。SNSのインプレッション。そういう数字やレスポンスの羅列は、ここ最近で何度も見慣れたはずのものだ。

 それなのに、ここ最近で自分の中の何かが少しずつ変わってきているのを感じていた。

 作品を見るときの手つきが、以前と同じではなくなっているのだ。ただの「きれいな完成品」として、結果だけを素直に見ることがどうしてもできなくなっていた。

 それを見るたびに、彼の頭は勝手にその「裏側」へと飛んでいってしまう。

 この絵は一体、どういう風に描かれたんだろう。描き手はどれほど長い時間、この一本の線と格闘したんだろう。そこに至るまでに、どれだけのボツ線を積み上げてきたんだろう。そんなことばかりが、どうしても気になってしまうのだ。

 理由は分かっている。ここ最近、このスタジオでレイの作業をずっと特等席で見続けてきたからだ。

 何もしていないように見えて、実は脳みそをフル回転させていたあの空白の時間。理由なんて上手く説明できないけれど、本人の美意識が「なんか違う」と告げていたあの気持ち悪い違和感。作業工程のどこにも名前が載らない名前のない時間。泥臭い手作業のプロセス。そして、作品が終わった後も頭の中に残り続ける残響のゆくえ。

 そういうものを全部知ってしまったからこそ、ただの「完成品」の表面をなぞるだけでは、なんだか物足りなくなってしまったのだ。直哉は画面の奥にあるはずの、見えない試行錯誤の歴史を、無意識のうちに想像するようになっていた。


 直哉はノートPCの画面をパタンと閉じた。

 そして少しの間、静まり返った部屋の中でじっと考え込んだ。それから、デスクの向かい側へと視線を移す。

 橘レイは、いつも通りの姿勢で作業を続けていた。相変わらず淡々と、落ち着いた様子でペンを動かしている。外から見ている分には、特に大きなドラマが起きているようには到底見えない。

 でも、今の直哉にはハッキリと分かっていた。あの「何もしていないように見えるフリーズした時間」の奥底に、どれほど膨大な熱量と言語化できない思考が隠されているのかを。

「……レイさん」

 静かな部屋の中で、直哉がぽつりと声をかけた。

「ん?」

 レイは画面から目を離さないまま、短く返事をした。

「レイさんってさ、他の人の作品を見るとき、一体どこを見てるの?」

 直哉は少し言葉を選びながら訊ねた。自分の頭の中にずっと澱のように溜まっていた、素朴な疑問だ。

 レイの右手が、ぴたっと止まった。

 彼女の視線はモニターからも外れ、窓の外の曇り空に向かうわけでもなく、そのちょうど中間あたりの何もない空間をじっと見つめていた。

 部屋の中に、短い沈黙が流れる。エアコンの低いハミングだけが耳に届く。

「いろいろ、かな」

 しばらくして、レイがようやく口を開いた。いつも通りの、ちょっと掴みどころのない曖昧な答えだ。でも、彼女は珍しく、その後に少しだけ言葉を付け足した。

「でも……その絵を描いた人のことも、ちょっとだけ見てるかも」

 直哉は「へえ」と思って黙り込んだ。その回答は、彼にとっては意外なものだったからだ。

 なんとなく、レイは他人の作品を見るとき、私情を一切挟まずに「作品のクオリティ」だけを冷徹に見極めるタイプだと思い込んでいた。サークルの知名度も、描き手の名前も、世間の評判も関係ない。ただ、画面に残された結果だけを見るプロの目。

 でも、実際はそんなに単純に割り切っているわけではないらしい。

「その人がどんな人か、気になるの?」

「少しね」

 レイはそれだけ言うと、またいつもの無口な職人の顔に戻ってしまった。詳しい説明はなかったけれど、直哉にはなんとなくそのニュアンスが分かった。

 人が作品を見るとき、本当に見ているのはただのインクの塊やデジタルデータだけではないのだ。

 これを作ったのは、一体どんな人間なんだろう。どんな風に笑い、どんな風に悩み、どんな気持ちでこの一本の線を引いたのだろう。そういう、画面の向こう側に透けて見える「人間の気配」を、私たちは無意識のうちについ探してしまう。自分ではただ作品を楽しんでいるつもりでも、脳のどこかで、その裏側にいる誰かの存在を感じ取ろうとしているのだ。


 仕事場はまた元の静けさに戻っていった。

 完成した一冊の同人誌は、ただの結果が印刷された紙の束でしかない。けれど、その裏側には、いつだって生身の人間がへばりついている。それは考えてみれば当たり前すぎる事実だ。そして、あまりにも当たり前すぎるからこそ、普段はみんな綺麗さっぱり忘れて消費している。

「だってさ、みんなちゃんと覗き込んでるんですよ」


 背後から、いきなりいつもの緊張感のない声が割り込んできた。

 振り返ると、相変わらずソファの上で毛布と完全に一体化している蘭華ひよりが、妙に大真面目な顔をしてこっちを睨みつけていた。最近の彼女は、もはや毛布という新種の生き物のようになっている。

「覗き込んでるって、何を?」

 直哉が訊くと、ひよりは毛布の中からお馴染みのドヤ顔をニュッと覗かせた。

「描き手の生態ですよ。みんな『この作品最高!』って言いながら、裏にいるクリエイターのことをじっと観察してるんです。ただの作品じゃなくて、人間の生き様を消費してるんですよ」

 ここまでは、意外とまともな話だった。すごくまともで、ちゃんとした分析のようだった。

 問題は、やっぱりその後に控えていた。

「だからね、私たちは今も監視されてるんです」

「誰に?」

「深夜限定の、夜行性パソコン宇宙人です」

 ほら来た。直哉は心の中でズコッとズッコケた。

 ここ数話、鳴りを潜めていたひよりちゃんの電波理論が、記念すべき第76話にしてついに帰ってきたのだ。

「彼らは絶滅してなかったんだね」

「当然です。彼らはね、『なぜ同人作家という生き物は、締め切り前になると深夜に怪しいエナジードリンクを飲んで狂ったように部屋にこもるのか』という謎を、今も必死に研究してるんですよ」

「それ、ただの修羅場中の絵描きの生態でしょ。宇宙人関係ないじゃん」

「いいえ、彼らは今も裏で、ちゃんとした宇宙規模の学会レポートを書いてるはずです!」


 レイがふっと小さく笑った。本当に、消え入りそうな小さな笑い声だったけれど、彼女の肩の力が少しだけ抜けたのが分かった。ひよりはそれを見て、自分の今日のミッションが完全に完了したと言わんばかりに、また毛布の中にズブズブと沈み込んでいった。


 窓の外では、灰色の雲が相変わらずゆっくりと流れている。

 スタジオの中の作業は、また淡々と続いていく。

 作品を見る人。評価を下す人。数字だけをチェックする人。あるいは、ただの読者として純粋に楽しむ人。

 そしてときどき、その画面のずっと奥にある景色を見つめようとする人がいる。

 誰がこれを作ったのか。どんな時間を通り抜けて、ここにたどり着いたのか。そのすべてを正確に見抜くことは誰にもできないけれど、私たちはほんの少しだけ気になり、ほんの少しだけその裏側の泥臭さを想像してしまう。そして、そういう「見えない部分を想像すること」も、作品を受け取る側にとっての、もう一つの贅沢な楽しみ方なのかもしれない。


 レイはまた、視線を冷たい液晶の光へと戻した。

 彼女の原稿は、まだ続いている。完全な終わりは、もう少しだけ先だ。だから彼女は今、まだ「描く側の世界」にしっかりと留まっている。誰かに見られる前の、暗闇の中で格闘する時間。

 けれど、いつの日かこの一冊が完成して、イベントの机に並んだとき――。

 誰かがそれを手に取り、じっと見つめるだろう。作品そのものを楽しみ、そして、その裏側にあるかもしれない何かに、ほんの少しだけ思いを馳せるのだ。

「誰がそれを見るのか」

 その問いに対する答えは、きっと最初から、一人だけであるはずがないのだった。


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