第75話 「残響のゆくえ」
音というものには、どこか奇妙な不条理がある。
音が聞こえるのは、それが鳴っている瞬間だけではない。教会の鐘の音。踏切の警報機。あるいは、夏の夜空に遠くで弾けた打ち上げ花火。そういう音が完全に消え去って静寂に戻った後でも、私たちの耳の奥には、何かがかすかに残り続けていることが多い。本当はもう何も鳴っていないはずなのに、まだそこに音が居座っているような感覚。
そういうのを、人は「残響」と呼ぶのだろう。
その日の午後も、YLSスタジオにはいつも通りの穏やかな時間が流れていた。
窓の外には相変わらず薄い曇り雲が広がっていて、室内を柔らかい薄明かりで満たしている。エアコンの風は一定のテンションで静かに回り続けており、液晶タブレットや机の上に山積みにされた資料の落とす影が、フローリングの床の上でかすかに揺れていた。
特別なハプニングが起きているわけではない。劇的な事件が起きる気配もない。
ただの、どこにでもある普通の日の午後。
誰も急いでいないし、バタバタと騒いでもいない。ただ、いつも通りの地味な作業がゆっくりと続いているだけだ。
それなのに、一ノ瀬直哉の頭の中には、なんだかずっとモヤモヤとしたものが引っかかっていた。
ここ最近、彼は作業中も、家に帰る道すがらも、なんなら夜ベッドに入って目を閉じる直前でさえ、ずっと同じようなことばかりを考えていた。別に意識して思い出そうとしているわけじゃない。ただ、ふとした瞬間に、それらの記憶が勝手に脳裏にフラッシュバックしてくるのだ。
発掘された古いPSDファイル、昔のちょっと恥ずかしいボツ線の群れ。
レイがよく口にしていた、名前のつかない気持ち悪い違和感。作業工程のどこにも載らない、ただ画面を見つめていた名前のない時間。
どれも全部、その場の会話としてはもう終わった話だ。ちゃんと言葉にして、みんなで納得して、過去に片付けたはずの出来事。それなのに、そいつらはなぜか直哉の頭の底にしっかりと残っていた。
直哉はメインモニターからふと目を離し、窓の外を眺めた。雲がゆっくりと動いている。
何度も見慣れたはずの、なんでもない景色のひとつ。けれど、景色というやつもまた不思議だ。一度じっくりと見つめてしまえば、目を閉じた後でも、その網膜の裏側にはしばらく雲の形が焼き付いて残っている。
絵を描くということも、きっとこれと同じようなものなのかもしれない。直哉はふと、そんなことを思った。
彼は少し首を巡らせて、デスクの対面を見た。
橘レイは、いつも通りの姿勢で作業に没頭している。画面を凝視し、線を修正し、上書き保存のショートカットを叩く。そしてまた、次のストロークへ移る。その単調なループ。
「……レイさん」
「ん?」
直哉が唐突に声をかけると、レイは画面を見たまま、短く返事をした。
「もうとっくに完成して世に出した同人誌の絵のこととかって、後から思い出すことある?」
レイの右手が、ぴたっと止まった。
一瞬。本当に、ほんの一瞬だけ。彼女は自分の頭の中の引き出しをひっくり返すように少しだけ考えてから、ぽつりと言った。
「あるよ。普通にある」
その答えは短かったけれど、直哉にはそれで十分だった。
「やっぱり、そうなんだ」
直哉は納得したように小さく頷いた。なんとなくそんな気がしていたのだ。
脱稿して、印刷されて、イベントの机に並んで読者の手に渡った本。理論上は、そこでその作品の命は綺麗に完結しているはずだ。でも、作っている本人の内側では、そんなに簡単に割り切れるものじゃないらしい。
「やっぱり、あそこ描き直したいなーとか思ったりするの?」
レイは少しの間、スタイラスペンを指先で弄びながら考え込んでいた。
「たまにね。でも……」
「でも?」
「基本は、そのまま放っておく。もう終わったものだから」
直哉はふっと笑った。実にレイらしい、筋の通った諦め方だ。完成したものは、もう過去のもの。今更そこに戻って手を加えることなんてできやしない。
でも、完結したからといって、自分の内側から完全に消えてなくなるわけじゃないのだ。だからこそ、そいつらはいつまでも、頭の片隅に静かに残り続ける。地味に、長く、誰にも気づかれないまま。
仕事場には、またいつもの地味な作業の音が戻ってきた。
液晶タブレットを擦るペンの音。キーボードを叩く打鍵音。マウスのクリック音。
どれも小さくてささやかな物音だ。そして、数秒後には部屋の静寂の中に溶けて消えていく。なのに不思議なことに、音が消えた後でも、その物音の「気配」のようなものだけが、部屋の空気にずっと漂い続けているように感じられた。
「創作活動っていうのはね、ただのエコーなんですよ」
背後から、いきなりいつもの緊張感のない声が飛び込んできた。
振り返ると、案の定、ソファの上で毛布にミノムシみたいにくるまった蘭華ひよりが、ドヤ顔をしてこっちを見ていた。今日の彼女は、会話の美味しいところだけを泥棒していくスタイルらしい。
「エコー? また大げさな例え話が始まった」
直哉が呆れたように言うと、ひよりは毛布の中で力強く頷いた。
「大げさじゃありません。いいですか直哉くん、一つの作品が完成します。世に出ます。そこで終わり。みんなそう思いますよね?」
「うん。それが普通でしょ」
「甘い! 全然終わってないんですよ!」
ひよりは毛布の中からニュッと顔を出して、窓の外の灰色の曇り空を見つめた。
「完成した作品の残響はね、次の作品の中に、平気な顔してまた響き渡るんですよ。『よお、また来たぜ』って感じで、本人が気づかないうちに勝手に混ざり込んでくるんです」
仕事場の中が、少しだけ静かになった。直哉も、レイも、すぐには言葉を返さなかった。
でも、誰もひよりの言葉を否定しなかった。彼女の言いたいことのニュアンスが、今度もまた、ちゃんとしっくりと胸に落ちてきたからだ。
昔の線。無意識のくせ。あのとき悩んでいた、名前のない気持ち悪い違和感。
とっくに終わって過去になったはずの作品たち。
それらは全部、本当に消えてなくなったわけじゃないのだ。形を変え、場所を変え、レイが新しい原稿用紙に向き合うたびに、ペンの先からまた静かに染み出してくる。
レイはキーボードを叩いて、キャンバスの表示を一度縮小した。
全体のバランスを眺める。画面に映っているのは、今まさに作画中の、全く新しい最新のイラストだ。
新しい作品。でも、完全にゼロから生まれたわけじゃない。その線の奥には、間違いなく過去のレイの指紋が残っている。昨日の試行錯誤。昔の不器用な線。あの名前のない時間の中で悩んでいた記憶。そして、とっくに完結したはずの古い同人誌たちの気配。
そういう「残響」のすべてが、目に見えないインクのように、今の新しい原稿の中にしっかりと混ざり合っている。
エコーと同じだ。目には見えない。けれど、耳を澄ませば確かにそこで鳴り続けている。
本が完成して世に出たからといって、すべてが消滅するわけじゃない。作品は、作った本人の頭の中にも、それを読んだ読者の記憶の底にも、小さなエコーを残して静かに生き続ける。そしてそのエコーは、まだこの世界に生まれていない、次の新しい作品の産声へと繋がっていくのだ。
窓の外、夕方の薄暗い光が部屋の色彩をセピア色に変えていく。
時計の針は止まることなく進み、作業はまた淡々と続いていく。
どんな作業にも、いつかは終わりが来る。どんな同人誌も、いつかは脱稿する。けれど、すべてが綺麗に消え去るわけじゃない。
音が消えた後の静寂の中に、かすかに残り続ける小さな残響。
その目に見えないエコーをペンの先に宿しながら、彼女たちの原稿は、まだ見ぬ次のページへと、静かに、しかし確実に続いていくのだった。




