第70+4話 「川の行く先」
完成した一枚のイラストを前にしたとき、人はただその「結果」だけを見る。
それは当たり前のことだ。完成したからこそ、それは出来上がった作品と呼ばれる。ラフでもなければ、修正前のデータでもない。描き手の迷いや葛藤がそのまま残っているわけでもない。他人の目に触れるのは、最後まで画面に残り続けた最終形だけだ。だからこそ、そこに至るプロセスは見えないし、そもそも見せる必要なんて最初からどこにもない。
その日の午後、YLSスタジオにはいつも通りの穏やかな時間が流れていた。
窓の外には薄い灰色の雲が広がっている。隙間から差し込む光が床の上でゆっくりと移動し、気づかないほど小さな歩幅で少しずつその色彩を変えていた。エアコンの風は一定の音を立てて室内を循環しており、部屋の中は余計な物音一つしない。急ぐ理由もなければ、バタバタと騒ぐ要素もない。ただ、いつも通りの地味な作業が淡々と続いているだけだ。この仕事場において、こういう静けさはもうちっとも珍しいものじゃなかった。
一ノ瀬直哉は、メインモニターからふと目を離して、凝り固まった肩をゆっくりと回した。
座りっぱなしのせいで体がカチコチになっている。作業に没頭している最中はそんなこと微塵も気づかないのに、一度意識が向いてしまうと、急に体のあちこちが悲鳴を上げ始めるのだ。直哉はなんとなく窓の外の雲を眺めてから、再び室内に視線を戻した。
デスクの向かい側では、橘レイが相変わらずペンを動かしていた。いつも通りの、地味な反復作業だ。劇的なドラマが起きるわけでもなければ、ハプニングが起きるわけでもない。ほんの少し線を直しては画面を確認し、また少しだけ描き直す。その静かな繰り返し。
直哉はふと、頭の中で想像してみた。
もし、あの原稿が今日中に完成したら。もし、今日の夜にでもSNSやファンボックスに投稿されたら、読者は一体何を見るんだろう。答えは簡単だ。彼らは「完成したきれいなイラスト」を見る。それだけだ。
でも、今の直哉には分かる。その一枚の絵の裏側には、無数のプロセスが隠されているということが。
ボツになった古いラフ、消去された何千本もの線、画面を睨みつけながら悩んでいた長い時間。言葉にできないモヤモヤした違和感や、名前のつかない停滞の瞬間。最近の直哉は、そういう作品の「裏側」をすぐ特等席で目撃してきた。だからこそ、彼の作品に対する見方も、以前とは少しだけ変わってきていた。
「……プロセスってさ」
直哉がぽつりと呟くと、レイは画面から目を離さないまま、短く「ん?」と返した。
「それって一体、どこにあるんだろうね」
訊いておいてなんだが、少し抽象的すぎる質問だったかもしれない。プロセスとは、ラフのことだろうか。それとも何度も繰り返したリテイクのことだろうか。費やした時間や、違和感を探していたあのフリーズ時間のことだろうか。どれも正解のような気がするし、どれも決定的な答えじゃないような気もする。
レイの手が、少しの間だけ止まった。
彼女のモニターには、もうほぼ完成と言ってもいい状態のイラストが開かれている。あと少し。でも、まだ完全な終わりじゃない。だからこそ、彼女は迷わずに答えを口にできたのだろう。
「全部じゃない?」
直哉はパチパチとまばたきをした。もっと具体的な、特定の作業段階を指差すと思っていたからだ。
「全部?」
「うん」
レイはそれ以上、何も付け足さなかった。でも、直哉にはなんとなく彼女の言いたいことが分かったような気がした。
きっと、どれか一つだけを切り離すことなんてできないのだ。ラフだけがプロセスなわけじゃないし、修正作業だけがプロセスなわけでもない。頭を抱えて悩んでいた時間も、手が止まってじっと画面を見つめていた時間も、全部が繋がっていて、同じ場所に向かって流れている。だから、その中の一部分だけを指して「これがプロセスだ」なんて言えるわけがないのだ。
部屋の中はまた静かになった。
エアコンの音。遠くから聞こえる車の音。液晶タブレットを擦るペンの摩擦音。そういう小さな音が混ざり合って、この部屋のいつもの日常のBGMを作っている。
直哉は、ここ最近のスタジオでのいろんな出来事を思い出していた。
古いPSDファイル、上書き保存のタイムスタンプ、忘れ去られていた過去の落書き。
地道な手作業の話や、デジタルツールの便利さ。効率化とか、時短とか、数字の話。読者からの評価や、過去のデータとの見比べる作業。
どれも全然違う話のようだけど、今考えると、全部が同じ一つの場所に向かっていたような気がする。作品の裏側。普段は読者の誰にも見えない、あの暗闇の底のような領域だ。
「創作活動っていうのはね、ただの川なんですよ」
背後から、いきなりいつもの緊張感のない声が降ってきた。
振り返ると、案の定、ソファの上で毛布にくるまった蘭華ひよりが、ドヤ顔をしてこっちを見ていた。相変わらずソファの主として完璧に寛いでいる。
「川?」
直哉が訊くと、ひよりは毛布の中で力強く頷いた。
「そうです、川です。完成したイラストが『海』だとすれば、そこに至るまでの道筋は全部川なんですよ」
直哉は黙って先を促した。
「みんな海は見ます。だって大きくて綺麗ですからね。イベントの机に並ぶのも海です。でもね、海ができる前には、もの凄くたくさんの泥臭い流れがあるわけですよ」
ひよりは毛布の中から視線を窓の外へと向けた。その目は、曇り空の向こうにある、何か遠くの景色を見つめているようだった。
「細くて小さな濁流とか、岩にぶつかって進めなくなっている淀みとか、名前すらついていない名もなき小川とか。そういうのが全部グチャグチャに混ざり合って、一つの場所に流れ込んだ結果として、ようやく綺麗な海ができるんです」
仕事場の中が、さっきよりも少しだけ静かになった。
誰もすぐにはツッコミを入れなかった。ひよりの言う変な例え話が、今回は驚くほどしっくりと胸に落ちてきたからだ。
完成した同人誌は、ある日突然どこからか湧いて出るわけじゃない。目に見えないたくさんの時間が、川のようにはるか遠くから流れてきて、少しずつ形を変えながらここに集まった結果なのだ。長い、長い時間の積み重ね。だからこそ、あの綺麗な海が生まれる。
カチ、とレイがキーボードを叩いて上書き保存のショートカットを押した。
画面の見た目に劇的な変化は起きていない。でも、彼女の原稿は、確実にまた一歩、完成という名の終着点へ近づいていた。
イベントでこの本を手に取る読者は、表紙のきれいに整えられたイラストしか見ない。それでいいし、それが普通だ。でも、見えないからといって、無かったことにはならない。どれだけ形を変えようとも、彼女が費やしてきたすべての時間は、間違いなくインクの底にしっかりと溶け込んでいるのだから。
窓の外、夕方の光が部屋の色彩をセピア色に変えていく。
時計の針は止まることなく進み、作業はまた淡々と続いていく。
プロセスっていうのは、きっと机の上のどこか特定の場所にあるものじゃない。一つの作業段階でもなければ、特定の瞬間でもない。最初の一歩から最後の脱稿まで、全部を繋いでいる長い旅路そのもののことだ。
誰の目にも触れないまま、途切れることなく静かに流れる川。
その川の行く先に、彼女たちの新しい一冊が、今まさに形を成そうとしていた。




