第73話 「名前のない時間」
何かを作るというプロセスの中には、ちゃんとした名前のついている時間がたくさんある。
ラフ。線画。着色。仕上げ。
これらはどれも他人に説明しやすい段階だし、作業報告書に書くこともできる。同人誌の進捗をSNSにアップするときだって、「今はペン入れ中です!」と言えば、ファンにも一発で状況が伝わる。後から振り返ったときにも、自分がその時間に何をしていたのかがハッキリと分かる。
けれど、そういう分かりやすい段階の隙間には、いつも別の時間が挟まっている。
何の名前もついていない、よく分からない時間が。
その日の午後も、YLSスタジオには穏やかな空気が流れていた。
窓の外は薄い曇り空で、部屋の中は眩しすぎず暗すぎない、ちょうどいい柔らかさの光で満たされている。エアコンの風が静かに室内を循環していて、机の隅っこに置かれたコピー用紙が、たまにパタパタと小さく音を立てていた。
誰も急いでいないし、何かに追われているわけでもない。
ただ、いつも通りの地味な作業が、ゆっくりと続いているだけだ。
一ノ瀬直哉は、キーボードを叩く手を止めて、うーんと腕を伸ばした。
肩が少し凝っている。壁の時計に目をやると、自分が思っていたよりもずいぶん時間が経っていた。
「あれ、おかしいな……」
大した作業をした記憶はないのに、時計の針は確実に進んでいる。なんだか時間を盗まれたような、奇妙な感覚だけが後に残った。
直哉はふと横を向いた。
デスクの隣では、橘レイが相変わらずモニターに向き合っている。いつものようにペンを動かし、ときどき手を止め、また描き始める。その繰り返しの光景だ。
直哉はふと思った。もし誰かに「今日一日、何をしてたの?」と訊かれたら、自分たちは一体どこまで正確に説明できるだろう。
線を引いていた。絵を直していた。データを保存した。
そういう具体的な行動ならいくらでも挙げられる。でも、それではどうしても説明しきれない「何か」が、確実に時間の隙間に埋もれている気がした。
ただじっと画面を睨みつけていた時間。頭の中で何かをぐるぐると考えていた時間。何が変なのか分からないまま、しっくりくる形を探して手探りしていた時間。
そういう時間は、プロセスのリストには載らない。進捗のパーセンテージを増やすこともない。けれど、確かにそこにあった時間だ。
部屋の中は静かだった。
レイは画面の表示を一度大きく拡大し、じっと見つめてから、また元のサイズに縮小した。それからもう一度、同じ場所を拡大してみる。
線を直すわけでもないし、新しいレイヤーを作るわけでもない。彼女はただ、画面を見つめているだけだ。一分が過ぎ、二分が過ぎ、それ以上の時間が無言のまま流れていく。
直哉は昔、こういう時間をただの「ぼーっとしている空白の時間」だと思っていた。でも、このスタジオを手伝うようになってからは、少し考えが変わった。
これは空白なんかじゃない。画面の奥で、何かが確実に起きているのだ。ただ、それを言い表す名前が世界に存在しないだけだ。
「……レイさん」
直哉が声をかけると、レイは画面を見つめたまま、短く「ん?」と返した。
「今、何してるの?」
レイは少しの間、ペンを止めて考え込んでいた。目は画面のイラストに固定されたままだ。彼女はもう一度頭の中で考えてから、ようやく口を開いた。
「……分かんない」
直哉は思わず苦笑いした。実にレイらしい、予想通りの答えだ。
「いや、絵を描いてるっていうのは分かるんだけど、その、手を止めてるときさ」
「描いてる」
「でも、手が止まってるよ?」
「うん。でも、頭の中は描いてる」
レイは自分の感覚にぴったりくる言葉を探すように、少しだけ視線を泳がせた。でも、やっぱり上手い説明は見つからなかったらしく、諦めたように言った。
「なんか、見てるの」
前に聞いたのと同じ、お馴染みのセリフだ。違和感を探しているのか、全体のバランスを確かめているのか、それとも次の線をどう引くか考えているのか。きっと、そのどれもが正解で、どれもがちょっとずつズレているのだろう。だから、名前がつけられない。
直哉はなるほどね、と小さく頷いた。作業工程の教科書には絶対に載らないけれど、クリエイティブの現場からは絶対に消せない時間。そういうものが、この仕事場には当たり前のように転がっている。
「出たな、創作界の未確認生物(UMA)」
背後から、いきなりいつもの緊張感のない声が飛び込んできた。
振り返ると、ソファの上で毛布をぐるぐる巻きにした蘭華ひよりが、妙に満足そうな顔をしてこっちを見ていた。
「未確認生物って何?」
直哉が訊くと、ひよりは毛布の中からニュッと顔を出して力強く頷いた。
「そうです。確かにそこに存在しているし、みんな何度も目撃しているのに、誰も名前を知らないUMAですよ。捕まえようとすると、すり抜けて消えちゃうやつです」
「例えが相変わらずよく分かんないんだけど」
「要するに、進捗報告書に書けない時間のことですよ!」
ひよりはドヤ顔で言い放った。
「『今日は二時間、画面をじっと見ていました』とか『なんか気持ち悪いなーって悩んでいました』なんて報告、怖くてマネージャーに送れないじゃないですか。ボツ線すら残らないから、外から見たら完全にサボってたと思われる時間です。でも、そいつがいないと原稿は絶対に前に進まないんですよ!」
直哉は思わず吹き出してしまった。言っていることは相変わらず極端だが、中身は驚くほど的を射ている。
今日は画面をじっと見ていた。今日はなんとなく違和感があって手が止まっていた。
どれも本当のことだし、サボっていたわけじゃない。でも、報告書や数字のデータに落とし込もうとすると、あまりにも形がなくて消えてしまう。だから、無かったことにされてしまうのだ。
レイはまだ画面を見つめていた。相変わらず絵自体に変化はない。でも、彼女の表情がふっと変わった。
何かを見つけたような、かすかな変化。
彼女の右手がスッと動き、キャラクターのまぶたの線をほんの少しだけ修正した。
本当に、パッと見では気づかないくらいの小さな修正だ。横で最初からずっと見ていた直哉ですら、どこが変わったのか自信が持てないレベルの微細な変化。
でも、レイは満足そうに小さく頷いた。
たった一本の、数ミリの線を直すために、彼女の裏側にはあの長い「名前のない時間」が隠されていたのだ。考えて、見て、言葉にできないモヤモヤと付き合っていた時間。同人誌が完成してイベントの机に並んだとき、読者には絶対に伝わらない、見えない時間。
けれど、見えないからといって、無かったことにはならない。
窓の外では、灰色の雲がゆっくりと形を変えながら流れていく。
スタジオの中は、またいつも通りの地味な作業の音だけに戻っていった。スケジュール表には載らないし、数字にも残らない。誰にも評価されないけれど、彼女たちの作品は、間違いなくそういう名前のない時間の積み重ねの上に、少しずつ、形を成していくのだ。




