第72話 「無意識のくせ」
自分のくせというやつは、自分ではなかなか気づけないものだ。
歩き方。話し方。文章の書き方。大抵のものは、他人から「それ、いつものくせだよね」と指摘されて初めて、「あ、そうなんだ」と自覚することになる。絵を描くという作業においても、それは全く同じことが言える。
その日の午後、YLSスタジオの時間はいつものようにのんびりと流れていた。
外はどんよりとした曇り空で、窓の向こうの雲がゆっくりと形を変えている。強い日差しはないけれど、部屋全体が柔らかい薄明かりで満たされていた。エアコンの風が静かに室内を循環していて、机の上に置きっぱなしにされたコピー用紙の端っこが、たまにパタパタと小さく揺れている。
作業の音も、そんなに多くはない。
キーボードを叩く音。液晶タブレットを擦るペンの音。ファイルを上書き保存するクリック音。そういう音がときどき思い出したように響いては、また元の静けさに戻っていく。そんな、いつも通りの平穏な一日。
一ノ瀬直哉は、自分のPCでちょっとしたデータ整理をしながら、頭の中で昨日の会話を思い出していた。
昔の線と、今の線。変わっていくものと、そのまま残り続けるもの。
考えれば考えるほど、なんだか不思議な感じがした。人間は変わるし、技術だって上手くなる。考え方だって変わっていく。それなのに、全部が全部、ガラリと入れ替わってしまうわけじゃない。その「変わらない部分」の正体が、直哉の頭の片隅にずっと引っかかっていた。
直哉はふと顔を上げた。
デスクの向かい側では、橘レイがいつものように淡々とペンを動かしている。画面を凝視し、少しだけ線を直して、一度画面を引いて全体のバランスを確かめる。そしてまた、細かい部分を修正していく。派手な動きは何一つないけれど、彼女の原稿は、爪の先ほどの歩幅で確実に前へと進んでいた。
直哉は特に目的もなく、そのモニターの画面をなんとなく眺めていた。
すると、ある部分がふと目に留まった。
「……あれ?」
なんだか、前にもこれと似たような光景を見た記憶があるぞ、と思ったのだ。
キャラクターの肩の描き方。指先の絶妙な丸み。髪の毛の流れるようなライン。
描いているキャラクターも違えば、作品のタイトルだって全く別物だ。それなのに、画面の奥から漂ってくる雰囲気が、驚くほど「同じ」なのだ。
画力がどうとか、テクニックがどうとかいう話じゃない。もっとこう、本人が無意識のうちに何度も繰り返してしまう、独特のパターンのようなもの。
「……レイさん」
直哉が静まり返った部屋で声をかけると、レイは画面を見たまま、短く「ん?」と返した。
「レイさんって、自分の絵の『くせ』って何か自覚ある?」
レイは少しの間、ペンを持ったまま考え込んでいた。でも、その視線は相変わらずモニターに固定されたままだ。
「……あんまり、分かんないかも」
その答えは、少し自信なさげだった。
直哉は「やっぱりそうか」と小さく笑った。自分のくせなんて、本人はそんなに意識していないのが普通だ。
自分の声を録音で聴いたときに変な違和感を持ったり、自分の歩き方を普段から意識して見つめたりしないのと同じ。毎日当たり前のようにやっていることほど、一番近くにいる自分には見えなくなってしまうものらしい。レイもきっと、それと同じ状態なのだろう。
直哉はもう一度、画面のイラストを見た。
見れば見るほど、やっぱり「いつもの感じ」が伝わってくる。昔の古い絵と比べても、その根っこの部分は確かに繋がっているのだ。具体的なパーツを指差して「ここが同じだ」と説明するのは難しいけれど、感覚としてはハッキリと分かる。
ここにあるすべての絵は、間違いなく「橘レイ」という同じ人間が描いたんだな、という強い説得力。昨日、昔の古いファイルを見たときと同じ感覚だ。絵柄は変わった。でも、一目で彼女の絵だと分かる。不思議だけど、それが紛れもない事実だった。
「くせっていうのはね、別に隠れてるわけじゃないんですよ」
背後から、いきなりいつもの緊張感のない声が降ってきた。
振り返ると、ソファの上に毛布をぐるぐる巻きにした蘭華ひよりが、ニヤニヤしながらこっちを見ていた。相変わらずソファの主のようになっている。
「隠れてないの?」
直哉が訊くと、ひよりは毛布の中で力強く頷いた。
「そうです。隠れてるんじゃなくて、ただ単に『本人だけが見えていない』だけなんです」
その言い方は、確かに妙に納得がいくものだった。自分のくせっていうのは、自分以外の周りの人間の方が、よっぽどよく知っていたりするものだ。
「例えばどんなところ?」
直哉が訊ねると、ひよりはレイのモニターを指差して、ノータイムで答えた。
「レイさんの絵はね」
「うん」
「どこからどう見ても、レイさんの絵なんですよ」
レイがパチパチとまばたきをした。直哉はズコッと肩の力を抜いて、ため息を漏らす。
「いや、ひよりちゃん、それは何の説明にもなってないでしょ」
「でも、本当のことじゃないですか」
ひよりは自分の答えに満足したのか、ふんぞり返ってドヤ顔をしている。
「くせっていうのは、本人が狙って作っているものじゃないんです。普通に描いていたら、どうしても勝手に染み出てきちゃうものなんですよ。だから、言葉で説明するのが難しいんです。そういう『染み出しちゃったもの』の合計が、レイさんの絵のらしさになってるんですよ」
仕事場はまた静かになった。窓の外では、灰色の雲がゆっくりと動いている。
直哉はひよりの言葉を頭の中で反芻しながら、なるほどな、と思った。
昔の線。今の線。そして、無意識のくせ。
それらは全部、見えない糸で繋がっているのだろう。技術が上がって変わっていく部分もあれば、どんなに年月が経っても変わらずに残り続ける部分もある。その二つが、作業を続ける中でずっと混ざり合っているのだ。
だからこそ、昔の古い絵を見ても「やっぱりレイさんの絵だな」と安心できるし、今の新しい絵を見ても、その奥に彼女だけの確かな指紋を見つけることができる。本人が自覚しているかどうかにかかわらず、そのらしさは消えずに残り続ける。
レイはキーボードをパチパチと叩いて、画面の表示を一度縮小した。
全体の構図を確認してから、またグッとアップに戻す。
いつも何回も繰り返している、彼女のお決まりの動作だ。そしておそらく――その画面を拡大縮小するタイミングやリズム自体も、彼女が無意識のうちにやってしまう「くせ」の一種なのだろう。本人は全く気づいていないけれど、毎日横で見ている直哉やひよりは、それをちゃんとお馴染みの光景として知っている。
創作の現場には、そういう言葉じゃ説明できないものがたくさん転がっている。
数字で測ることもできないし、他人の評価で決まるものでもない。でも、そこには確かに存在しているのだ。
窓の外、雲の隙間から一瞬だけ明るい光が差し込んできた。
部屋の中が少しだけ明るくなる。そんな静かな午後の空気の中で、彼女たちの作業はまた淡々と続いていく。新しく変わっていくものと、昔のままそこに残り続けるものを、しっかりとペンの先に宿しながら。




