第71話 「昔の線、今の私」
過去の自分に会いに行く方法なんて、この世界には存在しない。
そんなことは当たり前だ。昨日の自分にも、一年前の自分にも、もっと言えば十年前の自分にだって、直接会って話をすることなんてできやしない。けれど、日常的にもの作りを続けている人間には、それに近い妙な体験をする瞬間がたまにある。
大抵それは、ハードディスクの奥に眠っていた古い作業ファイルを開いたときにやってくる。
その日の午後、YLSスタジオは心地いい静けさに包まれていた。
窓の外には相変わらずどんよりとした曇り空が広がっている。室内に入ってくる光は、部屋の隅々の輪郭を少しだけあいまいに吸い込むように、優しく広がっていた。デスクトップPCの冷却ファンが静かに回る音の合間に、ときどき思い出したように短いタイピング音が響く。
急ぐ理由は何一つない一日だった。だからこそ、作業のちょっとした合間に、みんなで過去のデータを漁るなんていう暇つぶしをする余裕があったのだ。
一ノ瀬直哉は、モニターを覗き込みながら少し首を傾げた。
画面に表示されているのは、何年も前に描かれた古いイラストデータだ。正確に何年前のものかは分からないけれど、今スタジオで見慣れているレイの絵とは、明らかに雰囲気が違っていた。
線の引き方が違う。色の塗り方が違う。画面全体の空気感だって違っている。
今の絵より上手いとか下手とか、そういう単純な話じゃない。かといって、全く知らない他人の絵に見えるわけでもない。ただ、今のレイの絵と並べると、そこには確実に、薄い膜のような「距離」が存在していた。
アルバムの中に昔の自分の写真を見つけたときの感覚に、ちょっと似ているかもしれない。確かに自分の顔だと分かるし、面影だって残っているけれど、今目の前に立っている自分とはどこか別の生き物のように思える、あの感じだ。
レイは、その古い絵をしばらく黙って見つめていた。
懐かしいな、という思い出に浸っている風ではなかった。どちらかと言えば、なんだか不思議なものを見るような、そんな目つきだ。
「なんで昔は、こんな線引いてたんだろう……」
ぽつりとレイが呟いた。
「形も、なんでこれを選んだのか全然思い出せない」
自分が描いたデータだということは、百も承知だ。でも、その線を引いたときの細かい理由やこだわりは、もう時間の彼方に消えてしまっている。人間の記憶なんてものは大抵、そういう作った本人の内側の部分から真っ先に消えていく。残されるのは、画面に残った結果だけだ。
「結構、変わるもんだね」
直哉が言うと、レイは画面を見つめたまま、短く「ん」とだけ頷いた。
「かなり、違う」
それを否定する理由はなかった。誰が見たって一目瞭然だ。
でも、じゃあ具体的にどう違うのかと言葉にしようとすると、これが意外と難しい。
昔の線の方が硬いのだろうか。それとも、今より伸び伸びと自由に引いているのだろうか。今より思い切りが良いのか、あるいはもっと迷いながら引いているのか。どれも少しずつ当たっているような気がするし、どれも決定的な正解じゃないような気もする。
直哉は、最近レイが描いたイラストのデータも開いて、二つのウィンドウを横に並べてみた。
違いはさらにハッキリした。でも、その違いが「いつ、どこで生まれたのか」までは分からない。
その変化は、ある日突然起きたわけじゃないのだ。何百回もの作業、何千回、何万回と繰り返されたストローク。そういう日々の地味な積み重ねが、地層のように少しずつ積み上がって、今の形になっている。変化のスピードが遅すぎるせいが、途中のプロセスは誰の目にも見えない。見合えるのは、最初と最後、その二つの点だけだ。
「こういう昔の線ってさ」
直哉はモニターを見つめたまま、ふと思った疑問を口にした。
「もう一回描こうと思ったら、描けるもんなの?」
別に深い意味のある質問じゃない。ただの純粋な好奇心だ。
レイは少しの間、ペン先をアゴに当てて考え込んでいた。絵柄を似せること自体は、技術的にはそんなに難しくない。昔の癖をなぞれば、それっぽい形にはなるだろう。でも、そういう表面的な話ではなく、何かが決定的に元には戻せないのだと、彼女の直感が告げていた。
「……たぶん、無理かな」
レイが静かに答えた。
「なんで?」
直哉が訊くと、レイは窓の外へと視線を向けた。
空の色はさっきからずっと同じ灰色だ。でも、雲の形は絶え間なく変わり続けている。一見すると静止しているように見えても、一秒たりとも同じ場所には留まっていない。絵を描くということも、きっとそれと同じなのだ。
「今の私には、知りすぎちゃったことが多すぎるから」
直哉は「なるほど」と思って黙り込んだ。余計な説明はなかったけれど、彼女の言いたいことはストレートに伝わってきた。
手は同じだ。使っている液タブも、ペイントソフトも同じ。描いている本人だって同じ橘レイだ。でも、時間は決して巻き戻らない。今の彼女は、昔の彼女が知らなかった技法や、デッサンの知識や、いろんな経験をすでにたくさん抱え込んでしまっている。その「知りすぎてしまったこと」が、どうしても今の線に混ざってしまうのだ。その違いはほんの少しのニュアンスかもしれないけれど、だからこそ、もう二度と昔のピュアな線には戻れない。
「昔の線は、別に絶滅したわけじゃないですよ」
背後から、いきなりいつものマイペースな声が割り込んできた。
振り返ると、ソファの上で毛布にみのむしみたいに包まった蘭華ひよりが、妙にドヤ顔をしてこっちを見ていた。
「絶滅してない?」
直哉が訊くと、ひよりは毛布の中で力強く頷いた。
「そうです。彼らは絶滅したんじゃなくて、ただの進化です」
直哉はパチパチとまばたきをした。出た、またひよりちゃんの謎理論だ。今回は生物学のジャンルらしい。
「昔の線。今の線。中身は地続きの同級生、つまり同じ種族なんですよ。だから絶滅じゃありません」
「同級生じゃなくて同種、ね。でも言いたいことは分からなくもないかな」
「考古学みたいなもんですよ。クリエイティブの化石発掘です」
ひよりは自分のネーミングセンスに満足したのか、毛布の中でゴロゴロと転がっている。彼女の頭の中では、ハードディスクの過去データ整理と、古代の遺跡発掘が同じカテゴリーに分類されているらしい。
直哉は苦笑いしながら、もう一度画面に視線を戻した。
昔の線と、今の線。確かに見た目は変わった。でも、完全に切り離されているわけじゃない。説明は難しいけれど、そこには確かに「橘レイ」という一人の人間が描き続けてきたという、目に見えない一本の芯が通っている。だからこそ、何年経っても、どれだけ絵柄が変わっても、ファンは一目で彼女の絵だと見抜くことができるのだ。失われずに残り続ける、彼女だけの指紋みたいなもの。
レイは古いファイルを静かに閉じた。
モニターには、再び今まさに格闘している最新の原稿画面が戻ってくる。
今の線。今日の線。昔のそれとは全然違う。でも、過去と決別したわけじゃない。それは間違いのない事実だ。
昔の線は、もう画面の上には存在しない。少なくとも、当時のままの形で現れることは二度とない。けれど、完全に消えてなくなったわけでもないのだ。かつての未熟な線や、あの頃のこだわりは、形を変えて今の彼女の右手にしっかりと溶け込んでいる。あまりにも自然に馴染んでいるせいで、誰の目にも見えないだけだ。
窓の外、夕方の光がゆっくりと部屋の色彩をセピア色に変えていく。
仕事場の中は、またいつも通りの地味な作業の音だけに戻っていった。昨日から今日へと時間が繋がっていくように、昔の線もまた、今の彼女たちのペン先に混ざって、静かに生き続けている。
形を変えながら、けれど確実に、今この瞬間の原稿を後ろから支えてくれているのだ。




