第70話 「終わらない地続き」
何かを作るという仕事には、いつでも「終わり」という区切りが存在する。
脱稿。発行。イベントでの頒布。遅かれ早かれ、どんな作業にも「ここまでで終わり」と線を引き、世に送り出す瞬間がやってくる。けれど、作っている本人の感覚からすると、それはちょっと違うような気がすることが多い。
終わったはずなのに、まだどこかできれいに終わっていないような感覚。ぷつりと途切れたはずなのに、目に見えない糸の先がどこか別の場所へ繋がっているような感じ。昨日の原稿の残骸が、当たり前のように今日の作業机に載っている。そして、今日のキャンバスの片隅にある何かが、静かに明日の自分へと引き継がれていく。
そういう、どこまでも地続きな感覚の方が、きっと創作の現実に近いのだ。
その日の午後、YLSスタジオの中はいつも通りのまったりとした静けさに包まれていた。
外は薄い曇り空で、強い日差しが差し込むこともない。おかげで部屋全体が、均一で柔らかい薄明かりに照らされている。机の上の資料の山は相変わらずそこにあるし、液晶モニターは昨日と同じ明るさで光っている。そして、作業も昨日と同じように淡々と続いていた。
何から何まで、昨日と全く変わらない景色。少なくとも、パッと見はそうだ。
一ノ瀬直哉は、自分のノートPCの画面からふと顔を上げた。
デスクの向かい側では、橘レイがいつもの姿勢で座っている。相変わらずペンを動かしている。彼女がずっと原稿に向き合っていること自体は、この仕事場では当たり前すぎて今更驚くようなことじゃない。
ただ、直哉がなんとなく目を留めたのは、彼女が今開いている「作業ファイル」のせいだった。
そのファイルには見覚えがあった。昨日も開いていたし、一昨日も開いていた。なんなら、ここ数日間ずっと同じファイルがモニターの特等席を陣取っている。
もちろん、少しずつ描き足されてはいるのだろう。直哉のようなファンの目から見ても、イラストがどんどん完成に近づいているのは分かる。
でも、それと同時にちょっと面白い感覚があった。一枚の完成された「絵」として見れば、それはずっと同じ作品を描いているだけだ。けれど、毎日横でレイの作業プロセスを見ていると、彼女が机に向き合うたびに、毎回違う絵に挑んでいるようにも見えてくるのだ。
昨日考えていたこと。今日になって新しく気づいたこと。今まさに直している、ミリ単位の線のニュアンス。そういう頭の中の中身が、毎日ガラガラと入れ替わっている。
「……まだ、それやってるんだね」
直哉がキーボードの上で指を遊ばせながら訊ねると、レイはペンを動かす手を止めないまま、短く「ん」とだけ返した。
「ほら、昨日のやつ。そのイラスト」
直哉が言葉を濁しながらモニターを指さすと、レイはさも当然といった風に呟いた。
「だって、続きだし」
直哉は「そりゃそうか」と苦笑いした。
ファイルは同じ。イラストも同じ。でも、自分の想像していた「続き」という言葉のニュアンスとは、なんだか少しだけズレているような気がした。
小説の続編、アニメの第2期、漫画の次の話。普通、続きと言えばストーリーが前に進むことを指す。新しい事件が起きて、時間が進んでいく。
でも、今目の前で起きている「続き」は、そういうのとは少し毛色が違う。
昨日と同じ、キャラクターの肩のライン。昨日もレイを悩ませていた、光と影の境界線。昨日見つけてしまった、名前のつかない小さな違和感。そういう「昨日の問題」が、そっくりそのまま今日の画面に居座っているのだ。だから、作業が続く。
ただ絵のデータが続いているんじゃない。彼女の頭の中の試行錯誤が、そのまま今日へと流れ込んできているのだ。
窓の外では、千切れ雲が風に吹かれてゆっくりと動いていた。
直哉はそれを眺めながら、絵を描くプロセスって、人間の記憶の仕組みにちょっと似ているかもしれないな、と思った。
夜に寝て朝起きれば、一見すると時間はぷつりと途切れている。だけど、実際は全部繋がっているのだ。昨日の自分が残していったバトンを、今日の自分が嫌々ながらも受け取る。そして今日の自分がこねくり回したデータを、明日の自分がまた引き継いでいく。
そのバトンの鎖は、作品が完成するその瞬間まで、絶対に途切れることはない。
「創作活動って、本当にホラーですよね」
背後から、いきなり不穏な声が降ってきた。
振り返ると、ソファの上で毛布にすっぽり包まれた蘭華ひよりが、顔だけを覗かせて真面目な顔をしていた。
「なんで急にホラーなんて不吉なこと言うの?」
直哉が呆れたように訊くと、ひよりは毛布の中からニュッと手を出し、大真面目に語り始めた。
「だって、ストーカーみたいにしつこく追いかけてくるんですよ」
「何が?」
「昨日見つけちゃった、なんか気持ち悪いっていう違和感です。寝て起きたら、きれいに忘れて消滅してくれてたら最高じゃないですか。でも、現実は非情です。今日の画面の前にも、そいつは平気な顔して待ってるんですよ。『よお、待たせたな』って感じで」
直哉は思わず吹き出してしまった。レイも、ペンを持ったままクスッと肩を揺らしている。
「だからね……」
ひよりは毛布をさらに鼻の頭まで引き上げながら続けた。
「クリエイティブの違和感っていうのは、優秀な追跡者なんです」
「言い方が大げさすぎるでしょ」
「私たちがどこへ逃げようと、ベッドの中で丸くなろうと、そいつは絶対に先回りして待ってるんです。逃げ切る方法は一つしかありません。そいつを完全にぶっ倒す、つまり原稿を完成させることです!」
相変わらず例え話のスケールが変だったけれど、言いたいことのニュアンスだけは、なぜだかしっくりと直哉の胸に届いた。
原稿の中にある問題点や違和感は、自分でちゃんとケリをつけるまでは、絶対にどこにも行ってくれない。見ない振りをすることはできるし、忘れた振りをすることだってできる。けれど、次にファイルを開いた瞬間、そいつはまた当たり前のように画面の奥からこっちを睨みつけてくるのだ。
だから、またペンを握る。だから、また悩む。
そうやって、昨日と今日の作業が、目に見えない糸でガッチリと結ばれていく。
レイはキーボードを叩いて、画面の表示を一度縮小した。
全体のバランスを眺めてから、またグッとアップに戻す。
彼女はまた地道な修正作業に戻っていった。でも、彼女が今見つめているのは、きっと「今日描いた線」だけじゃないのだろう。昨日の夜、さんざん悩んで引き直した無数の線の軌跡。もっと言えば、もっと前からずっと続いてきた、自分の絵に対する試行錯誤の歴史そのものだ。
最初の違和感を見つけたあの日から、彼女の「続き」はずっと始まっていたのだ。
同人誌の一冊が完成して、イベントが終わったとしても、この「続き」が完全に消えてなくなるわけじゃない。今回の反省や、やり残したことは、必ず次の作品を描くときの最初のエネルギーになる。
窓の外では、灰色の雲が静かに流れていく。
スタジオの中は、またペンとキーボードの音だけの、いつもの静けさに戻っていった。
今日の夕方は、昨日と全く同じ景色に見える。でも、中身は決して同じじゃない。昨日の続きをしっかりと抱えたまま、この部屋の原稿は、明日という新しいページに向かって、ほんの少しだけ形を変え始めていた。




