第69話 「理由は後付け」
理由を説明するというのは、考えている以上に難しい。
「好きな食べ物は?」と訊かれれば、大体の人はすぐに答えられる。好きな映画や、お気に入りの音楽だってそうだ。特に深く悩むこともなく、パッと名前を挙げることができる。けれど、その後に「じゃあ、なんでそれが好きなの?」と理由を訊かれると、急に言葉が詰まってしまう。
もちろん、「面白いから」とか「きれいだから」「感動するから」といった、それっぽい理由はいくらでも探せる。ただ、本当にそれだけの理由なのかと突き詰められると、なんだかちょっと怪しくなってくる。
理由なんてものは大抵、後からついてくるものだからだ。
その日の午後も、YLSスタジオはいつも通りのんびりとした時間が流れていた。
外は薄い曇り雲が広がっていて、窓から入ってくる光は優しくて柔らかい。液晶タブレットの画面や、机の上に山積みにされた資料の表面を、その薄暗い光が暖かそうに照らしていた。
橘レイは、じっとメインモニターを見つめていた。
昨日からずっといじっている同人誌のイラストは、もうほぼ完成している。大きなパーツの作画はとっくに終わっていて、今は細かい色味の調整なんかをしている段階だ。外から見ている分には、もういつ作業を終わらせてもおかしくない状態に見える。
一ノ瀬直哉は、自分の作業をこなしながら、ときどきレイの画面をチラチラと盗み見ていた。
画面の中では、まだ地味な修正が延々と繰り返されている。ただ、いくら横で見つめていても、彼女がどういうルールで手を動かしているのかが全然分からなかった。
色を少し変えたかと思えば、やっぱりコントロールZで元に戻す。一本の線を丁寧に引き直したのに、数分後にはまた消して最初の形に戻してしまう。そうかと思えば、今度は全然違う部分をいじり始める。どう見ても、明確な法則があるようには見えない。
それなのに、レイの表情には迷いがないのだ。そこが直哉にとっては不思議だった。
そういえば、と直哉は思い出す。レイは作業中、よく「なんか気持ち悪い」という言葉を口にする。昨日も言っていたし、先週も言っていた。たぶん、もっと前からずっと言っている。
「なんか、しっくりこない」
「ここが、ちょっと引っかかる」
いつもそんな感じだ。でも、彼女がその「気持ち悪さ」の正体を、具体的に説明してくれたことはほとんどない。直哉はふと気になった。絵を描く人っていうのは、みんなこんな風に感覚だけで動いているのだろうか。それとも、レイが特殊なだけなのだろうか。
「……レイさん」
直哉が静まり返った部屋で声をかけると、レイは画面を見たまま、短く「ん?」と返した。
「その、さっきからやってる修正って、何か理由があるの?」
訊いておいてアレだが、ちょっとマヌケな質問だなと自分でも思った。理由がなかったら、わざわざこんな何時間も描き直すわけがない。
でも、直哉が本当に知りたかったのはそこじゃない。なんでその部分なのか、なんでその色なのか、なんでその線を選んだのか。そういう、選択の裏側にある具体的な理由だ。
レイの右手が、ぴたっと止まった。
彼女はしばらく無言のまま、画面を見つめていた。窓の外では、庭の木の葉が風に吹かれてサラサラと揺れている。
「……一応、あるとは思う」
しばらくして、レイがようやく口を開いた。
「一応?」
「終わった後なら、こういう理由でしたって説明できると思う。でも、描き始めは違うの」
レイはまたモニターに視線を戻した。その声は小さくて、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
「最初は、ただ感覚が先に来るだけ」
「感覚?」
「そう。なんか気持ち悪い、っていう感覚」
仕事場はまた静かになった。レイはそれ以上、何も付け足さなかった。言いたくないわけじゃなくて、本当にそれ以上の言葉が出ないのだろう。
直哉は彼女の横顔を見ながら、なるほどな、と納得した。
最初にカチッとした理由があるわけじゃないのだ。まず最初にあるのは、「なんかズレてる」「何かが足りない」という、モヤモヤした感覚。その感覚に引っ張られるようにして、手探りで修正を繰り返す。理由なんてものは、そのモヤモヤが晴れた後に、後付けで探せばいい。
「人間って、本当に都合よくできてますよね」
背後から、いつもの緊張感のない声が降ってきた。
振り返ると、相変わらずソファで毛布にくるまった蘭華ひよりが、首だけをこっちに向けてニヤニヤしていた。寝返りすら打っていないような姿勢だが、どうやら起きていたらしい。
「何が都合いいの?」
直哉が訊くと、ひよりは偉そうに人差し指を立てた。
「私たちはね、理由を『捏造』するのが得意なんですよ」
また独特のひより節が始まったなと思いつつも、彼女の目は意外と真面目だった。
「まず、脳みそが勝手に結論を出すんです。『これ好き』とか『これ嫌い』とか『なんか変』とか。その時点では、理由なんて一ミリもありません。ただの直感です。でも、それだと格好がつかないから、後から必死になって『こういう理由だから変なんです!』って理屈をくっつけるんですよ」
直哉はふっと笑った。言い方はトゲがあるが、確かに言っていることは分かる。
ひよりはそのまま窓の外を見つめ、ゆっくりと流れる雲を目で追っていた。
「だから、最初に理由を求めちゃダメなんです。特にこういう原稿やってるときは、自分の『なんか変』っていう直感を信じて、泥沼に飛び込むしかないんですよ」
数秒の間、誰も喋らなかった。レイは否定も肯定もしなかったけれど、どこか納得したようにまたペンを動かし始めた。
直哉はその沈黙を見つめながら、同人誌を作るプロセスもまさにそれだな、と思った。
最初からすべてが論理的に決まっているわけじゃない。理屈じゃ説明できない「違和感」が先に来て、手が止まり、また動き出す。そうやって、自分の感覚が「これだ」と納得する形を、暗闇の中で探し続けるのだ。
イベントで完成した同人誌を手に取る読者は、きれいに整えられた「結果」だけを見る。そこには、後付けされた立派な理由だけが残っている。でも、作っている本人は知っているはずだ。言葉にできないモヤモヤと格闘していた、あの格好悪い時間があったからこそ、この一冊が生まれたんだということを。
カチ、とレイがキーボードを叩いて上書き保存をした。
画面の見た目は、直哉からすればさっきと何が変わったのかやっぱり分からない。でも、レイの表情は少しだけすっきりしたように見えた。頭の中の「気持ち悪さ」が、ようやく一つ解消されたのだろう。
彼女は今、その理由を言葉で説明できるようになったのだろうか。たぶん、まだだろう。でも、彼女の原稿は、確実に完成へと一歩近づいていた。
窓の外では、灰色の雲が静かに流れていく。
スタジオの中の作業は、また淡々と続いていく。
理由はいつも遅れてやってくる。すべてが終わった後に、さも最初からそこにいたような顔をして、後ろから追いかけてくるのだ。




