第68話 「フリーズしている時間」
絵描きが作業している姿を見ていると、たまに奇妙な瞬間に出くわす。
手が完全に止まっている。キーボードを叩く音もしない。ペンも動かない。画面のイラストもピクリとも変わらない。外から見ていると、何もしていないサボりの時間のように見える。けれど実際は、そういう瞬間にこそ、本人の頭の中ではものすごい勢いでいろんな処理が走っていたりするのだ。
その日の午後、YLSスタジオは静まり返っていた。
外はどんよりとした曇り空で、窓から入ってくる光もなんだか頼りない。エアコンの風が室内をゆっくりと循環していて、机の上に置きっぱなしにされたコピー用紙の端っこが、たまにパタパタと小さく揺れていた。誰も急いでいないし、バタバタと騒いでもいない。それぞれがいつも通りのペースで、自分の作業を進めているだけだ。
一ノ瀬直哉は、自分のPCでのデータ整理を一段落させて、うーんと背中を伸ばした。
ずっと同じ姿勢で座っていたせいで、体がカチコチに固まっている。なんとなく窓の外の景色を眺めてから、特に深い意味もなく、向かいのデスクへと視線を移した。
橘レイが、いつものワークチェアに座っている。いつものモニターの前で、いつもの作業ファイルを開いたままだ。でも、何かがいつもと違っていた。
彼女は、完全にフリーズしていた。
右手にはスタイラスペンを握ったままだし、画面もクリスタの作業エリアが開いたままだから、原稿中なのは間違いない。それなのに、五分前と今で、画面の絵がミリ単位すら変わっていないのだ。
直哉は不思議に思って、少し首を傾げた。
それからさらに十分が経過した。もう一度チラッと見てみたけれど、状況は全く同じだった。レイはただじっと、画面を見つめている。眠たそうにしているわけでもないし、完全にぼーっとしている風でもない。むしろ、めちゃくちゃ集中している目つきだ。それなのに、作業自体は一歩も進んでいないように見える。
部屋の中には、ただエアコンの低い稼働音と、ときどき外の道路を走る車の音が遠くから聞こえるだけ。そんな中、レイは相変わらず微動だにせずモニターを見つめ続けている。
直哉はだんだん気になってきた。彼女は一体、今この瞬間何をしているんだろう。仕事中なのは確かだけど、それにしては動きがなさすぎる。かといって休憩しているのかと言われると、そんな風には到底見えない。仕事と休憩の、ちょうど真ん中の狭間に閉じ込められているみたいだ。
「……レイさん、何してるの?」
ついに耐えかねて直哉が訊ねると、レイは画面から目を離さないまま、まばたきを一つした。
「見てる」
直哉は思わずちょっと笑ってしまった。見ているのは、横から見ても丸分かりだ。訊きたかったのはそういうことじゃない。
「何を見てるの?」
数秒の沈黙があった。ペンは止まったままだし、画面のレイヤー構造も変わらない。でも、レイの視線は一箇所に固定されたままだ。
「なんか、気持ち悪いところ」
ぽつりとレイが答えた。
直哉は彼女のモニターに映っているイラストを、自分も一緒になってじっと見てみた。ほぼ完成している同人誌の表紙絵だ。どこからどう見ても、おかしなところなんて見当たらない。構図のバランスもいいし、色使いもきれいだ。線画だってすごく丁寧に引かれている。少なくとも、ファンの目線から見れば完璧なイラストだ。
でも、レイの目にはまだ何かが引っかかっているらしい。自分でもまだ言葉にできないような、ちょっとした違和感。それを画面の中から必死に探し出そうとしているのだ。
仕事場はまた静かになった。レイは動かないし、直哉もそれ以上は何も言わずに自分の画面に戻った。
不思議と、この沈黙はちっとも気まずくない。修羅場中の仕事場ではよくある、独特の落ち着いた静けさだ。誰も喋っていないけれど、だからといって何も起きていないわけじゃない。
それから、ずいぶんと時間が経った頃。
ようやくレイの右手が動いた。
彼女はペン先を液晶に滑らせて、キャラクターの肩のラインをほんの少しだけ修正した。本当に、ちょっとだけの修正だ。でも、描き直す前と後を比べてみると、確かに肩の力の抜け方がすごく自然に見えるようになった。
直哉は「おお」と心の中で声をあげた。
たった一本の、数ミリの線を直すためだけに、レイは二十分近くも画面を睨みつけていたのだ。
「出た。クリエイターのフリーズ現象」
背後から、いきなり声が聞こえて二人ともそっちを振り向いた。
ソファの上で毛布にくるまっていた蘭華ひよりが、いつの間にか起きてこっちを見ていた。
「現象って何?」
直哉が讯くと、ひよりはドヤ顔で頷いた。
「パソコンでいうところの砂時計マーク。タスクマネージャーで見ると『応答なし』ってなってるやつです。要するに、脳内の省エネモードですよ」
「いや、省エネっていうより、むしろ脳みそフル回転させてたっぽいですけど」
「まあ、裏で重い処理が走ってるっていう意味では同じです。見た目は完全に止まってるけど、バックグラウンドで必死にバグを探してるんですよ。パソコンも、一見フリーズしてるように見えて、実は裏でアップデートの確認とか頑張ってたりするじゃないですか。それと同じ!」
ひよりは自分の例え話に満足したのか、ふんぞり返っている。
直哉はもう一度、レイの画面を見た。
しばらくすると、レイはまたペンを止めてじっと画面を見つめ始めた。でも、今度は直哉の見え方も違っていた。彼女はただサボっているわけじゃない。必死に画面と格闘して、違和感を探し、調べ、考えているのだ。それが、横で見ているだけでなんとなく伝わってくる。
外から見たら、ただの真っ白な「何もしていない時間」だ。
でも、同人誌が完成してイベントの机に並んだとき、読者にはこの二十分間の停滞なんて絶対に伝わらない。売上の数字にも残らないし、SNSの感想で言及されることもない。誰にも気づかれないまま、ただ過ぎ去っていった時間。
だけど、あのきれいな表紙イラストは、間違いなくこういう「手が止まっていた時間」の積み重ねの上に成り立っているのだ。
窓の外では、灰色の雲がゆっくりと流れていく。
スタジオの中の作業は、また静かに続いていく。外から見れば、午後はずっと同じ画面のままで、何一つ進んでいないように見えるかもしれない。でも、この部屋の原稿は、目に見えないくらいの小さな歩幅で、確実に前へと進んでいた。




