第67話 「過去のデータと今の原稿」
前のデータと今の原稿を見比べるなんてことは、この仕事場では日常茶飯事だ。
誰かにやれと言われたわけでもないのに、気がつくとみんな自然にやっている。昨日のデータと今日のデータ。一年前の同人誌と、今描いている原稿。あるいは、他のプロ作家の画面と、自分の画面。人間っていうのは、どうしても二つのものを並べて、その違いを探したくなる生き物らしい。別に誰かを妬んでいるわけじゃなく、ただ「自分の立ち位置を知りたい」という、ごく普通の理由からだ。
その日の午後、YLSスタジオの空気はいつも通りまったりとしていた。
外はどんよりとした曇り空で、窓から入ってくる光もなんだか薄暗い。庭の木が風で揺れるたびに、フローリングの床に映る影がモゾモゾと動いていた。室内ではエアコンが静かに動いていて、複数の液晶モニターがパッと明るい光を放っている。
一ノ瀬直哉は、自分のノートPCのキーボードを叩く手を止めて、ふと顔を上げた。
視線の先にあるのは、自分の画面ではなく、向かいのデスクにある橘レイのモニターだ。彼女がここ数日ずっといじり回しているイラストは、どうやらかなり完成に近づいているようだった。数日前はただのグチャグチャした下描きの塊だったのに、今ではちゃんときれいな線画になって画面に収まっている。
それを見ているうちに、直哉はこのスタジオのフォルダの底から発掘された、いろんな過去のデータを思い出した。
一年前の古いPSDファイルや、昔の落書き、ボツになったラフスケッチ。そういう「昔の線」と、レイが今まさに引いている「新しい線」を頭の中で並べてみると、違いは一目瞭然だった。
単純に絵が上手くなっている。それに、昔みたいに変なところで迷わなくなっている。でも不思議なことに、その変化は毎日横で見ているときには全く気づかなかったのだ。
半年とか一年とか、ある程度時間が経ってから見返して、ようやく「あ、変わったんだな」と気づく。自分の成長っていうのは、少し離れたところから見ないと分からないものらしい。
「……見比べるのって、やっぱり大事?」
直哉が作業の手を休めて何気なく訊くと、レイは画面を見たまま、短く返した。
「ん?」
「いや、昔の絵と今の絵を見比べるのってさ。たまに凹むこともあるけど、やっぱり必要なのかなと思って」
誰かと比べて「自分は下手だ」とか、昔の絵を見て「あの頃の方が勢いがあった」とか、そういう風に考えて悩むのは、同人界隈でもよくある話だ。
レイは少しの間、スタイラスペンを止めて考え込んでいた。
それから、キーボードをパチパチと叩いて、キャンバスの表示をグッと縮小した。ずっとアップで細かい部分ばかり見ていると、全体のバランスが分からなくなるからだ。
「見ないと、分からないからね」
しばらくして、レイが言った。
「何が?」
「自分がどこまで歩いてきたか、っていうこと」
直哉は「なるほど」と思った。
比べるというと、どうしても他サークルとの部数の競い合いとか、SNSのいいねの数とか、そういう勝ち負けの話を想像しがちだ。
でも、レイが言っているのはそういうことじゃない。
自分がどう変わったのかを知るため。今、自分がどれくらいのレベルにいるのかを確かめるため。それだけのことだ。
窓の外では、灰色の雲がゆっくりと動いていた。
絵を描いている最中は、変化なんて地味すぎて全然実感できない。だからこそ、たまに「過去のデータ」を隣に並べてみる必要があるのだ。
昔の自分の原稿。あの頃に必死で描いていた、今見るとちょっと恥ずかしいボツ線の数々。
その二つを並べてみて初めて、「あ、自分も少しは前に進んでるんだな」と安心できる。
「他人と自分を見比べるのは、ただの自傷行為ですよ」
背後から、いつもの緊張感のない声が降ってきた。
振り返ると、ソファの背もたれに顎を乗せた蘭華ひよりが、ニヤニヤしながらこっちを見ていた。今日の彼女は、珍しく最初から会話に参加してくる気満々のようだ。
「また始まった。ひよりちゃん、起きてたの?」
「当然です。いいですか直哉くん。私が『昨日の自分』と『今日の自分』を厳密に見比べてみた結果、何が分かったと思います?」
「さあ。何?」
「今日の私も、相変わらずソファでゴロゴロしているという冷酷な現実です! 進歩ゼロ! 現状維持最高!」
「ただのサボりじゃん」
直哉が呆れたように突っ込むと、レイもふっと吹き出して苦笑いしていた。ひよりは自分のオチに満足したのか、ふんぞり返ってドヤ顔をしている。最初から二人を笑わせて、作業のピリついた空気を緩めるのが目的だったのだろう。
でも、ひよりはそのまま窓の外を眺めながら、少しだけ声をトーンダウンさせた。
「まあでも、見比べるのって、自分の『現在地』を知るためのただの道具ですからね」
/道具?」
「そう。誰かと喧嘩して、自分の強さをアピールするための武器じゃないんです。ただ、今の自分と、これから行きたい場所の間に『どれくらい距離があるか』を確かめるための、ただの定規みたいなもんですよ。使い道さえ間違えなきゃ、そんなに悪いもんじゃないです」
直哉はそれを聞いて、なるほどな、と納得した。
昨日の原稿から、今日の原稿への距離。一年前の未熟さから、今の足場までの距離。
そういう風に考えれば、誰かの絵を見て落ち込む必要もない。問題なのは「見比べること」自体ではなく、それを見て自分がどう動くか、ということだ。
レイはまた、液晶タブレットの上でペンを動かし始めた。
画面の中で、イラストの線が少しずつ、完成の形へと収まっていった。
この同人誌が完成してイベントの机に並ぶとき、買いに来てくれるファンが見るのは「完成した一枚の絵」だけだ。微細な修正や新旧データの見比べがどれだけ裏にあっても、読者には関係ない。
昨日の線と、今日の線。修正前と、修正後。その地味な繰り返しの連続。
創作の現場において、見比べる作業は避けて通れない。
大事なのは、誰かと比べて落ち込むことではなく、並べて見た後に、次の線をどう引くか。ただそれだけだ。
窓の外、雲の隙間から少しだけ明るい光が差し込んできた。
スタジオの中は、またそれぞれの作業に戻っていくいつもの静けさに戻った。
誰も競い合ってはいないし、焦ってもいない。でも、この部屋の作業は確実に前へと進んでいた。少なくとも、今日描いたページが、昨日よりはちょっとだけ良いものになっているという確信を持って。




