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誰が描いた?【マンガ・アニメ制作のリアルを描く業界ドラマ】  作者:
ARC V ー 「誰が描いた?」

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第66話 「鏡像の評価」

 評価という言葉には、どこか奇妙な不条理が潜んでいる。

 称賛も評価なら、批判もまた評価だ。それは時に無機質な数字として提示され、時に無数の言葉の羅列として届けられる。全く異なる性質を持ちながら、それらはすべて同じ一つの名前で括られてしまう。


 その日の午後、YLSスタジオはいつも通りの穏やかな静寂に包まれていた。

 窓の外の空は一面の薄曇りで、遮られた陽光が室内へ柔らかく拡散している。眩しさを感じさせない均一な明るさの中、低く響くエアコンの稼働音に混じって、キーボードの打鍵音が規則正しく刻まれていた。時折、液晶タブレットの表面を擦るスタイラスペンの摩擦音が重なる。

 それ以外には、何も聞こえない。

 騒がしい議論もなければ、差し迫った締め切りに追われる焦燥もない。しかし、仕事場の時間は確実に流れており、それぞれの作業は静かに「完成」という終着点へ向かって歩みを進めていた。少なくとも、終わりが少しずつ近づいているという確信だけが、部屋の空気を満たしている。


 一ノ瀬直哉は、メインモニターに表示された画面をじっと見つめていた。

 評価のリスト。コメント。読者からの感想。

 短い一行の呟きから、作品への熱量が込められた長文の考察まで、多種多様なレスポンスがそこに並んでいる。作品を世に送り出せば、こうした反応は否応なしに集まってくるものだ。

 多いときもあれば、少ないときもある。時には、恐ろしいほどの無反応に直面することだってある。それは創作の世界において、極めて当たり前の日常だった。


 直哉は一つのコメントに目を留めた。そこには純粋な称賛が綴られている。別のコメントを開くと、今度は具体的な改善点の指摘が並んでいた。さらに次のページへ進むと、それは批評というよりも、書き手自身の個人的な思い出語りに近い感想だった。

 見事にバラバラ。けれど、そのすべてが同じ「評価」というカテゴリーに属している。

「……なんか、不思議だよね」

 直哉の独り言に、橘レイはペンを動かす手を止めなかった。だが、その耳は確かに言葉を拾っているようだった。

「何が?」

「同じ一つの作品を見てるはずなのにさ」

 直哉は画面の文字を見つめたまま続けた。

「みんな、全然違う場所にフォーカスしてるんだ。背景の描き込みに感動してる人もいれば、キャラの心理描写に没頭してる人もいる。ストーリー展開を追う人も、全体の雰囲気を楽しむ人もいる。同じ絵、同じ物語のはずなのに、それぞれの目に映っている景色は、少しずつ掠れて違っているみたいだ」

 それは純粋に興味深い現象であり、同時にどこか奇妙な感覚を直哉に抱かせた。


 レイは相変わらずモニターと対峙していた。画面の中のイラストはまだ半分も出来上がっていない。未完成の混沌。少なくとも現時点では、他人の評価に晒されるような段階ではなかった。そこにあるのは、修正の指示を待つまでもなく、彼女自身の意思で何度も引き直される不完全なボツ線の群れだけだ。

「見ている人間が、違うから」

 しばらくの沈黙の後、レイがぽつりと言った。

 それだけの、極めて簡潔な答えだった。けれど、直哉にはそれで十分だった。

 人はそれぞれ、自分の見たい部分を見る。だからこそ、受け取る印象も違えば、生まれる評価も異なる。そこには不思議がるような謎など、最初から何一つないのだ。


 窓の外では、風が少しずつ勢いを増しているようだった。庭の木々の枝が、ざわざわと音を立てて小さく揺れている。その様子を眺めながら、直哉は思考をさらに深めていた。

 評価というものは、おそらく作品そのものだけを語っているのではない。それを口にする「見手」の輪郭をも、同時に浮かび上がらせているのではないか。彼らが何に心を動かされ、何を不快に思い、どの断片を記憶の底に留めたのか。評価というフィルターを通すことで、見る側の人間性や背景が、作品のインクと混ざり合っていく。だからこそ、誰一人として完全に同じ結論には至らないのだ。

「評価なんてさ……」


 背後から、不意に別の声が滑り込んできた。

 振り返ると、ソファの背もたれに両腕を乗せた蘭華ひよりが、顎をちょこんと乗せて二人を見ていた。どうやら随分前から起きていたらしい。今日の彼女は、珍しく最初から会話のキャッチボールに参加する気満々のようだった。

「……ただの鏡みたいなもんですよ」

 直哉は少しだけ首を傾げた。その切り出し方は、いつもの突飛な冗談とは違い、奇妙なほど落ち着いていたからだ。

「鏡?」

「そう、鏡」

 ひよりは小さく頷いた。

「そこに映っているのは、確かにレイさんの描いた作品です。でもね、同時に、それを覗き込んでる人間の顔も、そのガラスの奥に思いっきり反射してるんですよ」

 スタジオに、微かな静寂が戻ってきた。

 レイは何も言わず、直哉もすぐには言葉を返せなかった。ひよりの言葉は、頭の中で何度か反芻してみるだけの価値を持っていた。


 お気に入りのシーンを熱弁する人。どうしても受け入れられない部分を指摘する人。特定のセリフをずっと忘れられずにいる人。

 彼らの評価の裏側には、作品という客体だけでなく、彼ら自身の人生や価値観という主体が、べったりと張り付いている。

「だから面白いんじゃじゃじゃん?」

 ひよりはそう言うと、視線を窓の外の雲へと移した。絶え間なく形を変え、引き千切られていく灰色のグラデーション。

「もし全員が同じ場所を見て、同じように感動して、同じ言葉で褒めちぎる世界があったとしたら、それって宗教か洗脳の二択ですよ。ちょっと不気味じゃん?」

 直哉は小さく笑った。確かにその通りだ。

 全員がミリ単位で同じ線を愛で、同じ感情を抱く。そんな均一化された世界は、エンターテインメントの在り方として明らかに不自然だ。評価がバラバラであることこそが、世界が健全に駆動している証拠なのだろう。見る人間が、それぞれ異なる人生を歩んできたのだから。


 カチ、とレイの左手が保存のショートカットを押した。

 画面の中で、イラストの完成度がまた数パーセントだけ引き上げられる。

 それはまだ、誰の評価も受けていない純粋なデータだ。誰の目にも触れておらず、コメントも、数字も、そこには一切付着していない。そして、それで何の問題もなかった。なぜなら彼女は今、評価とは全く異なる位相に立っているからだ。

 描く段階。考える段階。直す段階。懊悩し、躊躇い、もう一度最初から筆を執る段階。

 評価という名の光が当たるのは、すべての泥臭いプロセスが終わり、作品が作者の手を離れて、他者の網膜へと届いたその瞬間だけだ。


㠀の外では、雲がゆっくりと形を崩しながら流れていく。

 評価もまた、あの雲に似ているのかもしれない。同じ空を見上げていながら、ある人には犬の形に見え、別の人には雨の予兆に見える。

 そして、それこそが、作品が世に出る本当の意味なのだ。誰一人として、完全に同じ方法で世界を見ることはできないのだから。


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