第77話 「作品の所有権」
作品という言葉には、どこか釈然としない不条理が隠れている。
誰かが描き、誰かが完成させる。だからこそ、それは一つの作品になる。そこまでは教科書通りにシンプルで分かりやすい話だ。けれど、何年も何年もずっと物作りを続けていると、たまにその境界線がぼやけてくるような、妙に曖昧な地平に迷い込むことがある。
この作品は、本当に自分一人のものなのだろうか、と。
その日の午後、YLSスタジオにはいつも通りのまったりとした静けさが流れていた。
窓の外の空は一面の薄曇りで、強い日差しが入ることもない。室内は柔らかい薄明かりで均一に満たされている。エアコンの風は一定の音を立てて静かに回り続けており、液晶モニターの光がデスクの表面を静かに照らし出していた。急ぐ理由もない、いつもと全く変わらない平穏な午後の景色。
そんな静けさの中で、一ノ瀬直哉はふと昨日の会話を思い出していた。
作品を誰が見ているのか、という話。結果だけを見る読者、裏の泥臭さまで想像してしまうファン、そして描き手本人の目線。それらのやり取りを頭の中で反芻しているうちに、今日になってまた別の素朴な疑問が脳裏に浮かんできたのだ。
そもそも、出来上がった作品って、一体誰のものなんだろう。
直哉は自分のノートPCの画面からふと顔を上げた。デスクの向かい側では、橘レイがいつもの姿勢で座り、淡々とペンを動かしている。
でも、彼女が今モニターの中で描いているイラストの奥には、実は目に見えないいろんなものがぎっしりと詰め込まれているはずだ。これまでに彼女が読んできた無数の参考資料。影響を受けた他のプロ作家の絵。昔の自分が描いた古いデータや、恥ずかしいボツ線の数々。これまで積み上げてきた失敗の記憶。もしかしたら、昔サークルのファンから貰った嬉しい感想や、ちょっと凹んだ厳しい意見だって、どこかに混ざっているかもしれない。そして何よりも、彼女がこれまでの人生で爪の先ほどずつ必死に集めてきた、膨大な時間の集積。
もし、それらの要素を一つずつ綺麗に剥ぎ取っていったとしたら――今画面にあるその絵は、果たして同じ形をして生まれてくることができたのだろうか。直哉にはそんなこと分かりそうになかった。
「……レイさん」
静まり返った仕事場で、直哉がぽつりと声をかけた。
「ん?」
レイは画面を見つめたまま、短く返事をした。
「作品ってさ……結局のところ、誰のものだと思う?」
レイの右手が、ぴたっと止まった。
今回ばかりは、彼女はいつもよりも少しだけ長い時間、無言のまま考え込んでいた。まずは自分のモニターに目をやり、未完成のイラストを見つめる。それから少しだけ視線をずらして、窓の外の曇り空を眺めた。雲がゆっくりと動いている。一秒たりとも止まらない、いつもの地味な景色。
「描いた人、でしょ。普通は」
しばらくして、レイがようやく言った。
直哉は「そうだよね」と小さく頷いた。一番当たり前で、一番まともな回答だ。それ以外の答えなんて、著作権的にもあり得ない。でも、レイはそのままペン先をアゴに当てながら、静かに言葉を続けた。
「ベースはそうだけど……それだけじゃない気もする」
部屋の中が、急にさっきよりも少しだけ静かになったように感じられた。直哉はすぐには言葉を返さず、次のセリフを待った。けれど、レイはそれ以上何も付け足さなかった。言葉にするのが難しい種類の感覚なのだろう。
でも、直哉には彼女の言いたいことのニュアンスが、なんとなく分かる気がした。今まさに手を動かして描いているのは、間違いなく橘レイという一人の人間だ。そこに疑いの余地はない。でも、その絵は彼女一人の力だけで、完全なゼロから湧き出てきたわけじゃないのだ。彼女がこれまでに見てきた景色、学んできた技術、周りから受け取ってきたたくさんの手助け。彼女を作ってきた過去の歴史そのもの。きっと、そういう周りのすべてが含まれているんだと言いたいのだろう。
窓の外では、灰色の雲がゆっくりと形を変えながら流れていく。室内には、再びペンとキーボードの地味な音が静かに戻ってきた。
同人誌の原稿なんてものは、机の前でたった一人でシコシコと孤独に作るものだと思われがちだ。でも実際は、一人の人間の存在だけではどうしても説明しきれないパーツが、画面のあちこちに隠されている。それは決して矛盾しているわけじゃなくて、物作りとしては一番自然な在り方なのかもしれない。
「作品っていうのはね、ただの『コミュニティ』なんですよ」
背後から、いきなりいつもの緊張感のない声が割り込んできた。振り返ると、案の定、ソファの上で毛布をぐるぐる巻きにした蘭華ひよりが、ドヤ顔をしてこっちを睨みつけていた。今日の彼女も、ソファの主として完璧に寛いでいる。
「コミュニティ? また変な例え話が始まった」
直哉が呆れたように言うと、ひよりは毛布の中で力強く頷いた。
「変じゃありません。いいですか直哉くん。今そこでペンを握っているレイさんがいますよね?」
「うん。いるね」
「でもね、その画面の奥には『一年前の未熟なレイさん』も座ってるし、『昔やらかした失敗の山』も一緒に入居してるわけです。みんなで一部屋に住んでるんですよ」
「まあ、そこまでは昨日の話の流れ的にも分かるよ」
「そしてもちろん、夜行性のパソコン宇宙人も一緒にコタツを囲んでます!」
「宇宙人は入居してないから出ていってもらいなよ」
直哉がノータイムでツッコミを入れると、ひよりはあからさまに不満そうな顔をした。
「冷たいなぁ。彼らはね、資料フォルダの中にこっそり新しい参考写真を紛れ込ませてくれる、大事な裏の住人なんですよ!」
「それ、ただのひよりちゃんが仕事で集めた参考画像でしょ。宇宙人のせいにしないで自分でフォルダに入れたって言いなよ」
レイの肩が、クスッと小さく揺れた。本当に消え入りそうな静かな笑い声だったけれど、彼女の作業のピリついた空気が一気に和らいだのが分かった。ひよりはそれを見て、自分の仕事は終わったとばかりに、満足そうに毛布の中にまたズブズブと沈み込んでいった。
仕事場はまた元の静けさに戻っていく。直哉はもう一度、レイのモニターを見た。画面に映っているのは「橘レイの絵」だ。誰がどう見たって、一目で彼女の作品だと分かる。他の誰のものでもない、彼女だけの一冊だ。
でも、それと同時に、その線の奥には彼女がこれまでの人生で出会ってきたすべての出来事の指紋が、べったりと混ざり合っている。過去。経験。失敗。ファンからの感想。流れていった名前のない時間。
作品は確かに作った本人のものだ。それは間違いない。でも、その中には、彼女の生きてきた道のりのすべてが、目に見えないインクとして染み込んでいる。だからこそ、創作活動っていうのはこんなにも不思議で、ちょっと面白いのだ。机の前ではたった一人で描いているのに、本質的には、決して本当の意味で一人きりになっているわけじゃない。その明確に割り切れない曖昧さこそが、そのまま作品の魅力や「らしさ」になって画面に残るのだろう。
窓の外では、相変わらず灰色の雲がゆっくりと流れている。スタジオの中の作業は、また淡々と続いていく。「誰のものか」なんていう問いは、言葉にするのは簡単だけど、本当の正解を見つけるのは意外と難しい。だからこそ、レイもすぐには立派な理屈で説明できなかったのだろう。でも、それで何の問題もなかった。言葉にならないモヤモヤを抱えたまま、彼女たちのペン先は、今日も明日という新しいページに向かって、静かに前へと進んでいくのだから。




