第55話 「再画」
創作の途上、人間にはすべてを最初から描き直したくなる衝動が、不意に、そして暴力的に訪れる瞬間がある。
始まりはほんの些細な修正欲求に過ぎない。ほんの一箇所、目元の角度を数ピクセル直すだけ。あるいは、服の皺の陰影を少しだけ滑らかにするだけ。
しかし、その小さな綻びに手をかけたが最後、気づいた時には画面の半分が書き換えられている。そして最終的には、キャンバス全体の地層がひっくり返るような全面的な描き直しへと発展していくのだ。効率性や生産性という冷徹なものさしで測るならば、それは明らかに愚行であり、最も回避すべき悪癖だった。
それでも、私たちは時に、論理のブレーキを踏むよりも早く、指先の直感を優先させてしまう生き物だった。
その日の午後の「YLS Studio」は、奇妙なほど張り詰めた静寂に支配されていた。
窓の外では、六月の気怠い夕暮れの空が、ゆっくりと濁った茜色へと色調を変えていく。エアコンの唸るような排気音だけが低く響き、時折、思い出したように直哉の叩くキーボードの打鍵音が鳴る。それ以外に、世界のノイズは何もなかった。
橘レイは液晶モニターを凝視したまま、完全に石化していた。かれこれ十分間、彼の視線はキャンバスのまったく同じ一点に張り付いたままだ。
「……手が止まってるよ、レイ」
デスクの横から、一ノ瀬直哉のいつもの指摘が飛ぶ。
「止まってない」
「その台詞の様式美、そろそろ聞き飽きたよ」
「考えてるんだよ」
「それもね」
直哉は苦笑したが、それ以上は言及しなかった。ここ最近の不毛なカオスを共有してきたことで、彼は創作者の生態というものを少しだけ理解し始めていた。レイが完全に置物と化している時、彼の脳内では何百本もの線が引かれては消され、言語化不可能なレベルでの試行錯誤が渦巻いているのだ。
数秒の後、レイを縛っていた呪縛が解けたように、液晶ペンの先端が躍動を始めた。
一箇所の修正。それに付随する別の箇所の微調整。さらにその隣のレイヤーへの介入。
そして――何の前触れもなく、ひとつの大きなレイヤーフォルダーが画面から消失した。
「……え?」
直哉が思わず声を漏らした。たった今、レイが熱心に描き進めていた背景のパーツが一瞬で消え去り、液晶画面がぽっかりと白い空白に戻ったのだ。削除されたわけではない。非表示のチェックボックスが押されただけだ。
「待ってくれ、レイ。今の、もう描き直すのかい?」
直哉がモニターを覗き込む。レイの表情は、驚くほど平坦だった。
「ああ。全部、最初からやり直す」
「全部?」
「そうだ」
直哉は、今しがた非表示にされた過去の残骸を思い返した。レイはあの部分に、少なくとも十分以上の時間を費やしていた。そして素人である直哉の目から見れば、それは十分にプロとしてのクオリティを満たしているように思えた。いや、むしろほぼ完成品と言っていい出来栄えだったはずだ。
それなのに、レイは何の躊躇いもなく、それをデータの闇へと葬り去った。
「もったいないとは思わないのかい?」
「思うよ」
「思うんだね、一応」
「死ぬほどもったいない。だけど、描き直す」
理由は極めて単純だった。何か、不穏な違和感がある。ただそれだけだ。
ある時は、パースの狂いや比率のミスを論理的に説明できることもある。しかし今日のように、何が間違っているのかを自分でも言葉にできないまま、ただ胸の奥のトゲのような「座りの悪さ」だけが居座り続けることもある。そしてそのトゲが抜けない限り、レイの右手を動かす創作の歯車は、決して先へ進むことを拒絶するのだった。
表現とは、往々にして説明のスピードを追い越してしまうものだった。
「レイさん」直哉は少し言葉を吟味してから尋ねた。「一回の作画で、最高何回くらい描き直したことがあるの?」
レイはペンの先端を液晶に滑らせながら、三秒ほど思考を泳がせた。
「覚えてない」
「相変わらず実用性のない記憶力だね」
「実用性の問題じゃない。いちいち数えてたら発狂するからだ」レイは自嘲気味に息を吐き出すと、少しだけトーンを落とした。「……多分、二桁は余裕でいってる。十回、いやそれ以上だな」
「十回……?」
直哉は再び、真っ白に戻った画面を見つめた。
一冊の単行本、あるいは一枚のイラスト。完成して世に出された成果物は、どこまでも平坦で、完璧な一発勝負のように見える。しかし、その薄い一枚のデータの裏側には、かつて引かれ、そして消去されていった何千本もの「存在しない線」が死屍累々と積み重なっているのだ。破棄されたアイデア、採用されなかった構図、誰の目にも触れることのなかった無数の失敗。それらの膨大な死体の上に、奇跡のように一つの完成品が成立している。
「それはあれですね……完全にボス戦の第ニ形態ですね」
背後から、低く掠れた声が静寂を破った。
振り返ると、そこには事務椅子の天板に顔を直接めり込ませた状態の蘭華ひよりがいた。起きているのか、それとも肉体だけがそこに置かれているのかは判別不能だったが、言葉だけは妙に明瞭だった。
「第ニ形態?」と直哉。
「そうです」ひよりは顔を天板につけたまま、誇らしげに言葉を紡ぐ。「やっとの思いでボスのHPを削りきって、ファンファーレが鳴るかと思ったら、急に怪しげな光に包まれて、もっと禍々しい姿になって復活するやつです。プレイヤーの心がへし折れる瞬間じゃじゃん」
直哉が小さく吹き出した。
「なるほどね。確かに、創作者にとっては悪夢のような第ニ形態だ」
レイもまた、反論する気力すらなく苦笑した。ひとつの違和感を修正すると、それに引っ張られるようにして別の不具合が顔を出す。そのモグラ叩きのような反復の果てに、気づけば初期の構想とは全く違う、未知の怪物が画面に誕生していることは日常茶飯事だった。完成というゴールが見えたと思った瞬間に、本当の絶望が幕を開ける。
「で……」ひよりは少しだけ頭を動かし、不敵に目を細めた。「そのボス戦に勝ったところで、ドロップアイテムは経験値だけなんですよ」
「レア装備のドロップはなし?」
「ありませんね」ひよりは深く頷いた。「ただ……『安堵』という名の、世界が平和になった実感だけが手に入ります」
「それは、悪くない報酬だね」
直哉が納得したように微笑む。
レイは再び、まっさらな空白の上に新しい一線を走らせた。たった今非表示にしたばかりの背景を、脳内のメモリーだけを頼りに、もう一度ゼロから再構築していく。
不思議なことに、新しく引かれた線は、先ほどのものよりもわずかに「風通し」が良いように見えた。それが純粋な技術の向上なのか、それともただの気の迷いなのかは、レイ自身にも判別がつかない。しかし、胸の奥をじりじりと灼いていたあの不快なトゲが、コンマ数ミリだけ削れたことだけは確かだった。
今の彼にとっては、その微細な手応えだけで十分だった。
作品が完成したとき、世界に提示されるのは最後に残された「結果の一線」だけだ。
そこに至るまでに、作者が何回描き直しを選択したのか。どれほど不毛な時間を過ごし、どれほど多くのレイヤーをデータの海の底に葬り去ってきたのか。そんなプロセスの泥臭さを、読者は知る由もないし、知る必要もない。
しかし、その消えていった無数の「無駄な時間」がなければ、最後に残るその一本の美しい線は、決してこの世界に産声を上げることはできなかったのだ。
レイはモニターを見つめ、口元に微かな笑みを浮かべた。画面の中の骨組みは、先ほどよりも確実に、彼の理想とする形へと近づきつつあった。まだまだゴールは遠い。しかし、進むべき方位磁針は、今度こそ正しい方角を指している。彼は満足したように小さく息を吐くと、液晶ペンを強く握り直し、現在という名の迷宮のさらに奥へと、再び歩みを進めていった。




