【夏コミ番外編】じゃがいも社会のコミケ
夏コミ当日。
午前九時二十分、東京ビッグサイト。
視界の端から端までを埋め尽くしているのは、例外なく、人、人、人――。どこを見渡しても、人間の肉体が織り成す濁流しかなかった。熱気と拍動がコンクリートの巨大な空間に反響し、じっとりとした湿気が肌にまとわりつく。
「YLS Studio」の配置されたスペースの背後にも、城壁のように大量の段ボール箱が積み上げられていた。新刊、既刊、無配のペーパー、壁に掲げられた大判のポスター、そして乱雑に貼られたお品書きのペラ紙。その混沌の中心で、橘レイは完全に石化していた。
彼の目の前には、すでに一本の巨大な大蛇のような列が形成されていた。いや、長すぎる。最後尾のプラカードを持つスタッフの姿など、遥か彼方の人の波に飲み込まれて視認することすら叶わない。
「……」
レイは錆びついた歯車を回すように、ゆっくりと背後を振り返った。
「ひよりちゃん」
「はい」
「人が多い」
「そうですね」
「……もの凄く、多い」
「そうですね」
「なんで?」
「コミケだからです」
ぐうの音も出ない正論だった。しかし、今のレイが求めているのはそんな辞書的な回答ではない。彼は再び、目の前の圧倒的な群衆へと視線を戻した。本当に人が多すぎる。
新刊のサンプルを熱心に手に取っている者、掲げられたポスターを食い入るように見つめている者、整然と列をなして自分たちの順番を待っている者。そして――その狂気的な行列の中ほどに、見覚えのある端正な横顔が混ざっていた。一ノ瀬直哉だ。彼は身内であるはずなのに、何の特権も使わず、ただの一人のファンとして律儀に最後尾から並んでいたのだ。
「直哉まで並んでる……」
「当然です。彼は私たちの『読者代表』なんですから」
蘭華ひよりは腕を組み、不敵な笑みを浮かべた。彼女は交互に列とレイの顔を見比べ、値踏みするように視線を往復させる。
「大丈夫ですよ、レイさん」
「何が?」
「落ち着いてください」
「無理に決まってるだろ」
「安心してください」
ひよりの表情は、不気味なほどに真剣だった。
「彼らは人間じゃありません。ただの、意思を持って二足歩行する『じゃがいも』です」
スタジオのブースに、一瞬の冷ややかな沈黙が落ちた。
「……え?」
「よく見てください。あれはただの畑の作物です」
「お前、何言ってるんだよ」
「じゃがいもです」
「人だよ、どう見ても」
「じゃがいもですってば」
「人間だろ」
「じゃがいも」
「人」
「じゃがいも」
「人!」
「じゃがいも」
「人!!」
「じゃがいもです」
ひよりは一歩も引かなかった。その眼光には、謎の絶対的な哲学が宿っている。
「いいですか、レイさん。物を作るクリエイターが『ジャガイモの戦士』を創り出す存在なら、それを受け取る読者だって等しくじゃがいもなんです。これが世界の真理です」
「どういうディストピアだよ、それ」
「『じゃがいも社会』です。平和そうでいいじゃないですか」
一ミリも理解できなかった。しかし、レイがもう一度だけ恐る恐る列に目を向けると、そこにはやはり、それぞれの意思を持った生身の人間たちが立っていた。普通に人間であり、熱量を持った、愛おしい読者たちの群れだった。
「ひよりちゃん」
「はい」
「嘘つき」
「えへへ」
「笑ってごまかすな」
「じゃがいもです」
「嘘つき」
「じゃがいも」
「嘘つき……!」
「じゃがいもですってば」
不毛な押し問答の末、レイは頭を抱えて呻いた。
「ひよりちゃんの嘘つきぃぃぃ!!」
・
・
・
イベント終了の鐘が鳴り響いたのは、午後十六時のことだった。
あれほど世界を埋め尽くしていた人の波は嘘のように引き始め、ビッグサイトの床には祭りのあとの静寂が広がりつつある。
レイが疲れ切った身体を休めながら机の上を見つめると、そこには何も残っていなかった。新刊、完売。既刊、完売。あの大質量の段ボールの山はすべて姿を消し、今はただ空っぽの茶色い箱だけが、骸のように転がっている。
列に並び終え、いつの間にか売り子を手伝っていた直哉が、重い段ボールを片付けながら声をかけてきた。
「お疲れ様、レイ。大成功だね」
「ああ……ありがとう」
レイは小さく頭を下げた。全身の筋肉が悲鳴を上げていたが、胸の奥には、今までに味わったことのない、ささやかで確かな熱が灯っていた。
その時、ブースの床に直接座り込んでいたひよりが、満足そうに天井を見上げながら呟いた。
「いやー、今日は本当に『大豊作』でしたね」
「何がだよ」
レイが尋ねると、ひよりは空になった長机を愛おしそうに見つめ、それから不敵に微笑んだ。
「じゃがいもの大収穫祭です。私たちの育てた作物が、すべて出荷されていきました。文字通りの『大漁』じゃじゃん」
「……俺たちは農家でも漁師でもないんだが」
ひよりがケラケラと笑い、それにつられて直哉もまた、穏やかな笑い声を上げた。レイだけが一人、沈黙を守ったまま、木目の剥き出しになった空っぽの机を見つめていた。
朝早くから自分たちの本を求めて並んでくれた、名もなき人々の顔が脳裏をよぎる。新刊を大切そうに胸に抱えて帰っていった者。嬉しそうに声をかけてくれた者。極度の緊張で震えていた者。何も言わず、ただ会釈だけを残して去っていった者。そして――最後尾のプラカードの横で、静かに自分の順番を待っていた一人の友人。
「……」
もしかしたら。本当に、ほんの少しだけ、あの不条理な少女の言う通りだったのかもしれない。
レイは足元に転がる空の段ボール箱を見つめ、誰にも聞こえないほどの小さな声で、胸の内でだけ呟いた。
(……ただの、じゃがいもだったのかもしれないな)
そのあまりにも馬鹿げた思考に、自分自身で小さく吹き出してしまった。
夕暮れの陽射しが射し込む夏コミの会場には、まだ遠くで、祭りの終わりを告げる片付けのノイズだけが、心地よく響き続けていた。




