第54話 「筆癖」
誰しも、無意識のうちに繰り返してしまう固有の習癖を持っている。
文字の書き方。歩幅の取り方。言葉の端々に現れる独特のイントネーション。建造物のように積み上げられた日々のルーティン。そして当然ながら、何かを生み出す時の「手の動かし方」にも、それは色濃く反映される。
往々にして、それを執り行っている張本人はその事実に全く無自覚なものだ。しかし、ひとつの行為を何年も、何十年も積み重ねていくうちに、そこには決して消し去ることのできない固有の痕跡が刻まれていく。
それは洗練された技術の優劣ではない。表現の美醜でもない。もっと手触りが曖昧で、極めて私的な、論理による説明を拒むナニカだった。
その日の午後、橘レイは珍しく平穏な時間を過ごしていた。
彼は液晶タブレットに向かい、黙々とペンを走らせている。ローカルストレージの奥深くを彷徨うこともなければ、不条理なフォルダ階層に遭難することもない。数日ぶりに訪れた、スタジオ本来のあるべき平穏。
デスクの横に座っていた一ノ瀬直哉は、時折レイのモニターを眺めながら自分の作業を進めていたが、ある瞬間、ふと不審そうに首を傾げた。
「レイさん」
「ん?」
「そのキャラクターの目、やっぱり似てるね」
レイを動かしていた右手が、液晶の上でピタリと硬直した。
「……似てる?」
「ああ」
直哉がモニターの一角を指差す。そこには、レイがたった今描き進めている最中のキャラクターの顔があった。正式な発注書に紐づいた、現在の進行中の原稿。そしてそのすぐ隣のウィンドウには、別プロジェクトの参考資料として開かれている過去のイラストデータ。
まったく別の作品。まったく違う世界観。登場人物のバックグラウンドも、文脈も何もかもが異なっているはずだった。
それなのに――そこに描かれた二人の瞳の奥には、どういうわけか、共通する奇妙な「湿度」のようなものが宿っていた。
レイは言われて初めて、二つの画面をじっと見比べた。少しの間、沈黙が流れる。
「……言われてみれば、そうかもな」
否定はできなかった。自覚的に同じ描き方をしようとした意図は毛頭ない。むしろ、今回はいつもと違うアプローチを試み、意識的にこれまでのパターンを崩そうとすらしていたのだ。商業的な流行を考慮し、別の骨組みを構築したつもりだった。
それなのに、無意識のうちに引かれた線の収束点は、結果としてかつての自分と同じ輪郭をなぞってしまっている。どれほど遠くへ逃げたつもりでも、最後に残る空気感は恐ろしいほど酷似していた。自分自身の手が、頭脳の計算を裏切って「いつもの場所」へ帰還してしまうのだ。
直哉はにわかに興味をそそられたらしく、レイの許可を得ていくつかの古いフォルダを展開し始めた。
一年前のデータ、二年前の完成原稿、正式な商用解像度で書き出されたものから、さらに昔の拙い落書きたち。それらのウィンドウを液晶画面の上にパズルのように並べ、比較検証していく。
「ほら、やっぱりここにある」
「……だな」
「どんなに技術が変わっても、この部分だけは頑固に生き残ってる」
「そうだね。生存戦略としてはひどく不器用だけど」
レイの口元から、小さな、自嘲の混ざった笑みが漏れた。
奇妙な感覚だった。ここ数年の間に、彼の画力はプロとして通用するレベルにまで跳ね上がったはずだ。ツールの使い方も変わり、色の乗せ方も洗練され、引き出しの数も圧倒的に増えた。
それなのに、何一つ失われずにそこに居座り続けている「何か」がある。それは線の引き方の癖なのか、瞳のハイライトの入れ方なのか、あるいはもっと抽象的な、彼という人間の輪郭そのものなのか。レイ自身にもその正体は分からなかった。しかし、それが確かにそこにあるという事実だけは、網膜を通じて残酷なほど明確に突きつけられていた。
「DNAですね」
背後から、重苦しい毛布の擦れる音と共に、いつもの声が割り込んできた。
二人が振り返ると、そこには案の定、ソファの上で上身を起こした蘭華ひよりがいた。そして驚くべきことに――今日の彼女の眼光は、ここ最近の居眠りモードが嘘のように、はっきりと冴え渡っていた。完全な覚醒状態。スタジオにおいては、流星群を観測するよりも稀有な現象だった。
「絵にDNAなんてあるのかい?」
直哉が尋ねる。
「ありますよ、当然。むしろ絵にこそ濃密に遺伝します」
「科学的な根拠はゼロっぽそうだけど」
直哉の現実的なツッコミを、ひよりは一瞥の元に切り捨てた。
「要するに、その作品を形作っている『本質的な成分』のことですよ。どれほど化粧をして、服を着替えて、別人のフリをしても、骨格そのものは変えられないじゃん」
ひよりはそう言うと、我が意を得たりとばかりに深く頷いた。
その乱暴な説明には、しかし、彼らの胸の奥をそっと揺さぶるような、奇妙な説得力があった。
実際、私たちは特定の作家の絵を見る時、まだその隅に書かれたサインを目にする前であっても、「あ、これはあの人の絵だ」と直感的に理解してしまう瞬間がある。色彩が違っても、構図が違っても、全く新しい作風に挑戦していても、画面全体から立ち上る固有の「匂い」のようなものが、雄弁に作者の身元を明かしてしまうのだ。言語化はできない。客観的な証拠もない。それでも、確かに伝わってくる固有の気配。
レイは開かれていた古いウィンドウをひとつずつ閉じていった。液晶の上から過去の残骸が消え去り、再び現在進行中のキャラクターだけが残される。
彼は自分がかつてよりも遥かに洗練された場所に立っていることを知っていた。昔の自分を悩ませていた技術的な限界の多くは、今やボタン一つ、あるいは一振りのブラシで解決できる。考えるべき課題の次元も、当時よりずっと高くなっているはずだ。
それでも――どれほど進もうとも、己の「筆癖」だけは、影のように彼の背後にへばりつき、共に歩み続けている。それは消し去るべき悪癖ではなく、むしろ消し去ろうとしても消えない、創作者としての最後のアイデンティティそのものなのかもしれない。
レイは再び液晶ペンを握り直し、モニターに向き直った。
一年前の自分も、今日の自分も、連綿と続いていく締め切りの先にある数年後の自分も、キャンバスの前に立てば、やっぱり同じような線の迷いを抱え、同じような瞳の湿度を描き込んでしまうのだろう。それは不自由であると同時に、どこかひどく安心できる、創作者の「業」のようなものだった。
彼は満足したように小さく息を吐くと、液晶の上へ、現在の自分が引くべき新しい一線を力強く滑らせた。窓の外では、初夏の柔らかな陽射しが、スタジオの白い壁に穏やかな影の模様を描き出していた。




