第53話 「階層」
始まりの瞬間、すべてのフォルダは例外なく美しく整えられている。
少なくとも、それを作り出した本人の脳内においては、完璧な秩序が保たれているはずなのだ。機能ごとに厳密に分類され、誰が見ても一目で理解できる名前が冠される。必要なファイルがいつでも、一瞬の迷いもなく発掘できるシステム。概念として見るならば、それは非の打ち所がない理想郷だった。
問題はただ一つ。通常、その美しき統制が維持されるのは、長く見積もっても「三日間」が限界だという不都合な真実だった。
「……また、増えたね」
ある日の夕暮れ、一ノ瀬直哉が液晶モニターの端を指差しながら、なかば呆れたように呟いた。
「何が?」
「フォルダ」
橘レイはペンを握ったまま、促されるように視線を走らせた。確かにそこには、昨日までは存在していなかったはずの新しいアイコンが居座っていた。あるいは、正確に言うならば――「昨日、自分で作ったはず」のフォルダだった。作成した記憶はうっすらと残っているが、それを生み出さざるを得なかった切実な動機の方は、すでに梅雨の湿気に溶けるようにして曖昧になり始めている。
「必要だったんだよ、その時は」
レイは視線をネーム用紙に戻しながら、ぶっきらぼうに言い訳した。
「実にもどかしいね」
「もどかしくない。必要な措置だ」
いつもの、反復される不毛なキャッチボール。しかし、最近の直哉はこの無駄なラリーを楽しむ余裕すら見せ始めていた。
モニターのウィンドウには、すでに正気の沙汰とは思えない数のフォルダが、グラデーションのように並んでいる。プロジェクト名、作品タイトル、日付の羅列。そして、最も性質の悪い『一時保管』『一時保管_2』『一時保管_3』という、思考放棄のモザイク画。その中には、あまりにも長い年月をその場所で生き延びたせいで、もはや「一時」という形容詞が完全に剥落してしまっているものも散見された。
「あれ、もう一時的な避難所じゃないよね」
直哉が苦笑する。
「ああ」
「完全に定住権を獲得して、住民票まで移してるレベルだよ」
「……否定はしない」
レイは小さくため息を吐き出した。フォルダという名の仮設住宅は、往々にしてそのまま永久の墓標へと変わる。クリエイターという生き物は、自分たちが思っている以上に怠惰で、そして何より「今この瞬間の締切」以外のすべてに対して盲目になるものだった。
「整理しようっていう気概は、一ミリもないのかい?」
「気概はある」
「行動が伴っていないだけで?」
「……イエス」
ノータイムでの即答。直哉は堪えきれずに小さく吹き出した。彼はレイの、この手の「建設的な開き直り」が嫌いではなかった。
フォルダを綺麗に整頓すべきだということくらい、レイだって百も承知だった。しかし、データの仕分けに費やすエネルギーは、漫画を描くためのエネルギーとは全く別の脳細胞を酷使する。そして何より、最悪なのは――いざ整理を始めようとエクスプローラーを開いた瞬間、必ず「過去の亡霊」たちが向こうからやってくることだった。
古いラフスケッチ、数年前のPSD、かつての自分の未熟な筆跡。
そんな地雷をひとつでも踏んでしまえば、レイの手はピタリと止まる。そして何気なくファイルを開き、懐かしさと胃の痛みに苛まれながら中身を眺め、気づけば数時間がデータの海の底へと溶けていく。結果として、整理整頓のプロジェクトは永久に最初の一歩すら踏み出せない。およそ生産性とは程遠い、不毛な輪廻転生だった。
「これは、ダンジョンですね」
背後から、擦れた声が静寂を破った。
振り返るまでもない。蘭華ひよりだ。六月も終わりに近づき、東京の街は梅雨特有のじっとりとした熱気に包まれているというのに、彼女は相変わらずソファの上で分厚い毛布の塊に包まれていた。
「また始まったよ」
直哉が額を押さえる。
「よく見てください、ナオさん」ひよりは毛布の隙間から白い指先を突き出し、モニターを指し示した。「ここにエントランス(マイコンピュータ)があります」
「あるね」
「進むと、プロジェクト別という名の分岐路が現れます」
「現れるね」
「さらに奥へ潜ると、日付の並ぶ階層構造に突入します」
「……突入するね」
「完全にダンジョンじゃじゃん」
論理の飛躍はいつものことだったが、今回の指摘には、奇妙な説得力があった。エクスプローラーの階層構造を彷徨う感覚は、確かに暗闇の迷宮を探索する手触りに酷く似ている。フォルダを開き、中へ進み、さらにその奥の下層へと潜る。そして、それだけの苦労を重ねた結果――探している本命のファイルはどこにも見つからない。
目的のない放浪。それは探索と呼ぶにはあまりにも不条理な、ただの遭難だった。
「しかも、要所要所には中ボスが配置されてるんですよ」
ひよりが寝転んだまま、誇らしげに言葉を続ける。
「ボス?」
「昔のPSDファイルです」
レイは少しだけ動きを止め、それから小さく頷いた。
「……それは、一理あるな」
遭遇確率は異様に高い。そして一度エンカウントしてしまえば、現在の進行中のお仕事は強制的にフリーズさせられる。その作業効率に対する破壊力と、精神的な胃の痛みをもたらすという意味において、それは紛れもなく、悪質な中ボスそのものだった。
「じゃあ、最深部にあるレアアイテムは何なんだい?」
直哉が面白がってゲームのルールに乗っかる。
「今、血眼になって探してる背景資料です」
「ああ」
それには全員が深く納得した。苦難の果てに、目的のデータを引き当てた瞬間のあの歪んだ達成感。もっとも、その最深部に辿り着くまでに、彼らは十個以上の「どうでもいい過去の落書き」を発掘し、自分が一体何を探しにダンジョンへ潜ったのか、その初期目的を完全に忘却しかけているのが常なのだが。
レイは昨日の不毛な立ち回りを思い出していた。資料を探すためにフォルダを開き、古いPSDを見つけ、そのレイヤーを一枚ずつ眺めて時間を溶かした。あと一歩で、自分が背景のパースに悩んでいたことすら忘れるところだった。
「考えてみればさ……」直哉が自嘲気味な笑みを浮かべる。「レイさんって、実際に漫画を描いている時間よりも、フォルダの中で迷子になってる時間の方が長いんじゃない?」
レイは少しの間、沈黙し、それから極めて厳粛な面持ちで答えた。
「……否定はできない」
直哉が笑い、毛布の中のひよりもうふふと不気味に笑った。レイ自身も、自嘲の混ざった薄い笑みを口元に浮かべるしかなかった。それが、このスタジオにおける、動かしようのない現実だったからだ。
フォルダは増える。データは増殖する。
この部屋で誰かが何かを作り続けている限り、その新陳代謝が止まることは絶対にない。整理整頓を試みても増え、消去のボタンを押しても別の場所で新しい細胞が分裂する。無意識のうちに、必ず新しい『一時保管』が生成されるのだ。それはまるで、意思を持たないデジタルな生き物のようだった。
レイはエクスプローラーを開き、現在のプロジェクトの階層で、右クリックから「新規フォルダ」を選択した。液晶画面の片隅で、黄色いアイコンが誕生し、名前の入力を促すカーソルがチカチカと明滅を始める。
彼は3秒ほど、虚空を見つめて思考を巡らせた。
そして、キーボードを叩く。
『new』
直哉が何かを言いたげに口を開き、ひよりは諦めたように天井を見つめた。
しかし、誰もその指を止めようとはしなかった。なぜなら、彼らは知っていたからだ。すべてはもう、手遅れなのだということを。
新しい迷宮の種が、今、静かに地層の最表層に植え付けられた。レイは満足したようにエンターキーを叩くと、再び、終わりの見えない現在の原稿へと向かっていった。




