第52話 「格納」
何かを保存したはずなのに、その場所を完全に忘れてしまう瞬間がある。
あるいは、正確に言うならば――保存したその刹那には、確かに記憶していたのだ。
しかし、数日というささやかな時間が経過しただけで、その記憶はまるで最初から存在しなかったかのように、脳裏から綺麗さっぱり消え失せてしまう。
創作の年月が長くなればなるほど、人間の手元には無数のフォルダが増殖していく。蓄積されるデータの総量は跳ね上がり、気づけば、目的のファイルを開くための時間よりも、それを「探すための時間」の方が遥かに長くなっている、という本末転倒な事態が日常化するのだ。
その日の午後も、橘レイは液晶モニターの前で不毛な探索を繰り返していた。
「……またかい?」
デスクの対面から、一ノ瀬直哉の呆れたような声が響く。もはや彼のトーンには、驚きの欠片すら混ざっていなかった。ここ最近の「YLS Studio」において、レイがフォルダの奥深くを彷徨っている姿は、完全にありふれた日常の一部と化していた。むしろ、彼が脇目も振らずに現在の原稿に没頭している姿の方が、今のスタジオにおいては絶滅危惧種並みに珍しい光景だった。
「まただ」
レイはモニターの輝光から一切の視線を外さずに、短く吐き捨てた。
「今度は何を探しているんだい?」
「PSD」
「昨日もPSDを探してただろ」
「違う。中身が別物だ」
レイにとっては天と地ほどの重大な差異のようだったが、創作者ではない直哉からすれば、拡張子が同じである以上、それはすべて一括りの「データ」に過ぎなかった。
ひとつのフォルダがダブルクリックで開かれ、数秒後に閉じられる。
別のフォルダが開かれ、そのさらに奥にある階層へと潜り込んでいく。
傍から見ている直哉には、レイが明確な目的地に向かって進んでいるのか、それともただデータの迷宮で遭難しかけているだけなのか、皆目見当がつかなかった。
「システム検索は試したのかい?」
「試した」
「引っかからなかった?」
「ゼロだ」
ローカルの検索インデックスが役に立たず、人間の記憶も曖昧であるならば、それは事実上の詰みを意味していた。直哉は少しだけ思考を巡らせ、根本的な問いを投げかける。
「保存した時期は覚えているんだろ?」
「ああ、先月の終わり頃だ」
「だったら、保存した場所は?」
「……それを忘れたから、こうして血眼になってるんだろ」
「実にもどかしいね」
レイは小さく、しかし深く頷いた。本当にその通りだった。
当時、自分が何の作画をしていたのかは覚えている。描いたキャラクターの構図も、レイヤーの構成も覚えている。なんなら、そのファイルを保存した瞬間の、締切直前のじっとりとした嫌な汗の感覚まで生々しく思い出せるのだ。
それなのに――ただ「どこに格納したか」という物理的なアドレスだけが、脳内から綺麗に剥落している。人間の記憶の構造とは、実に気まぐれで、肝心な時に機能しない欠陥品だった。
その時だった。
「格納場所って、大事ですよね」
部屋の対角線上、ソファの方向から掠れた声が割り込んできた。
二人が振り返ると、そこには案の定、蘭華ひよりが横たわっていた。いつも通り毛布の塊に包まれ、天井をぼんやりと見つめている。
「起きてたのか」
直哉が尋ねる。
「生存率、約六十パーセントです」
「昨日より高めだね。何か良いことでもあったのかい?」
「夢の中で、美味しいオムライスを食べました」
相変わらずの、どうでもいい報告だった。
「格納場所っていうのは、言ってみれば『住所』なんですよ」ひよりは寝返りを打ち、こちらに顔を向けた。「作品にとっての、帰るべきお家です」
直哉は数秒間、その言葉の意味を咀嚼した。本来なら、彼女の言葉にいちいち真面目に付き合う必要はないのだが。
「で、今のレイさんはその住所を忘れちゃったわけだ」
「そうです」ひよりは不敵な笑みを浮かべ、液晶モニターの前に座る男を指差した。「だから、迷子になってるんですよ」
「PSDファイルが?」
「いいえ」ひよりは首を横に振った。「迷子になってるのは、レイさんの方です」
レイは反論しなかった。というよりも、その指摘が妙に核心を突いているような気がして、言葉を失ってしまったのだ。
迷宮の中で迷っているのは、静かにストレージの底に眠っているデータではない。それを必死に追い求め、フォルダの闇をあてどなく彷徨っている自分自身の意識の方なのだ。主客の逆転。状況を俯瞰してみれば、確かに滑稽な話だった。
「それにしても……」
直哉が再び、レイのモニターに並ぶ大量のフォルダアイコンを見つめた。
「本当に、数だけは狂気を感じるほど多いね」
実際、異常な量だった。プロジェクト別のフォルダ、年号別のフォルダ、用途別に細分化されたフォルダ。さらには『backup』『backup_2』『backupのコピーのバックアップ』といった、恐怖の増殖形。
一体、当時の自分がどんな精神状態でこれらを作ったのか、今のレイには想像もつかなかった。
「放っておけば、勝手に増えるんだよ」
レイが言い訳のように呟く。
「何が?」
「データっていうのはさ」
理屈はシンプルだった。一枚の絵が完成すれば、新しいファイルがひとつ増える。ひとつの新しい仕事が始まれば、新しいフォルダがひとつ生成される。この世界で筆を握り続けている限り、その総量が減少に転じることは絶対にない。
自ら消去のボタンを押さない限り、過去のすべての残骸はそこに留まり続ける。そして留まり続けるからこそ、複利のように増え続けていく。避けることのできない、創作者の業のようなものだった。
それらのフォルダの底には、数日前に見つけた古いPSDが眠り、十一ヶ月前の拙いラフスケッチが横たわり、一度も使われることのなかったアイデアの死体が転がっている。それらが年輪のように積み重なり、レイという人間の過去を形成していた。
「もう、半分くらい『遺跡』になりかけてますね」
ひよりがソファの上で呟く。
直哉が小さく吹き出した。
「また考古学の話かい?」
「いいえ」ひよりは神妙に首を振った。「まだ若すぎます」
「一体、何年経てば本物の遺跡になるんだよ」レイが尋ねる。
「あと百年くらいですかね。デジタル文化財として教科書に載りますよ」
百年後の未来。その頃には、自分たちもこのPSDファイルも、等しく塵になっているだろう。少なくとも現時点において、これらは単なる「片付けの進んでいない乱雑なデータ」でしかなかった。
レイは最後にもう一度だけ、検索ウィンドウにファイル名の一部を打ち込んでみた。
『結果なし』
やはり、ゼロだった。諦めてエクスプローラーのウィンドウを閉じようとした、まさにその刹那だった。
「――お」
レイの口から、小さく短い声が漏れた。
直哉が身を乗り出す。
「見つかったかい?」
レイは無言で頷き、マウスをカチリとクリックした。
「あった」
「どこに格納されてたんだ?」
「……全く関係ない、別プロジェクトのフォルダの底」
「どうしてそんなところに?」
「さあな。当時の俺の手が滑ったんだろ」
直哉が堪えきれずに笑い声を上げた。
結局のところ、いつも最後はこんな風に不条理な結末を迎えるのだ。レイが論理的な思考によってファイルを探し当てたわけではない。ただ、迷宮を彷徨っていた意識が、偶然にもそのデータの存在確率と交差しただけ。まるで、ファイルの方から「ここにいるよ」と不意に姿を現したかのような、奇妙な邂逅だった。
レイは発掘されたPSDファイルをダブルクリックして開いた。
数秒の後、液晶画面に開かれたのは、紛れもなく彼が先ほどから探し求めていた目的のデータだった。中身のレイヤー構成が無事であることを確認し、彼は小さく、安堵のため息を吐き出す。
格納場所を忘れ、探すために少なからぬ時間を浪費してしまった。しかし、最終的にはこうして手元に戻ってきた。
色々と不手際や無駄はあったけれど――少なくとも今日のところは、それだけで十分に、悪くない結末だった。レイは再び液晶ペンを握り直し、見つかったデータの上へ、現在という名の新しい線を上書きし始めた。窓の外では、夕暮れの穏やかな光が、スタジオの乱雑なデスクの輪郭を優しく縁取っていた。




