第51話 「初発」
自分が初めて自らの作品を世に送り出した日のことを、克明に記憶している人間はそう多くない。
あるいは、正確に言うならば――覚えている部分と、とうに失われてしまった部分が、いびつな形で混在しているのだ。
何を投稿したのかは覚えているが、その瞬間に自分がどんな感情を抱いていたのかを忘れてしまった者。逆に、作品の具体的な中身は霧の向こうへ消え去ってしまったのに、公開ボタンを押す直前のあの数秒間の戦慄だけは、今も鮮烈に肌が覚えている者。
橘レイは、完全に後者の人間だった。
「……最初の投稿?」
ある日の夕暮れ、一ノ瀬直哉がデスクでの作業を止め、不思議そうに顔を上げた。
「ああ」
きっかけは、やはりただの偶然だった。カオスと化した過去のストレージを整理している最中、レイは自分が初めてネット上に漫画を公開した当時の「準備データ」を発見したのだ。原稿そのものではない。公開用のアカウントを作成した形跡や、画像を出力する際の設定メモ、初期のアップロード用フォルダといった、いわば舞台裏の残骸だった。
「覚えてるもんなの?」
「……少しだけな」
レイは液晶モニターを見つめたまま、短く応じた。
肝心の漫画の中身は、今のプロの視点で見れば目も当てられない代物だ。構成は稚拙で、コマ割りも強引、デッサンの狂いも無数に見つかる。当時の自分なりに全身全霊を傾けて描いたはずなのに、今となっては気恥ずかしさしか湧いてこない。
しかし、奇妙なことに――その作品が「世界に向けて放たれた日」の空気感だけは、防腐処理でも施されたかのように、当時の温度のまま脳裏に残っていた。
「緊張した?」
「したよ」
「だろうね」
「胃がひっくり返るかと思った」
思考を挟むことなく、本音が言葉となって零れ落ちた。
プロとして締切に追われる今でこそ、ボタン一つでデータを納品することに妙な慣れを感じてはいるが、あの「一回目」は全くの別次元だった。ただのマウスの左クリック。指先に必要な力は数グラムに過ぎない。それなのに、その指が何度も途中で硬直した。
セリフのテキストを何度も見返し、致命的な誤字脱字がないか血眼になって探し、すでに十回以上チェックしたはずの構成を、念のためにともう一度読み返す。そして、さらにその後にまた同じ作業を繰り返す。
今思えば、そんなことをしたところで、差し迫った何かが変わるわけでもなかった。そして結局、彼は半ば自暴自棄のような心地でボタンを押したのだ。
客観的に見れば、世界にとっては一粒の砂が海に落ちたほどの出来事であり、誰もその投稿に過剰な期待など抱いていなかった。しかし、当時のレイにとっては、世界そのものの形が変わってしまうほどの、巨大な決断だった。
「最初から、誰かが読んでくれるっていう確信はあったの?」
直哉が、背もたれに体重を預けながら尋ねた。
レイは少しだけ視線を泳がせ、それから小さく首を横に振った。
「いや。というか、そんなことまで頭が回っていなかった気がする。ただ、投稿するという行為そのものに必死だった」
「じゃあ、なんで公開したんだよ」
「さあな。自分でもよく分からない」
「本当に便利な回答だね」
「便利じゃない。嘘偽りのない事実だ」
いつもの、判で押したような不毛なキャッチボール。しかし今回ばかりは、レイはそこで言葉を途切れさせず、少しだけ続きを口にした。
「でも……」
視線をモニターの古いデータへと戻す。
そこには、いくつかの候補に挙がったものの結局不採用になったタイトル案や、画質テスト用のサムネイル、結局使い道のなかった作品説明文のテキストが並んでいる。今の橘レイにとっては、一文の価値もないゴミデータだ。
「ただ、外に出したかったんだと思う」
それが、彼の胸中にある最も近い答えだった。
自分が作り上げた何かを、自分だけの閉じられた世界から引き剥がし、外の空気に触れさせたかった。あるいは、ただその作品を「自分から解放してやりたかった」のかもしれない。たとえそこに、誰の目も、誰の評価も存在しなかったとしても。
動機はどこまでも曖昧だった。しかし、その曖昧な衝動の結果だけが、今の彼を形作っている。
「なるほど。それは創作者の、きわめて純粋な初期衝動というやつだね」
直哉が、静かに納得したように頷いた。
その時だった。
「最初の投稿の話をしてるんですか?」
部屋の対角線上、ソファの毛布の塊から、いつものくぐもった声が割り込んできた。
二人が振り返ると、そこにはやはり、蘭華ひよりが横たわったまま天井を見つめていた。
「……お前、起きてたのか」
「皆さんの会話の、だいたい三割くらいを脳内にインストールしてました」
「インストールって言うな。要するに居眠りしながら盗み聞きしてただけだろ」
「人聞きが悪いですね。これはアクティブ・スリープという高等技術です」
相変わらずの、根拠のない自信に満ちたドヤ声。ひよりは上身を起こすこともせず、寝転んだままの姿勢で言葉を続けた。
「でも、最初の投稿って、考えてみれば不思議ですよね」
「何が?」と直哉が尋ねる。
「だって、最初はそこ、誰もいないじゃないですか」
直哉は、その一言に小さく息を呑んだ。
確かにその通りだった。プロとなった今でこそ、作品の更新を待つ読者がいて、コメント欄が賑わい、評価の数字が可視化される。しかし、最初の最初の瞬間――誰もが何者でもなかったあのスタートラインにおいて、インターネットの荒野には一人の読者も待ち受けてはいない。評価も、批判も、いいねの数字も、そこには存在しない。あるのは、自分が作り出した作品という、たった一粒の結晶だけだ。
「誰もいないのに、それでもボタンを押した。それって、よく考えると正気の沙汰じゃないですよね」
ひよりはそう言うと、満足したように毛布の端を少しだけ引き上げた。
珍しく真っ当な、しかし創作者の本質を突いた指摘だった。
レイは無言で、小さく頷いた。
読まれるかどうかも分からない。何らかのリアクションがあるかどうかも保証されていない。そもそも、世界が自分に一瞥をくれるかどうかすら不確実な、完璧なゼロの空間。
それでも、当時の自分は確かにボタンを押したのだ。動機なんて、複雑な論理で飾る必要はなかった。ただ、そうしたかったから。その単純で愚直な一歩がなければ、今の「YLS Studio」も、プロとしての橘レイも、この世のどこにも存在し得なかった。
レイは静かにマウスを動かし、古いフォルダを閉じた。
舞台裏の残骸たちは一瞬で画面から消え去り、いつもの、見慣れた現在のネーム用紙が液晶に広がる。
しかし、あの瞬間に彼の指先を支配していた、胃がひっくり返るような戦慄と高揚感は、自分が思っていたよりも遥かに鮮明に、今の彼の血肉となって息づいていた。
誰もいない、完璧な空白の荒野に、初めて自分の旗を立てたあの日。
今思えば――あれこそが、すべての始まりの光景だったのだ。レイは静かに液晶ペンを握り直し、現在という荒野に、新しい一本の線を堂々と引き始めた。
何かを新しく始める時、私たちはいつも「その先に何があるか」を計算しようとしてしまいます。特に大人になってからの創作や表現活動は、どうしても打率や効率、あるいは他人の視線といったノイズが頭をよぎり、マウスを持つ指先を鈍らせがちです。
今回のエピソードを描きながら、私自身もかつて初めて自分の作品をインターネットの海に放り込んだ、あの胃が痛くなるような夜のことを思い出していました。誰も待っていない、誰も自分の存在すら知らない、完璧なゼロの荒野。そこに最初の一歩を踏み出す行為は、客観的に見れば無謀で、少しだけ正気の手触りを欠いているのかもしれません。
けれど、あの時、損得も計算も抜きにして「ただ外に出したい」と願った愚直な衝動こそが、すべての原点でした。何者でもなかった私たちが、最初に自分の旗を立てたあの日――。
――ここから、僕たちのすべてが始まったのだ。
今、何かの途上で迷っている方や、古いフォルダの奥に置いてきた熱量を思い出しそうになっている方に、この橘レイたちの小さな考古学の旅が、ほんの少しの風を送り届けることができたなら幸いです。




