第50話 「素描」
一本の落書きには、奇妙なまでの自由が潜んでいる。
完成させる義務はない。誰の目に触れさせる必要もない。最初から、何らかの基準で評価されることを想定すらしていない。だからこそ、人間の本質的な筆跡や、その瞬間の剥き出しの自己というものは、往々にしてそういう無価値なキャンバスの上にこそ、色濃く遺されてしまうものだった。
その日の午後の「YLS Studio」は、穏やかな静寂に包まれていた。
一ノ瀬直哉はデスクで私物のノートPCに向かってキーボードを叩き、橘レイもまた液晶タブレットの前で作業に没頭している。蘭華ひよりはソファの上で毛布の塊と化して眠りについていた。いつも通りの、見慣れたスタジオの風景。
ただ、いつもと少しだけ違う点があるとすれば――ここしばらく、レイの手元が完全に硬直していることだった。
「……手が止まってるよ、レイ」
直哉がキーボードを叩く音を響かせながら、画面から目を離さずに言った。
「止まってない」
「この五分間、君のモニターのレイヤー構成が一ミリも動いていないんだけどね」
「考えてるんだよ」
ここ最近、このスタジオで最も頻繁に飛び交う、手垢のついた言い訳だった。直哉はそれ以上、言葉を重ねようとはしなかった。本当に脳内でプロットを組み立てている最中なのか、あるいは自分自身でも何を考えているのか見失っているだけなのか、創作者ではない直哉には判別がつかない。そして、おそらくレイ本人にとっても、その境界線は霧のように曖昧なのだ。
レイは小さくため息を吐き出すと、液晶ペンをデスクに置いた。現在進行中の商業用の原稿ファイルを閉じ、代わりにデスクトップのショートカットから、まっさらな新規キャンバスを立ち上げる。
「休憩かい?」
「……まあな」
「本当に便利な言葉だね、それ」
「便利じゃない。ただの現実逃避だ」
自嘲気味な応酬。それすらも、彼らにとっては一種のルーティンと化していた。
モニターに広がった、眩いばかりの白い空白。そこには明確なゴールも、クライアントからの指示書も、締め切りのタイマーも存在しない。何を描くべきかという設計図すら持たないまま、レイは無造作にペンの先端を液晶へと滑らせた。
円。緩やかな曲線。顔の輪郭。前髪の毛束。
あらかじめ意図されたキャラクターではない。ただ、指先の筋肉の記憶が、液晶の上に勝手な実体を結んでいく。数秒後には、その輪郭に重なるようにして新しいストロークが引かれ、さらにその上から別の線が交差する。
気づけば、キャンバスの四隅は、意味を持たない無数の「 落書き」によって埋め尽くされようとしていた。
「へえ、いいじゃないか」
いつの間にかレイの背後に立っていた直哉が、感心したように呟いた。
「何が?」
「いや、ただの落書きなのに、すごく伸びやかな線をしてるなと思ってさ」
レイはペンの動きを止め、自分の描いた乱雑な画面を見つめた。
おそらく、直哉の指摘は正しい。ただの落書きだからこそ、上手く描こうという邪念が働かないのだ。失敗しても構わない、デッサンが狂っても誰も困らない。その無責任な気楽さが、彼の指先を驚くほど軽くさせていた。現在進行中の、何十万人の読者の目が背後にちらつく公式のイラスト仕事よりも、今の線の方が遥かに自由で、生き生きとしている。
「それは主客が逆転してるんですよ、ナオさん」
突如、背後から滑り込んできた声に、二人は同時に振り返った。
ソファの毛布を跳ね除け、いつの間にか二人のすぐ後ろに立っていたのは蘭華ひよりだった。どういうわけか、ここ最近の彼女の覚醒率は異常に高かった。
「逆転?」
「そうです。落書き『なのに』良いんじゃないんです。落書き『だから』良いんですよ」
ひよりはレイの肩越しにモニターを覗き込み、ドヤ顔で人差し指を立てた。
「真面目なお仕事の時は、レイさんの脳みそは五万個くらいの言い訳と計算でパンパンですからね。ここをこう描いたら編集部がどう言うか、読者が喜ぶか、整合性が合うか――そんな泥水みたいな思考の中で引いた線が、ピュアなわけないじゃん」
「言い方にトゲがありすぎるだろ、お前は」
レイは苦笑したが、やはり反論はできなかった。仕事中の自分の手がどれほど多くの不自由を抱えているか、一番よく知っているのは自分自身だ。
しかし、今の画面は違う。ペンの先端は一瞬の迷いもなくキャンバスの上を躍動し、消しゴムツールに切り替わる頻度も極端に少ない。ただ純粋に、線を描くという行為そのものの快楽だけが、そこに抽出されていた。
「これ、保存するの?」
直哉が尋ねる。
「さあな……」レイは視線を泳がせた。「多分、しない。ただの気晴らしだし」
自分でも本気でそう思っていた。これは作品ではない。プロジェクトでもなければ、ポートフォリオの肥やしにもならない。誰かに見せる予定もないゴミデータだ。このまま保存せずにクリップスタジオを閉じれば、一瞬で電子の塵となって消え去る運命にある。
だが――それを知りながらも、この乱雑な線の集まりをゴミ箱に放り込むことに対して、胸の奥がわずかに抵抗を示していた。
「難しいもんだね」
直哉が、どこか楽しげに呟く。
「何がだよ」
「いや、ここ数日の君たちを見ているとさ。保存するか、消去するか、その境界線でずっと右往左往している気がしてね」
古いPSDの再発見。失われたラフスケッチの捜索。地層のように積み重なった一年前のフォルダ。そして今、目の前にある、この刹那的な落書き。
遺るものと、消え去るもの。その二つを分かつ境界線は、人間が考えているよりも遥かに曖昧で、恣意的なものなのかもしれない。
レイは再び、モニターの白い画面を見つめた。
キャンバスを埋め尽くす不格好な線の群れ。それらは何の物語も紡いでいないし、実用性も皆無だ。しかし、この乱雑な風景を見つめていると、彼は不思議なノスタルジーを覚えていた。それは、数日前に古いフォルダを開いた時に感じたものと、酷く似ていた。
人間が本当に惹きつけられるのは、綺麗にパッケージングされた「完成品」の美しさだけではない。その手前にある、まだ何者でもなかった頃の、あらゆる可能性がカオスとして渦巻いていた『途上の時間』。その生々しい痕跡が、この落書きには宿っていた。
「その落書きはですね……」ひよりが、不意に声を低くして言った。「……いわば、未来の考古学者が発掘するための、瑞々しい遺跡なんですよ」
「どういう意味だよ」
「何年か経った後、レイさんがまたクリックミスでこのファイルを開いて、『なんだこれ、下手くそだな』って言いながら、でも消せずにブラウザを閉じるんです。その未来のイベントが、もう約束されてるじゃん」
直哉が、堪えきれずに小さく吹き出した。
「確かに。容易に想像がつく未来だね」
「……お前ら、人の未来を勝手にテンプレート化するなよ」
レイは抗議したが、自分の行動パターンが完全に読まれていることに、内心では白旗を上げていた。おそらく数年後の自分は、ひよりの予言通りにこの画面を見て、同じように頭を抱え、そして――やっぱり、消去のボタンを押せないままフォルダを閉じるのだろう。人間はそう簡単には変わらない。
レイは液晶ペンを握り直し、キャンバスの右下に視線を向けた。
意味を持つ前の、ただのストローク。作品になる手前の、剥き出しの衝動。誰の目にも触れることのない、無名の一線。しかし、橘レイという漫画家のすべての作品は、かつてこういう無駄な線の集まりから始まっていたはずなのだ。
少しの沈黙の後、レイはコントロールキーとSキーを同時に押した。
ファイル名を入力するウィンドウが開くが、彼は何も打ち込まず、デフォルトの『無題.psd』のまま保存のボタンをクリックした。
名前なんてなくていい。ただの、一時保存だ。
数年後の自分が、この名もなき遺跡を発掘してどれほど頭を抱えることになるか――そんな未来の不条理は、その時の自分にすべて丸投げしてしまえばいい。レイはすっきりした顔でキャンバスを閉じ、今度こそ、現在の自分が戦うべき本番の原稿ファイルを開き直した。窓の外では、東京の穏やかな夕暮れが、スタジオの白い壁を茜色に染め上げ始めていた。




