第49話 「消去」
時に、とうに失われてしまったはずのものが、どういうわけか未だに遺っていることがある。
その逆もまた然りだ。当然そこにあるはずのものが、いつの間にか綺麗さっぱり消え失せている。
デジタルデータの管理、あるいは何かを生み出す創作の世界において、この二つのバグは、およそ想定されているよりも遥かに頻繁に発生するものだった。
「……ないな」
ある日の午後、橘レイは液晶モニターを凝視したまま、ぽつりと呟いた。
「またかい?」
デスクの対面で、一ノ瀬直哉は驚く素振りすら見せなかった。ここ最近のレイは、まるで何かに憑りつかれたかのように古いフォルダを漁り続けている。おそらく本人に自覚はないのだろうが、傍から見ている直哉からすれば、その発掘作業の頻度は明らかに異常だった。
「今度は何を探しているんだい?」
「古いラフスケッチ」
「今の仕事に必要なもの?」
「いや、別に」
「じゃあ、なんで探してるんだよ」
レイはマウスを握ったまま、少しだけ動きを止めた。
「……なんとなく、気になって」
「へえ」
直哉は全く理解できないという風に短く応じた。しかし、あえてそれ以上の追及をしようとはしなかった。ここ数日のレイの奇行――古いPSDファイルを開いたり、一年前のフォルダを眺めたりする一連の行動を、直哉は心の中で『デジタル考古学ブーム』と名付けていた。もっとも、本人にそれを指摘すれば、十中八九「ただの整理整頓だ」と不機嫌そうに否定するに決まっている。
レイは検索ウィンドウにいくつかのキーワードを打ち込んでみた。
『結果なし』
冷淡なシステムメッセージが返ってくる。言葉を変えて、もう一度試す。やはりゼロ。さらに別の関連ワードを入力する。画面にはただ、白い空白が広がるだけだった。
「もしかして、消しちゃったんじゃないの?」
「……かもな」
レイは椅子の背もたれに深く体重を預けた。自分で削除した記憶はなかったが、かと言って、それを未来永劫保存しようと誓った記憶もまた、どこにも存在しなかった。
作っている最中は、それこそ自分のすべてを注ぎ込むほど重要に思えるデータ。しかし、数ヶ月も経てば、その存在自体が意識の表層から綺麗に洗い流されてしまう。人間の記憶の構造とは、実に都合がよく、そして時にひどく不条理だった。
「ゴミ箱は?」
「空っぽだ」
「ってことは、本当に消滅したんだね」
どういうわけか、直哉の声には微かな落胆が混ざっていた。彼も彼で、レイがそれほどまでに執着する過去の残骸に、少しだけ興味が湧いていたのかもしれない。
レイ自身、胸の奥に奇妙な残尿感が残っていた。一体、自分はどんなラフを描いていたのだろう。あの時、何を表現しようとしていたのか。今となっては、それを確かめる術は世界のどこにも残されていない。
かつて確実に存在していたはずのものが、今はもうどこを探しても見つからない。失われたのは記憶そのものではなく、それが存在していたという物理的な『証明』だけだった。
「でも、ちょっと意外だな」
直哉が、デスクの上に置いたマグカップを手に取りながら言った。
「何が?」
「レイさんって、データを消去することもあるんだね。てっきり、過去の失敗作も全部フォルダの肥やしにしてるものかと」
レイは苦笑した。確かに直哉の言う通りだった。古いPSDも、没になったネームも、使い道のわからない落書きも、彼のハードディスクには文字通り「地層」のように眠っている。しかし、だからといって、そのすべてが無条件に保存の特権を得られるわけではない。
「多分……」レイは言葉を選びながら、視線を泳がせた。「本当に、これ以上持っていても意味がないって判断したんだと思う。当時の俺が」
「それすら覚えてないのかい?」
「覚えてないな」
直哉は呆れたように小さく笑った。実にもどかしく、そしてレイらしい不誠実さだった。
過去のある瞬間、保存するか消去するかの二択を迫られ、真剣に決断を下したはずの自分がいた。そして、その決断の結果を受け取っている現在の自分が、当の理由を完全に忘却している。なんとも不条理な話だった。
「まあ、忘れるくらいなら、本当に大したデータじゃなかったってことさ」
直哉が納得したように頷く。
レイはしばらくの間、空っぽの検索結果画面を見つめていた。本当にそうなのだろうか。消去のボタンを押した瞬間の自分は、確かにそう思ったのかもしれない。しかし今、未来の自分がこうして血眼になってそれを探している。今日「不要」だと切り捨てたものが、明日「どうしても見たいもの」に化けるかもしれない。創作の世界においては、そんな時間差の罠がいくらでも転がっている。
「レイさん」
背後から、低くくぐもった声が響いた。
蘭華ひよりだった。驚くべきことに、今日の彼女はソファの上ではなく、事務椅子に腰を下ろしていた。ただし、上半身のすべてをデスクの天板に投げ出し、額を直接木目にこすりつけるという、およそ人間工学を無視した姿勢をとっている。
「生きてるかい、ひよりちゃん」
直哉が尋ねる。
「半分だけ、実体化してます」
「実に便利なステータスだ。僕も会社で使いたいよ」
「おすすめですよ。有給使わずに気配を消せますから」
実用性の皆無なアドバイスだった。もちろん、直哉にそれを試す度胸などない。
「で、何の話をしてるんですか。未解決事件ですか」
「いや、消えたラフスケッチの話」
「ああ」ひよりは額をデスクにつけたまま、ふむ、と一つ頷いた。そして、いつものように絶対的な確信を込めて言い放った。「それはあれですね。異世界転生しましたね」
「しないよ」
直哉が音速でツッコミを入れる。
「まだ何も説明してないじゃん!」
「説明されなくても、オチの酷さが容易に想像できるからね」
「ひどいなぁ。要するにこういうことですよ。ファイルが見つからない、どこにもない。つまり、この世界の三次元的なグリッドから消失した。ということは、異世界に転移したと考えるのが一番合理的じゃないですか」
「その論理の飛躍を『合理的』とは呼ばないんだよ、ひよりちゃん」
直哉は頭痛をこらえるように額に手を当てた。ひよりのこういう「狂った正論(本人基準)」は、作業中の脳に一番応える。
「じゃあ、もしバックアップから見つかったらどうするんだよ」
レイが面白がって乗っかると、ひよりはデスクに顎を乗せ、不敵に目を細めた。
「それは『異世界からの帰還(帰還勇者)』ですね。作画の技術が三倍くらい跳ね上がって戻ってきますよ」
「よし、この不毛な妄想はここでストップだ」
直哉がこれ以上ないという冷徹さで会話のシャッターを下ろした。長年の付き合いから、ここで止めなければ、彼女が消えたラフスケッチを主人公にした全12話のアニメのプロットを語り始めかねないことを察知していたからだ。ひよりは「ちぇっ」と不満そうに唇を尖らせたが、それ以上は追及しなかった。
レイは検索ウィンドウのバツボタンを押し、エクスプローラーを閉じた。
結局、探していたラフは二度と見つからなかった。本当に消去されたのか、あるいはひよりの言う通り、データの海のどこか別の次元へ紛れ込んでしまったのか。それは誰にも分からない。
しかし、不思議なことに、胸の中にあった落胆は、いつの間にか静かな納得へと変わっていた。今の自分には、もうあのラフは必要ないのだ。だからこそ、過去の自分が先回りしてそれを処分してくれた。そう解釈することもできる。かつての自分の決断を、今の自分が信じてやる。それも悪くない。
モニターの画面は、いつもの見慣れた現在のネーム用紙に戻った。
そこには古いデータも、没になったラフも、何もない。真っ白なキャンバスが、ただ静かにレイの筆先を待っている。
ファイルを消去するのは、クリック一つで済む簡単な作業だ。しかし、それがかつて自分の脳内に存在していたという「気配」まで完全に消し去ることは、どうやら不可能なようだった。
レイは再びペンを握り、液晶画面に最初の一線を引いた。失われたものは戻らない。ならば、今この場所から、新しいものを描き始めるしかないのだ。窓の外では、東京の気怠い午後の風が、スタジオのカーテンを小さく揺らしていた。




