第48話 「一歳」
一年という歳月は、長くもあり、同時にひどく短くもある。
振り返ってみれば、すべてが瞬く間に通り過ぎてしまったようにも思える。しかし、その間に起きた出来事をひとつずつ丁寧に手繰り寄せていけば、自分がいつの間にか、随分と遠い場所まで歩いてきてしまったのだと気付かされる。
いずれにせよ、確かな事実がひとつだけあった。
今ここにいる自分は、一年前の自分と完全に同一ではない、ということだ。
数日前に古いPSDファイルを発掘して以来、橘レイはまた別の古いフォルダを開いていた。今回は何かの資料を探していたわけではない。純粋な事故――ただのクリックミスだった。
「また過去の遺産かい?」
デスクの横で、一ノ瀬直哉がなかば諦めたような、それでいてどこか楽しげな声を出す。
「……みたいだな」
エクスプローラーの画面には、日付順にソートされたフォルダの列が並んでいた。
一年前。正確に数えるなら、十一ヶ月前の日付だ。ちょうど一年というわけではないが、この「YLS Studio」において、その一ヶ月の誤差をわざわざ指摘するほど几帳面な人間は一人もいなかった。
「結構、残ってるもんだね」
「まあな」
それぞれのフォルダには、当時の仕事の爪痕が残されている。そして、その中身の大半を、レイはすでに綺麗さっぱり忘れていた。当時はそれこそ、世界の存亡がかかっているかのように必死で向き合っていたはずのデータだ。しかし今となっては、なぜそのファイルがそこに存在するのか、その理由すら思い出せない。
レイはフォルダのひとつをクリックして開いた。
ラフスケッチ。途中で没になったキャラクターデザイン。一度も使われることのなかった表情のバリエーション。そして、メモ書き。画面の余白には、びっしりとテキストが残されていた。
「相変わらず、メモの量が多いね」
「昔からな」
「今も大差ないよ」
「否定はしない」
レイは素直に頷いた。彼のデータには、いつも過剰なほどの文字情報が乱雑に書き込まれている。作画の注意点、忘備録、あとで考えるべき課題。
そして悲しいかな――それらのメモは、後から読み返した時には大抵、その意味を完全に失っているのだ。
「これ、何?」
直哉が画面の一角を指差した。そこには一言、こう殴り書きされていた。
『なんか、ズレてる』
「……何がズレてたんだ?」
「覚えてない」
「だろうね」
様式美のような、予測通りの回答。むしろ、十一ヶ月前の自分が何に対して違和感を抱いていたのかを、今のレイが正確に記憶していたらその方がホラーだ。
あの時、何が間違っていると感じたのか。何を直したかったのか。
今となっては知る由もない。当時の橘レイなら答えを知っていたのだろうが、その「当時の彼」はもうこの世界には存在しない。少なくとも、十一ヶ月前の時間の中に置き去りにされたレイは、今のレイとは別の生き物だった。
「変わったと思うかい?」
直哉が、ふと真面目なトーンで尋ねてきた。
「何が?」
「一年前の君と、今の君」
レイは少しだけ動きを止め、画面の中の古い絵を見つめた。それから、最近納品したばかりの最新の原稿データを開き、二つのウィンドウを左右に並べて比較してみる。
「……さあな。自分じゃよく分からない」
それが、彼の率直な感想だった。他人の変化には敏感になれる人間も、己の成長や退行には驚くほど無頓着になる。変化とはいつだって、爪が伸びるように少しずつ、静かに、連続的に起きるものだからだ。毎日鏡を見ていても気づかない。ある日突然、「あ、変わったな」と結果だけを突きつけられる。
「僕から見れば、はっきり違うよ」
直哉が、椅子の背もたれに体重を預けながら言った。
「そうか? 着色の技術とか、構図の取り方とか?」
「いや、そういう表面的なプロの部分じゃない」直哉は少し言葉を選ぶように、視線を泳がせた。「……線が、違うんだ」
「線?」
「うまく言えないんだけどさ。昔の君の線には、どこか『迷い』の残骸みたいなものがへばりついていた。今の線にも迷いはあるんだろうけど、その質が変わったというか……。少なくとも、前よりは堂々としてる」
曖昧で、論理的とは言えない指摘だった。しかし、創作者としてのレイの肌には、その言葉が驚くほど滑らかに染み込んできた。
一年前には一年前の、暗闇を手探りで進むような不安があった。今だって別の不安はある。だが、それは決して「同じ場所での堂々巡り」ではない。不器用ながらも、足跡は確実に前へと伸びている。直哉はきっと、そういうことを言いたいのだろう。
「……そうかもな」
レイは、小さく息を吐き出しながら呟いた。
その時だった。
「それを世間では『成長』と呼ぶんですよ」
背後から、毛布の擦れる音と共に、聞き慣れた声が割り込んできた。
二人が振り返ると、そこにはソファの上に起き上がった蘭華ひよりがいた。
「お、起きてたのか」
「最近の挨拶、そればっかりじゃじゃん」
「実績と信頼のレコーディングデータがあるからな」
「人聞きが悪い!」
ひよりはぷんぷんと怒りながらパイプ椅子を引っ張り、二人の間に割り込むようにして座った。彼女もまた、モニターの液晶を見つめる。
「まあ、確かに違いますね」
「ひよりちゃんにも分かる?」と直哉。
「当然です。私を誰だと思ってるんですか」
胸を張る彼女の態度には、一ミリの根拠もない自信が満ち溢れていた。それがかえって、二人の警戒心を煽る。
「……誰なんだよ」レイが呆れたように言う。
「私はアーティストですよ」
「何の?」
「昼寝のプロフェッショナルです」
「知ってた」
直哉が間髪入れずにツッコミを入れ、スタジオに小さな笑いが落ちる。
「でもさ」ひよりは真面目な顔に戻り、画面の古いキャラクターを見つめた。「一年前の、その不格好でズレてるレイさんがいたから、今のレイさんがいるわけだし。だから、その過去のレイさんも、ちゃんと橘レイなんですよ」
レイは再び、古いフォルダの中身を視線で追った。
未熟なラフ。意味を失ったメモ。当時の技術の限界。今の視点で見れば、どれもこれも手直ししたくなるようなものばかりだ。だが、それらは紛れもなく、一年前の自分がこの部屋で、削り出した時間そのものだった。
上手いか下手か、成功か失敗か。そんな基準はどうでもよかった。そこには確かに、十一ヶ月前の自分が生きていたという、動かしようのない生痕が遺されている。今の自分と、確かに細い糸でつながった、地続きの過去が。
「……そうだな」
その言葉は、不思議なほど素直にレイの喉から転がり出た。
一年は長く、そして短い。しかし、その短い時間の集積は、確実に人間の内側に重層的な地層となって積み重なっていく。
レイは静かにマウスを動かし、古いフォルダを閉じた。
十一ヶ月前の自分は、再びデジタルデータの暗闇へと帰還していく。それは消えてなくなるわけではない。ただ、そこに在り続ける。もしまた必要になれば、いつでもその扉を開ければいい。過去へと繋がる、ささやかなタイムカプセルのように。
もっとも、次にその扉が開かれる時も、おそらくはただの「クリックミス」が原因なのだろうが。レイは小さく苦笑しながらペンを握り直し、再び、今の自分が引くべき新しい一本の線へと、全神経を集中させていった。




