第47話 「痕迹」
創作の年月を重ねれば重ねるほど、人間の背後には「隠しておきたい過去」が増殖していく。
それは消去してしまいたいという意味ではない。正確に言うなら、ただ「他人の目に触れさせたくない」のだ。似ているようだが、その二つの間には、深くて暗い断絶がある。そしてその違いは、創作者にとっては命に関わるほど大きなものだった。
昨日発掘された古いPSDファイルは、結局のところ消されずに残っていた。
背景資料の探索は途中で頓挫したものの、最終的には別のルートから力技で解決し、目の前の仕事は何とか軌道に乗った。喉元を過ぎれば熱さを忘れるはずのトラブルだ。しかし、スタジオの片隅には、まだ小さな問題の残渣が居座っていた。
あの古いデータが、今も液晶モニターの隅でひっそりと開かれたままになっているのだ。
「……まだ開いてるのか」
昼下がり、スタジオのドアをくぐった一ノ瀬直哉が、開口一番にその歪な画面へ視線を向けた。
「ああ」
「昨日、一度閉じたんじゃなかったっけ」
「もう一回、開いたんだよ」
「何のために?」
「さあな」
橘レイはペンを握ったまま、実にもどかしい返答を返した。「さあな」という三文字は実に便利だ。論理的な説明を放棄したい時、あるいは自分自身でもその行動の理由が言語化できない時、この言葉はすべての追及を曖昧に煙に巻いてくれる。もっとも、それを聞かされる側としては、全くもって不条理極まりないのだが。
「呑気なもんだね」
「呑気じゃない」
昨日と寸分違わぬ、不毛な会話の反復。直哉は自分の定位置であるパイプ椅子を引き、腰を下ろした。そして再び、モニターの向こうにある数年前の残骸を凝視する。
同じラフ。同じアタリの丸。同じ余白の殴り書き。そして何より――圧倒的なまでに「未熟」な、過去の自分の筆跡。
「これ、どこかに発表したことあるの?」
「ない」
「それは良かった」
「何が良かったんだよ」
「世界の平穏が保たれたという意味でね」
レイは無言でペンタブレットの上にペンを置いた。何が腹立たしいと言って、直哉のその辛辣な指摘に対して、一言の反論も組み立てられない自分自身が一番腹立たしかった。
今のプロの視点で見れば、この絵はどこまでも不格好だ。骨格のバランスは怪しいし、光と影の辻褄も合っていない。だが、当時はこれでも本気だったのだ。徹夜をして、目を血走らせて、これが自分の最高傑作だと信じて疑わずに描いていたはずなのだ。それなのに、時間のフィルターを通した今、網膜に映るのは「欠陥」の二文字だけ。
長く物を作り続けている人間にとって、最大の敵はいつだって「過去の自分」という名の、無防備な鏡だった。
「レイさん」
その時、部屋の対角線上にあるソファの毛布の塊から、低く、しかし妙に明瞭な声が響いた。
「ん?」
「レイさんって、黒歴史、あります?」
レイは少しだけ思考を巡らせた。ほんの、数秒の空白。
「……山ほどある」
「食い気味ですね」
「事実だからな」
むしろ、まともな創作者で黒歴史を持たない人間がいるなら、その脳細胞の構造を見てみたいものだった。かつて描いた下手くそな絵、かつて書いた独りよがりなプロット、かつて天才的だと思い込んでいた陳腐なアイデア。過去のストレージを掘り返せば、今すぐ記憶を喪失したくなるような地雷原がどこまでも広がっている。
たちの悪いことに、それらを作っていた時の自分は、いつだって「真面目」だったのだ。決して手を抜いたわけでも、お遊びで描いたわけでもない。全身全霊で挑んで、その結果がこれなのだ。だからこそ、後から振り返った時の破壊力は、お笑い草を通り越して純粋な恐怖に近い。
「だったら、消しちゃえばいいじゃないですか」
毛布から顔を覗かせた蘭華ひよりが、至極当然のような口調で言った。
「嫌だ」
「矛盾してますね」
直哉もまた、不思議そうに首を傾げた。
レイ自身、この心理を他人に説明する言葉を持ち合わせていなかった。恥ずかしい。誰にも見せたくない。今なら百倍マシなものが描ける。それは分かっている。だが、消去のボタンを押すことだけは、どうしても身体が拒絶する。
理由は判然としない。ただ、そこに転がっている不格好な死体は、紛れもなく「かつての自分」そのものだからだ。
「なるほど、歪んだ自己愛ですね」
ひよりが神妙な顔で頷く。
「違う。というか、お前は黒歴史とかないのかよ」
レイが話を振ると、ひよりは待ってましたと言わんばかりに、不敵な笑みを浮かべた。
「ありますよ、当然。私を誰だと思ってるんですか」
「自慢することじゃないだろ。何をやったんだ?」
ひよりの視線が、ゆっくりと窓の外の遠い空へと向けられる。
「小学生の時、地球の危機を救う『ジャガイモの戦士』が主人公の、全百ページの超大作漫画を描きました」
「「……」」
「必殺技は『デンプン・クラッシュ』です」
「よし、この話はここで終わりにしよう」
直哉が文字通りの神速で会話のシャッターを下ろした。彼の研ぎ澄まされた社会人としてのインスティンクトが、これ以上そのジャガイモの深淵に踏み込むのは危険だと告げていた。
「でも、黒歴史って不思議ですよね」ひよりは制止を無視して、何気ないトーンで続けた。「今見ると死にたくなるほど恥ずかしいのに、当時はそれこそが自分の世界のすべてだったんですから。だから、消せないんですよ。それを消したら、当時の自分の熱までなかったことになっちゃうじゃん」
その瞬間、スタジオに奇妙な沈黙が落ちた。
直哉が少しだけ目を見張り、レイもまた、ペンを握る手を止めて彼女を見た。
「……何ですか、その『野生の賢者が現れた』みたいな顔は」
「いや、別に」
「ひよりちゃんが珍しく真っ当なことを言うから、ちょっと世界線の変動を心配しただけさ」
「失礼ですね!」
ひよりは毛布を跳ね除けて抗議したが、彼女の指摘は、図らずも本質を正確に射抜いていた。
「黒歴史」という言葉は、現代においてひどく便利に消費されている。自虐のネタにされ、恥ずかしい思い出として笑い飛ばされて、それで終わりだ。しかし、その歪な形をした過去の残骸の底には、確かに「あの時の自分」が息づいている。
まだ技術を持たず、何度も打席で空振りを繰り返し、愚直に遠回りを重ねていた頃の、瑞々しいまでの無知と情熱。それらが地層のように積み重なった果てに、今の自分が立っている。だから、消せるはずがないのだ。
「レイさん」
直哉が、静かにモニターを指差した。
「じゃあ、その画面にあるやつは、君にとっての黒歴史なの?」
レイは再び、液晶の中のPSDファイルを見つめた。数秒間、その不格好な線を網膜に焼き付けるように凝視し、それから小さく首を振った。
「いや……違うな」
「違う?」
「これは、ただの――」
彼は、自分の胸中にある最も正確な名前を探し当て、それを静かに口にした。
「――ただの、古い線だよ」
それ以上の意味も、それ以下の意味もない。黒歴史と呼んで自嘲するほど嫌悪してはいないし、かと言って他人に誇れるほどの価値もない。ただ、かつての自分が、その時の全力でキャンバスに刻みつけた、古い筆跡。ただ、それだけのことだ。
レイはマウスを動かし、PSDファイルを閉じた。
未完成のキャラクターは一瞬で画面から消え去り、いつもの見慣れた現在の作業ウィンドウへと戻る。
しかし、データが消えても、かつての自分が消えてなくなるわけではない。その古い線の上に、今の新しい線が何層も、何層も重なって、今日の橘レイの漫画は作られている。彼は再びペンを握り直し、液晶画面へと向かった。外では、初夏の陽射しがスタジオの窓を穏やかに照らし始めていた。




