第46話 「旧有」
創作のキャリアが長くなればなるほど、人間の背後には膨大な「過去」が置き去りにされていく。
世の光を浴び、完成品として世に送り出された成果物の数など、誰の目にも触れることなく眠り続けるデータの山に比べれば、砂浜の砂粒一粒のようなものだ。没になった無数のラフスケッチ。熱量が尽きて途中で放棄されたプロジェクト。保存したことすら忘却の彼方に追いやられたPSDファイル。
結果だけが世界へと羽ばたき、その結果を生み出すために費やされた凡百のプロセスの大半は、フォルダの階層構造や外付けハードディスクの底に、沈殿物のように遺されていく。
そして、ごく稀に――そんな過去の遺物が、不意に発掘されることがある。
「……ない」
エアコンの低い排気音と、不規則に響くマウスのクリック音だけが、その日の午後の「YLS Studio」を満たしていた。橘レイはモニターを睨みつけたまま、苦虫を噛み潰したような声を漏らす。
デスクの対面に座っていた一ノ瀬直哉が、文庫本から視線を上げた。
「何が?」
「資料」
「またか」
「まただ」
毎度お馴染みの、短い押し問答。しかし、レイの表情はそれなりに深刻だった。今進めている作画にどうしても必要な背景の参考写真が、いくらローカルストレージを漁っても見つからないのだ。確かにダウンロードして保存した記憶はある。問題は、それを「どこ」に放り込んだのか、脳内のインデックスが完全に焼き切れていることだった。
レイにとって、この手のデータ紛失は日常茶飯事であり、そして日常茶飯事だからこそ、スタジオの作業効率を著しく低下させる最大の癌だった。
「だから、普段から整理整頓しておけって言ってるだろ」
「してるよ、一応」
「その『一応』ほど信用できない言葉はないね」
直哉は呆れたようにパイプ椅子を滑らせ、レイのデスクの横からモニターを覗き込んだ。
エクスプローラーのウィンドウには、正気の沙汰とは思えない数のフォルダが乱雑に整列している。いくつかのフォルダにはプロジェクト名が冠されているが、それ以外は日付の数字が無造作に並んでいるだけだ。まだ法則性が理解できるものはマシな方で、残りの大半は目も当てられない惨状だった。
『new』
『new2』
『new_new』
『new_final』
『new_final_fix』
『new_final_fix2』
「……これ、何の暗号?」
「古いフォルダ」
「説明になってないよ、レイ」
レイは反論しなかった。というより、反論できるだけの正当性が自分に欠片もないことを自覚していた。彼はため息交じりにひとつのフォルダを開く。
中身を確認する――違った。ウィンドウを閉じる。
別のフォルダを開く――これも違う。
さらに次の階層へ。やはり的外れだった。
探している本命の資料は一向に姿を現さないくせに、どうでもいい過去のジャンクファイルばかりが次々と目の前を通り過ぎていく。世界とは大抵そういうものだ。必死に何かを追い求めている時に限って、全く関係のない別の何かが向こうからやってくる。
「真面目な話、このあたりのゴミデータは一度綺麗にクリーニングした方がいい。ストレージの寿命にも関わる」
「分かってる」
「分かってるだけだろ?」
「……イエス」
レイは抵抗を諦め、素直に両手を挙げた。だが、罪を認めることと、その罪が自動的に清算されることは全くの別問題だ。直哉もそれ以上は追及を続けなかった。どうせ説教したところで、数日後にはまた『new_final_ultimate』のようなフォルダが生成されるだけだと分かっているからだ。
「お」
突如、レイのマウスを動かす手がピタリと止まった。
直哉が少しだけ上体を前に傾ける。
「見つかったか?」
「いや、違う」
探していた資料ではなかった。モニターに表示されたのは、別のデータ――ひどく古びた、ひとつのPSDファイルだった。更新日時は数年も前の日付を示しており、ファイル名もどこかおぼつかない。
『character_test_old.psd』
当時、自分が一体どんなキャラクターを描こうとしていたのか、レイの記憶には一ミリも残っていなかった。しかし、その不格好なタイトルが、徹夜明けの脳に奇妙な好奇心を植え付ける。
「開くのか?」
「……まあ、一応」
ダブルクリック。数秒のプログレスバーの微動を経て、液晶画面に一枚のイラストが展開された。
「「……」」
二人は同時に、言葉を失った。
やがて、直哉がどこか遠い目をして口を開く。
「……ひどいな、これ」
「言うな。自分でも分かってる」
実に見事な「黒歴史」だった。現在のレイの画力に比べれば、線の引き方は恐ろしく不安定で、迷い箸のようなゴーストラインが無数に残っている。着色のブラシワークは雑で、コントラストの付け方も強引だ。デッサンも微妙に狂っている。物語のキャラクターとして完成しかけてはいるが、ゴールに辿り着く手前で力尽き、そのまま放置されたことが一目で分かる状態だった。
プロの漫画家となった今の視点で見れば、修正すべき赤ペンポイントが五万箇所は浮き彫りになる。描き直したい。線の位置を直したい。もっと上手く処理できる――そんな職業病的な欲求が首をもたげる。
だが、不思議なことに、レイの胸を支配したのは「恥ずかしさ」ではなかった。
「これ、何年前のやつだ?」
「覚えてない。でも、まだトーンの貼り方すら手探りだった頃だ」
「懐かしいね」
「懐かしくない。胃が痛くなる」
レイは素っ気なく返したが、その視線は画面から離れなかった。彼はレイヤーパネルを展開してみる。
一番下には、当時の思考の迷走がそのまま残る、ぐちゃぐちゃの第1ラフ。消し忘れたアタリの丸。キャンバスの余白に殴り書きされた、自分宛てのメモ書き。
『顔、もう少し左?』
『多分これ、パース狂ってる』
『あとで考える』
「……昔から、思考の先送りを繰り返してたんだな」
「うるさい。過去の俺に言ってくれ」
「今の君も大差ないと思うけど」
レイは都合の悪い指摘を無視することに決め、さらにレイヤーを非表示にしていく。
ラフ、修正、描き直し。別のポーズの試行錯誤。そして再び、最初の構図への回帰。
もし、他人がこの画像の「統合された完成見本」だけを見たならば、そこにあるのはただの「下手な過去絵」でしかない。しかし、PSDという階層構造の中に保存されているのは、その結果に至るまでの泥臭い『時間』そのものだった。誰の目にも触れることなく、作品が完成した瞬間に通常は破棄されるはずの、未洗練な努力の足跡。それらが、当時の熱量と共に生々しくそこに凍結されていた。
レイの意識は、目の前の下手くそな絵そのものから、その背後に隠された「かつての自分の熱」へと、ゆっくりとシフトしていく。
「消すか?」
直哉が尋ねた。ゴミデータを整理しろと言った手前、最も不要なはずのファイルがこれだ。
レイは少しの間、沈黙ののち、首を横に振った。
「いや……残しとく」
「思い出のアルバム代わりに?」
「そういうんじゃないけど」
適切な言葉を探そうとしたが、創作者の独りよがりな感傷を論理的に説明するのは難しかった。
「……なんか、なんとなく」
結局、そんな曖昧な言葉しか出てこなかった。
直哉はそれを見て、諦めたように小さく笑う。
「実にレイらしい、理屈のないこだわりだね」
おそらく、その通りなのだろう。この絵は決して上手くない。誰かに自慢できるようなシロモノではないし、ポートフォリオに入れるなど狂気の沙汰だ。欠点の方が圧倒的に多い。
それでも、これを消去することは、かつて自分が確かに引いた「迷いの線」を、なかったことにする行為のような気がした。遠回りを繰り返していた頃の、まだ何者でもなかった自分の、不器用なストローク。
下手くそだった。洗練されていなかった。だが、紛れもなく、それは橘レイという人間の歩んできた軌跡の、一部なのだ。
「で」
直哉は椅子の背もたれに体重を預け、現実へと話を戻した。
「探してた資料は?」
レイは我に返り、古いPSDファイルを閉じた。そして、再び無数の『new』が並ぶカオスなフォルダ階層へと帰還する。彼の現実的な旅は、まだ何も終わっていなかった。
「……見つからない」
「ほら見たことか」
どちらからともなく、小さな苦笑が漏れた。
資料探しのクリック音が、再びスタジオに響き始める。この不毛な作業は、おそらくまだしばらく続くだけの長丁場になるだろう。
しかし、少なくとも今日この午後、レイはただの「背景資料」よりも、ほんの少しだけ大切な何かを見つけ出したような気がしていた。フォルダの奥深くに埋もれていた、古い未完成のPSD。そこにレイヤーとして重なっていたのは、単なるデジタルデータではなく、彼がプロの漫画家になるまでに消費してきた、愛おしい泥臭い時間そのものだった。




