「帰省」
「もうお盆ですね」
ソファの上で、ひよりが窓の外の遠い空を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「ああ」
レイは液晶モニターから一切の視線を外さずに、短く生返事を返す。
「二人は、実家に帰ったりしないの?」
ローテーブルの端で缶コーヒーのプルタブを引き抜いたのは、直哉だった。
「今年は無理だな」レイがペンを動かしたまま答える。「……ネームがある」
「知ってた」直哉が苦笑する。「締切最優先の生活だもんね」
短い、そして予定調和な会話の断片。スタジオの中には再び、エアコンの低い唸りと、無機質な打鍵音、そして液晶をなぞるペンの微かな摩擦音だけが響き始める。
ひよりはしばらくの間、無言で天井の木目を凝視していた。
「お盆って、よく考えると不思議ですよね」
「何が?」
直哉がコーヒーを口に含みながら尋ねる。
「だって、世の中のすべての人間が『帰るべき場所を持っている』っていう大前提の上で、カレンダーが動いてるじゃじゃん」
直哉は少しだけ眉をひそめた。
「まあ、基本的にはそうなんじゃないのかい? 生まれ育った故郷とか、家族がいる場所とか」
「かもしれませんけど」ひよりは毛布の端を弄びながら、不敵に目を細めた。「でも、創作者という生き物は奇妙ですよね。お盆だろうが正月だろうが、締切が近づくと、彼らは例外なくこの薄暗いスタジオに戻ってくるんですから」
「それは戻ってきてるんじゃないんだよ、ひよりちゃん」と直哉。
「じゃあ、何ですか?」
「『帰るに帰れない』って言うんだよ、それを」
「五十歩百歩です」
「いや、天と地ほどの差があると思うけど」
ひよりは小さく頷き、自分の言葉に納得したように続けた。
「でも考えてみれば、私も自分の家より、この部屋にいる時間の方が遥かに長いんですよね」
「それはお前が勝手に居座ってるだけだろ」レイが呆れたようにツッコミを入れる。
「ここには冷蔵庫があります」
「あるな」
「コーヒーもあります」
「あるよ」
「冬でも夏でも、快適な毛布があります」
「それ、お前が自分で持ち込んだやつだろ」
「そして、床があります」
「床は世界のどこにでもあるよ、ひよりちゃん」
直哉が堪えきれずに小さく吹き出した。ひよりは自分の完璧な論理(本人基準)を否定されたことが不満らしく、小さく唇を尖らせる。
「解せないですね」
「何がだよ」
「家としての条件がこれだけ完璧に揃っているのに、どうしてここが『我が家』と呼ばれないのか、という不条理についてです」
「ここはスタジオだ。つまり、仕事場。それ以上の意味はない」
「寝泊まりできる仕事場、ですよ」
「それは単なる労働環境の悪化だろ」
レイはコントロールキーとSキーを同時に叩いた。ハードディスクがカリカリと短い駆動音を立て、最新の進捗データが電子の暗闇へと格納される。
ひよりはその画面の明滅を数秒間だけ見つめ、それから退屈そうに両手を広げた。
「まあ、そんな定義はどうでもいいんですけどね」
「だったら、なんでわざわざそんな話を持ち出したんだよ」
「だって、よく考えてみたら……」
ひよりは毛布を顎のラインまで引き上げ、どこか子供っぽい、しかし嘘偽りのない声音で言った。
「……私、ここにいるの、結構好きですから」
その言葉に対して、すぐに言葉を返す者は誰もいなかった。
窓の外では、六月の終わりを告げる、少しだけ熱を孕んだ夜風がスタジオのガラスを静かに揺らしている。直哉は残りのコーヒーをゆっくりと飲み干し、レイは再び液晶の上に新しい一線を走らせ始めた。そしてひよりは、ごく自然な動作でソファから滑り落ち、フローリングの床の上をごろごろと転がり始めた。
「ほら、見てください」
「何を見ろって言うんだよ」レイがペンを持ったまま、半眼で足元を見下ろす。
「床こそが、人類の究極の帰処なんです」
「お前の論理回路は、一度最初からデバッグした方がいいと思うぞ」
「かもしれませんね」
ひよりは完全に目を閉じ、心地よさそうに身体の力を抜いた。
「でも、この床、すごく落ち着くんですよ」
今度ばかりは、レイも直哉も反論の言葉を組み立てようとはしなかった。なぜなら、その言葉の正しさを証明するかのように、彼らは今夜もまた、この「YLS Studio」という未完成の空間に、等しく肩を並べて居座り続けているからだ。エアコンの排気音に混ざる雨の気配を感じながら、彼らはそれぞれのやり方で、その愛おしい停滞の時間に、深く、心地よく溶けていった。




