第45.8話 「読書」
すべては、終わった。
ただ、それだけのことだった。
夜の二十三時四分。一ノ瀬直哉の自室、デスクの上には一台のスマートフォンが静かに横たわっていた。液晶画面はすでに光を失い、冷たい黒一色に戻っている。耳を澄ませても、深夜の住宅街特有の、遠くを走る車の走行音が微かに聞こえるだけだ。部屋の中は、完全な静寂に満たされていた。
直哉は椅子の背もたれに深く身体を預け、天井の一点をぼんやりと見つめていた。彼は今、何もしようとしていなかった。文字を追うわけでも、読書メーターに感想を書き込むわけでも、次の更新通知を待つわけでもない。ただ、贅沢なほどに空白な時間が、彼の周囲をゆっくりと流れていた。
ふと、他愛のない実感が脳裏をよぎる。
――ここ最近の自分は、ずいぶんと「読んで」いたな、と。
それは唐突で、しかし妙に腑に落ちる小さな覚醒だった。特定の小説を指しているわけでも、お気に入りの漫画を指しているわけでもない。もっと輪郭のぼやけた、概念としての実感だ。自分は確かに、物語を貪るように消費し、その世界に身を浸していた。ただそれだけのことが、なぜか今の彼にとっては、ひとつの足跡のように確かな重みを持って感じられた。
直哉は、これまでに通り過ぎてきた無数の夜を思い返す。
次の展開が気になって、睡眠時間を削りながらスクロールし続けた夜。画面の下に連なる見ず知らずの他人のコメント欄を、なんとなく眺めていた時間。お気に入りの作品の更新履歴を、祈るような心地でリロードしていた瞬間。文庫本のページの間に、お気に入りのしおりを滑り込ませた時の指先の感触。かつて読んだ名作を、何年か越しに本棚から引っ張り出して読み返した日。他人の書いた熱量の高いレビューを読み、胸を熱くさせたこと。そして――橘レイのような友人に、自分が救われた一冊を薦めた、あの少し気恥ずかしい記憶。
忘却の彼方に消え去ったものもあれば、今も鮮烈に思い出せるものもある。どれもこれも、人生の大きな転機になるような劇的なイベントではない。日常の片隅に埋もれる、ありふれた、些細な一コマに過ぎない。しかし、そのすべての中心には、共通するひとつの営みがあった。
「読む」という、ただそれだけの行為だ。
窓の外に目を向けると、深夜の東京が広がっていた。街の灯りはいくつか点在しているが、どれも眠たげに瞬いている。あの光の向こうには、まだ目を覚ましている誰かがいて、あるいはもう深い眠りに落ちた誰かがいるのだろう。そしてもしかしたら――自分と同じように、静かに本を開いている誰かがいるのかもしれない。そんな、突飛で、しかし否定しきれない想像が胸をかすめる。
かつて、読書とは徹底的に個人的で、孤独な営みだと思い込んでいた。本を開いている間、その世界にいるのは自分一人だけのはずだった。しかし、今は少し違う。コメント欄で同じシーンに爆笑していた見ず知らずの誰か。自分とは全く違う、意外な伏線に気づいて考察を巡らせていた誰か。そして、自分が手渡した物語を、これから初めて紐解こうとしている大切な友人。
読むという行為そのものは、どこまでも静かで、一人きりの作業だ。しかし、「読者」であるということは、決して世界で孤立することを意味しないのだと、今の直哉は知っていた。同じ文字を追い、同じ感情を共有した無数の「点」たちが、物語という星座を通じて緩やかにつながっている。
直哉の口元に、自然と微かな笑みが浮かんだ。
本を開く前には分からなかった。読んでいる真っ最中には、意識することすらなかった。しかし、いくつもの物語を通り過ぎてきた今なら、少しだけ理解できる。物語は、最後のページが閉じられたからといって、そこで消滅するわけではない。それは人間の内に居座り、形を変えて記憶の澱となり、時には本人の意図しない瞬間にふわりと蘇る。そしてまた、言葉という器を借りて他者へと伝播し、次の誰かの心に深く根を下ろしていく。
きっと、大昔からずっとそうだったのだ。紙が発明される前、文字が生まれるよりもさらに前から、人間はそうやって物語を繋いできた。
時計の針は、いつの間にか二十三時十九分を指していた。
スマートフォンは沈黙したままで、本棚の書籍たちも一様に口を閉じている。世界には何の変化も起きていない。それでも、彼が「読書」という行為に捧げてきた膨大な時間は、確実に彼の肉体に、精神の深部に、消えない刻印として残されていた。
それは、作品のタイトルや、華やかな名台詞といった記号ではない。自分が「読者」として、物語と一対一で対峙し、共に呼吸をしてきた時間そのものの残滓だ。その時間が、今の直哉を静かに満たしている。
直哉はゆっくりと立ち上がると、壁のスイッチを押して部屋の明かりを消した。
カーテンの隙間から、都会の薄暗い夜光が遮光の部屋にじわりと染み込んでくる。夜はまだ、深い。
世界のどこかで、今も誰かがページをめくっているかもしれない。あるいは、もう誰も読んでいないかもしれない。そんなことは、どちらでもよかった。ただ、ひとつだけ揺るぎない事実がある。
一ノ瀬直哉は、紛れもない一人の「読者」であり、彼は確かに、物語を生きてきた。
ただ、それだけのことだった。彼はベッドに潜り込み、静かな夜の闇へと、心地よく溶けていった。




