第45.5話 「借覧」
ほんの少しだけ、躊躇いがあった。
ただ、それだけのことだった。
夜の二十時十六分。一ノ瀬直哉は自室の本棚の前に立っていた。その手に握られているのは、一冊のコミックスだ。これまでに何度も読み返し、お気に入りの棚に収められていた作品。何度もページをめくったせいで、表紙の四隅はわずかに丸みを帯び、紙の端が白く擦れている。直哉はその使い込まれた本の重みを感じながら、デスクの上に置いたスマートフォンの画面に視線を落とした。そこには、昨日受信したメッセージがそのまま残っている。
『今度、それ貸してよ』
橘レイからの、相変わらず簡素な一言だった。
直哉はしばらくの間、無言でその画面を見つめていた。
「貸す、か……」
小さく呟く。別に、出し惜しみをしているわけではない。むしろその逆だった。自分が心から愛している作品を、他人が読んでみたいと言ってくれるのは、純粋に嬉しいことだ。特にそれが、創作の最前線で戦うレイのような男であればなおさらだ。それなのに、胸の奥に澱のように残るこの奇妙な抵抗感の正体が、直哉自身にもすぐには掴めずにいた。
直哉はコミックスを開いた。第一話の、すでに何度も見たはずのモノクロのコマ。見慣れた台詞、頭の中に完璧に入っているストーリーの起伏。そこには何の新鮮さもない。だからこそ、彼は思考を巡らせる。自分が初めてこの物語に触れた時、一体どんな衝撃を受けたのだったか。どのカットで息を呑み、どの演出に心を揺さぶられたのか。
記憶を掘り起こそうとしてみても、当時の瑞々しい感情のすべてが蘇るわけではなかった。それは当然のことだ。あまりに時間が経ちすぎているし、何度も読み返しすぎた。直哉にとってこの本は、すでに「未知の感動」ではなく、「いつでも帰れる実家」のような場所に変わってしまっている。初めて読んだ瞬間のあの鮮烈なカタルシスは、もう二度と取り戻せないのだ。
しかし、レイは違う。彼はこれから、この物語を「初めて」経験するのだ。
直哉がとうの昔に失ってしまった特権を、レイはこれから手に入れようとしている。
そう気付いた瞬間、直哉の口元に微かな苦笑が浮かんだ。少しだけ、嫉妬しているのだ。すでにその物語を知り尽くしている者が、まだ何も知らない者を羨む。滑稽な話だが、本当に好きな作品であればあるほど、そういう感情は生まれやすかった。あの展開に驚く瞬間の全能感も、先が気になってページをめくる手が止まらなくなるあの焦燥感も、二度目の読書には存在しない。それを今から味わえるレイが、少しだけ眩しく見えた。
パタン、と静かな音を立てて本を閉じる。
この本がレイの手に渡った後、どんな未来が待っているのだろうか。彼がこの作品を大いに気に入るかもしれないし、あるいは「ふーん」と冷淡な感想で終わるかもしれない。多忙な締切の合間に、途中で放り出されてしまう可能性だってある。
だが、直哉はそれで構わないと思った。同じ場所に感動する必要はないし、同じ解釈を共有する必要もない。ただ、自分の中に深く根を下ろしたこの物語が、直哉という器を経由して、別の誰かの元へと旅立っていく。その事実それ自体が、どこか有機的で、悪くない営みのように思えた。
窓の外の夜景に目をやると、時計の針は二十時二十九分を示していた。
コミックスはまだ、直哉の指先にある。しかし明日になれば、この本は全く別の場所にいるはずだ。直哉の本棚ではなく、修羅場と化した「YLS Studio」の乱雑なデスクの上か、あるいはレイの作業バッグの底、あるいは彼のベッドの枕元か。
直哉は本を棚の定位置へと、ゆっくりと差し戻した。
今夜、この本はまだここにある。しかし、暗がりに並ぶ背表紙たちの中で、その一冊だけが、どこか遠くへ出発する直前の旅人のような、微かな緊張感を孕んでいるように見えた。直哉は静かに部屋の明かりを消し、明日訪れるであろう小さな変化を、ほんの少しだけ楽しみに思い始めていた。




