第45.6話 「忘却」
どうしても、思い出せなかった。
ただ、それだけのことだった。
夜の二十一時四十七分。一ノ瀬直哉は、ベッドの上に寝転びながらスマートフォンの画面を眺めていた。液晶の放つ白い光の中に映し出されているのは、ある作品の紹介ページだ。何年も前に熱心に読んだ記憶のある、とある長編小説。ふとした気まぐれで、その世界にまた触れてみたくなった。理由はそれだけだった。タイトルを視線で追い、あらすじをスクロールし、各巻の目次を眺める。
そして――彼の指が、ある名前の上でぴたりと止まった。
登場人物の一人。その文字列を見つめながら、直哉は小さく眉をひそめた。
「誰だっけ、これ……」
口から出た呟きは、静かな寝室の空気に吸い込まれて消えた。名前には確かに見覚えがある。かつてその文字列を何度も目で追ったはずだし、物語の中でそれなりに重要な役割を担っていたキャラクターだったような気もする。しかし、その人物がどんな容姿で、どんな口調で喋り、作中で何を成し遂げたのか、そのディテールがどうしても脳裏に結ばれない。
直哉は画面を見つめたまま、自嘲気味に口元を綻ばせた。
まあ、そんなものだろう。何年も前に読んだ物語だ。そのすべてが脳内の引き出しに完全な形で保管されているはずがない。むしろ、覚えていることよりも、忘却の彼方へ押し流されてしまったことの方が、打率としては圧倒的に高いのだ。キャラクターの名前、舞台となった街の呼称、世界観の細かな設定、本筋とは関係のない幕間のエピソード。それらは時間の経過と共に、砂時計の砂のように少しずつ、確実に意識の隙間から零れ落ちていく。それはきわめて健全で、自然な現象のはずだった。
直哉は画面をスクロールする手を止め、思い出せないその名前をしばらく見つめていた。しかし、焦りや苛立ちはなかった。何かを忘れるということは、決して敗北でも悪でもない。もし、これまでに触れてきたすべての物語、すべての漫画、すべての文字情報を寸分の狂いもなく記憶し続けていたら、人間の脳はとっくに飽和して焼き切れてしまっているだろう。忘れるからこそ、新しい何かを受け入れる余白ができる。忘却とは、人間が手に入れた最も優秀な防衛本能の一つなのかもしれない。
そう思考を巡らせた瞬間、脳裏の暗がりに、全く別の断片がふわりと浮かび上がった。
それは、今探しているキャラクターの名前ではなかった。ある一つの、瑞々しい情景だ。
誰と誰がそこにいたのかは分からない。どんな会話を交わしていたのかも思い出せない。ただ、そのシーンの背景に広がっていた、燃えるような、しかしどこか冷ややかな「黄昏時の空」の色だけが、鮮烈に蘇ってきた。同時に、胸の奥をそっと引っ掻くような、あの切なく淡い「孤独感」の肌触りが、今この瞬間のものとして生々しく復元される。
名前のような記号は失われたのに、エモーションの肌触りだけが遺っている。不思議な選別だった。何が残り、何が消えるのか、その境界線を決めるルールを、直哉は知らない。
直哉は一度目を閉じ、さらに記憶の底を探ってみた。
主人公の名前。これはまだ覚えている。
ラストシーンの顛末。これも覚えている。
脇役たちの名前。全滅だ。
第三巻の中盤の展開。霧がかかったように曖昧だった。
やはり、すべてが残るわけではない。モザイク画のピースがいくつか欠け落ちたような、不完全な記憶。だが、それでいいのだと直哉は思う。読書は試験ではない。すべてを暗記する義務など、最初から誰にも課せられていない。大切なのは、その物語がかつて自分を通過したという事実そのものだ。
目を開け、窓の外へ視線を向ける。
東京の夜は、どこまでも平坦に続いていた。遠くの交差点で、信号機が機械的に色を変えている。赤から緑へ、そしてまた赤へ。深夜の街で、その明滅に注意を払う者など誰もいない。ただ、誰も見ていなくても時間は正確に流れていく。
直哉はスマートフォンの電源ボタンを押し、画面の光を消した。
結局、最後まであのキャラクターの詳細は思い出せなかった。しかし、だからといって、あの物語が自分の中で消滅したわけではない。遺ったものと、忘れたもの。その両方がグラデーションのように混ざり合いながら、彼という人間の一部を静かに形作っている。
薄暗い天井を見つめながら、直哉は思う。物語が人の内に居座るというのは、きっと、そういうことなのだ。完璧な記録としてではなく、曖昧で、それゆえに愛おしい記憶の染みとして。彼は寝返りを打ち、心地よい眠気の中に身を委ねていった。




