第45.4話 「積読」
未だ、読んでいない。
ただ、それだけのことだった。
夜の二十二時二十一分。一ノ瀬直哉は自室にいた。彼は本棚の前に立っているわけではなかった。正確に言うなら、その少し横――デスクの脇の、フローリングの床の上だ。そこに、それらの本はうずたかく積まれていた。数冊、という規模ではない。もっと、ずっと多い。直哉はあえてその正確な冊数を数えようとはしなかった。どういうわけか、数字として直視することは己の敗北を認めるような、妙な居心地の悪さを伴うからだ。
「まあ……」
直哉は小さく、誰に聞かせるでもない声を漏らした。
「そのうち、読むさ」
それは他人への言い訳ではなく、自分自身に対するささやかな免罪符だった。床の上の塔を見下ろす。文芸書の文庫本、大判の単行本、漫画、新書の随筆。ジャンルは雑多だ。どれもこれも、紛れもなく「読みたい」と思って自ら財布を開いたものばかりだった。その瞬間の熱量は本物だったし、今だって失われたわけではない。ただ、それを紐解くための適切な「時間」と「精神の余白」が、まだ訪れていないだけなのだ。
直哉はその中から一冊、比較的最近買ったはずの文庫本を拾い上げてみた。購入した日の光景が、微かなディテールと共に蘇る。駅前の大型書店。ふと目に留まった装丁の美しさと、帯に躍る扇情的な惹句。それを手に入れた瞬間、確かに一種の達成感のようなものが胸を満たしたはずだった。そして――そのまま一度も開かれることなく、この塔の礎石の一つとなった。
奇妙な話だが、人間には「所有すること」そのもので満足してしまう悪癖がある。本を買うという行為は、その中に含まれる未来の読書時間を前借りするようなものなのかもしれない。
視線を落とすと、その下にある本も、さらにその隣の束も、すべて未読のままだ。見つめれば見つめるほど、自分の怠惰の証拠が露わになる。しかし、直哉の胸を満たしたのは罪悪感ではなかった。むしろ、奇妙な安堵感に近い。
ここにはまだ、自分の知らない物語が眠っている。まだ見ぬ言葉があり、出会っていない登場人物たちが息を潜めている。それらはすべて、これから訪れるはずの未来に属していた。未読であるということは、まだ始まっていないということだ。そして始まっていないということは、そこにあらゆる可能性が担保されているという意味でもある。
直哉は手にした本を、元の傾いた塔の上へと静かに戻した。
今夜もやはり、これらを開くことはないだろう。代わりに別の既読の本を読むか、あるいは何も読まずに眠るか。本たちは何も言わず、ただそこに佇んでいる。急かすことも、催促することも、不満を漏らすこともなく、ただ主人がページを繰るその瞬間を何年でも待ち続けている。
その悠然とした姿勢に、直哉は微かな嫉妬さえ覚えた。人間という生き物は、これほど綺麗に「待つ」ことができない。漫画の続刊を待ち、アニメの次シーズンを待ち、メッセージの返信を待ち、常に何かに焦がれて苛立っている。だが、紙の束は違う。ただ静かに、何年も同じ場所で世界が閉じるのを待っていられるのだ。
床の上の積読の山は、重力に従ってわずかに斜めに傾いていた。直哉の雑な性格がそのまま形になったようなその歪な塔を、一度は綺麗に並べ替えようかとも思ったが、すぐに手を止めた。これでいい、と割り切る。この乱雑な風景こそが、すでに彼の日常の一部として深く馴染んでしまっているからだ。
時計の針は二十二時三十三分。
部屋は静まり返り、本棚も、床の上の歪な塔も、同じ静寂を共有している。
すでに読み終えた物語、未だ開かれない物語、忘れ去られかけた物語、そして今しがた再発見された物語。それらがモザイク画のようにこの狭い部屋に同居している。そして、その未開拓の領域の広さこそが、彼のこれからの人生にほんの少しだけの、しかし確かな愉しみを予感させていた。直哉は口元に微かな笑みを浮かべ、デスクの電気を消した。




